幕間五話、二人だけの休日(誠司目線)
かろりん、とドアベルが鳴らない静かな朝。
純喫茶『星月』の店内に、珈琲豆を挽く音も、カップが触れ合う音も、客の賑やかな声も、一切響いていなかった。
休業日の、特別な静けさだ。
いつもは早朝からイオリが明かりをつけ、俺がそれに続くように出勤するのだが、今日は彼女はいない。
眠りが浅く、家にいる気にもなれなくて。
合鍵を使って店に入り、この静寂を噛み締めるように、ゆっくりと過ごしていた。
俺は客席側のカウンターに肘をつき、窓から差し込む朝の光を眺めていた。この普段の喧騒からは想像もつかない静けさが、妙に心地いい。日頃の喧騒が遠のき、頭の中が澄んでいくような感覚だった。
「好きに使っていいって言ってたけどな……」
報告さえあれば、店内のものは好きなように使っていいとは言われているものの、食べたいものもない。
ただぼんやりと珈琲を淹れる。休日の朝の珈琲は、いつもよりゆっくりと、丁寧に淹れることができる。琥珀色の液体がサーバーに落ちていくのを眺めていると、心が落ち着く。
「イオリと知り合うまでロクに飲んだことがなかったのに不思議だ……」
珈琲を飲み終え、俺も少し散歩でもしようかと、店を出た。すると、商店街の角を曲がったところで、見慣れた後ろ姿を見つけた。
「イオリ?」
俺が声をかけると、伊織がくるりと振り返った。手に買い物籠を提げていて、その中には新鮮な野菜がいくつか見えている。
「誠司さん!
こんなところで会うなんて、偶然ね!」
伊織は目を丸くして、嬉しそうに笑った。
その笑顔を見ただけで、俺の心はパッと明るくなる。
「嬉しい偶然だね。買い物?」
「うん、食材の補充です!
夕飯の材料とか、そのあたりを。誠司さんこそお休みの日なのに、こんなところで何してるの?」
「少し、散歩でもしようかと。
荷物持ちに誘ってくれても良かったのに」
伊織は少し驚いたように目をきゅるりとさせて、その後ふふっと笑った。
ころりと鈴を転がすように彼女は言う。
「それじゃあ今から付き合ってくれますか?
その後ご予定なければ、夕ご飯ご馳走しますよ」
「えっ、本当に?」
思いがけない提案に、今度は俺が目を瞬いた。
「誠司さん、いつもお店で頑張ってくれてますから!」
「えええ、ありがとう……」
驚きのまま礼を言うしかない自分に、彼女は「フクリコウセイです」となぜか胸を張った。フクリコーセーがよくわからないが、イオリがにこにこしてるからいいか。
思いがけず、手料理を食べれることになり、じんわりとした喜びがこみ上げてきた。
「何か、食べたいものはあります?」
「イオリの作ってくれるなら、何でも」
俺がそう言うと、彼女は満足そうに頷いた。
「じゃあ、決めた!
今日は『親子丼』にしましょう」
伊織はそう宣言すると、手元の買い物籠を覗き込み、必要な食材があるか確認した。足りないものがあれば、一緒に買い足そうという流れになった。二人で並んで商店街を歩く。
こんな何気ない時間が、俺にとってはかけがえのない宝物だ。
「いいの?」
「お店よりは狭いですけどね」
店ではなく、店舗裏にある伊織の家にお邪魔することