五十三話、魔法使いと誠司
ーーかろりん。
呼鈴が鳴る。
磨き上げられた木のカウンターやテーブル、魔具灯の優しい光が、店内に穏やかな温かみを演出している。珈琲の、甘く香ばしい匂いが店中に満ちていて、ドアが開くと外の風がふわりと香った。
「いらっしゃいませ!」
誠司さんはいつものように来客に素早く対応している。薄茶の髪は高い位置にあり、すらりとした長身の彼がお客様を席へとご案内する様はそれだけで目を惹いた。
その日、カウンターのいつもの席に、マルグリットさんが座っていた。フードやローブに隠れがちな銀色の髪は今日は美しく三つ編みの形でまとめられ、透き通るような青い瞳は、いつも通りクールな光を宿している。
しかし、普段とは違うものがあった。彼女の目の前には、何冊もの古びた手記や、精密な魔法陣らしきものが描かれた羊皮紙が束ねられている。
書生さんが持っている書籍や、図書館にあるものとも違うそれらは、どこか不思議な雰囲気を纏っていた。
……魔導書、も表紙を見せてもらったことがあるけれど、それとも違うみたいだし。
「マルグリットさん、いつもの珈琲でよろしかったですか?」
珈琲を邪魔にならないように置きつつ私が声をかけると、彼女は視線を手元から上げ、小さく頷いた。
「ええ。それと、今日は少し長居させてもらうわ。頭を使うから」
「もちろん構いません。どうぞごゆっくり」
その言葉に、私は強く頷いた。
マルグリットさんはクールな反応が多いが、すごく気を遣える人だ。混雑してくる頃を見計らって会計したり、私の顔を見てすぐに心配の言葉をかけてくれたこともあった。
そんな彼女が真剣な顔で長居すると言ったのだから、きっと何か特別な依頼を受けているのだろうと察した。マルグリットさんは、いつもここに来る時仕事から離れてのんびりすることを大事にしているみたいだった。
だけど今日彼女が広げているのは、普段冒険者さん達がしているようなーー魔物討伐や迷宮探索とは異なる、なにか魔法に関わる資料のようだった。
誠司さんも、マルグリットさんの様子に気づいたようで、カウンターと店内を行き来しながら静かに彼女を見守っている。
マルグリットさんは、珈琲を一口飲むと、再び手元の手記に視線を戻した。彼女の細い指が、慎重にページをめくる。
その眉間には、かすかな皺が寄っていた。まるで、解き明かせない謎に直面しているかのように。
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しばらくして、カウンターでごりごりと豆を挽く作業をしていると、マルグリットさんが小さく息を吐くのが聞こえた。
「……困ったわ」
声色は苦い。
その眉間の皺は、冷めきった珈琲の不味さに眉を顰めているようでもあり、目の前の難題に対する苦悶を表しているようでもあった。
「ーー今日は随分と考え込んでますよね。なにか、お困りごとですか?」
そう私が問いかけると、マルグリットさんは顔を上げた。その澄んだ泉のような蒼玉の瞳に、わずかな躊躇と、深い悩みが浮かんでいるように見えた。
「……ギルドから、特殊な依頼を受けているのよ」
彼女はそう前置きし、頬杖をついた。
不貞腐れような、そっぽを向いたその視線は、そのまま彼女の話し難さを表しているようだった。
あまり、公にできない話なんだけど、と彼女は前置く。
「ーーとある貴族の邸宅で、ある人が突然、数年間の記憶を失ってしまったの。病気や怪我でもなく、魔具による事故でもなく……呪いでもない。
ただある日、記憶だけが、ごっそりと。
その原因を探り、もし可能なら、失われた記憶を取り戻す……それが今回の依頼よ」
私は、その話に息を呑んだ。
人の記憶を扱う依頼なんて、普通の冒険者では決して受けられない。私は目の前の彼女がどれだけ凄い人なのか知らないけれど、きっとマルグリットさんだからこそ託されたものなのだろう。
「原因を探るのはまだいいのよ。魔力の痕跡を辿り、精神系を中心に魔法の影響を探る。それだけならこんなに悩まなかった。
けどね、もし記憶を取り戻すとなると……人のーー他人の心に、踏み込むことになる」
銀色の魔法使いの声が、少しだけ、かすれたように聞こえた。
「対象は、年若い娘だそうよ。
記憶は、本来理由もなしになくならない。彼女の失われた記憶が、目を背けたくなるような、辛い出来事だったという可能性もあるのよ。それを無理にこじ開けることが、本当に彼女の幸せになるのか……。
ーー私には、それが分からない」
マルグリットさんは、きっと優しく、強い人だ。
冒険者としてやっていく中で、非情な判断をすることも、感情より損得を優先することもあるだろう。慈善事業でもないし、自分の判断ひとつが仲間や自分の命を危険にさらす可能性もある仕事だから。
それでもなお、他人の心に触れるというのは彼女にとって、また別の重さがあるのだろう。
「ご本人が記憶を取り戻したいと?」
私が尋ねると、マルグリットさんは静かに首を横に振った。
「……いいえ、依頼主は親なのよ。本人は記憶を失った以外に問題はなく穏やかに過ごしていて、今の状況に不満はないらしいわ。
依頼主は、娘に何かあったのかもしれないし、今は平気でもいつか不安になるかもしれないから、戻してやりたいと願っているけれど……」
珈琲カップを両手で包み込むように持ち、彼女は深く息を吐いた。その表情は、複雑な感情で満ちているようだった。
「実際、記憶喪失の喪失感が原因で不安定になる人も、喪失時期の恋人や関係者を名乗る人間が現れてトラブルになることもあるから、依頼主の言い分も間違いではないのよ。貴族的な云々もあるでしょうけれど。
本人も、思い出すことに不安もあるけどなくした記憶が気になる時もあるらしいし……。当然よね、私だって昨日から丸二年間誰とどこで何をしてたか一切思い出せなくなったらびっくりするどころじゃ済まないわ。
それに、魔術的な見地で考えるなら、もし記憶を取り戻したいなら早い方が身体への負担も少ないし、取り戻せる記憶の量も多いのよ。今後10年20年してからその記憶が必要になったとしても、知りたいことを思い出せないかもしれない……」
独り言のようにぽそぽそと落ちる言葉は、マルグリットさんの悩みの深さを現しているかのように長い。
誠司さんが、いつの間にかカウンターの向こうに立っていた。彼の瑠璃色の瞳は、悩める魔法使いをじっと見つめている。
「マルグリットさん。俺は元々軍人でした」
ふと誠司さんが静かに話し始めた。
「上官の命令のままに動くことも多い。
俺がいた場所は特に……命令を遵守することは絶対であるとすらいえます。『迷うな』『躊躇うな』『迷えば味方を殺す』そんな言葉で、人を殺すことを躊躇しないように鍛えられます」
その言葉は暗く、誠司さんの表情すら普段の笑顔を思い出せなくなるほど昏い。
どんなに辛かったのだろう、それを汲み取れない癒せない無力感に私は言葉を失った。
それでも誠司さんはゆっくりと笑顔になった。
いつもより静かで、穏やかな笑顔。
「けれど、人の命や心に関わる時、迷うことは、決して悪いことではありません。
ーーむしろ、あなたが真に力を持つ者だからこそ、その使い道使い方を見誤らないようにしている。それは、誰しもに出来ることではない、とても尊い心ではないでしょうか」
誠司さんの言葉に、マルグリットさんは少しだけ目を見開いた。彼女は顔を上げ、誠司さんの言葉を噛み締めているかのように聞いている。
「そして、あなたは人の心に寄り添える魔法使いだと知っています。きっと、お嬢さんの、そして依頼主の、どちらの気持ちにも、誠実に向き合えるはずです」
誠司さんの言葉は、迷いなくまっすぐだった。
迷いの森に温かい道標を灯していくようなそれに、マルグリットさんの表情から、わずかに緊張が解けていく。しかめっ面が、無表情のようで表情豊かないつものマルグリットさんらしい顔になっていた。
「……そうね。ありがとう、誠司」
彼女が、誠司さんの名を呼んだのは、初めてのことだった。その声は柔らかく、微かに、しかし確かな感謝が込められていた。
私はそっと、花蜜を垂らした温かいレモンティーを出した。いつもは珈琲を好む彼女だが珈琲も三杯目、今は、心が安らぐ甘さが、きっと必要だろう。
マルグリットさんは、温かいカップを手に取り、ゆっくりと口に運んだ。その瞬間、彼女の顔に、ごくわずかな安堵の表情が浮かんだ。
「……この温かさ、落ち着くわ」
彼女の言葉に、私は微笑んだ。
喫茶『星月』は、ただ珈琲を出す場所だけじゃない。時には、人の悩みに寄り添い、心を解きほぐす場所にもなる。
マルグリットさんは、ここでの時間を通じて、その依頼に対する新たな決意を固めたようだった。どう解決するのかはわからない、彼女が話してくれることもないだろう。
それでもきっと大丈夫だと確信できた。だって彼女の瞳には、いつも通り魔法使いとしての確かな光が宿っていたから。
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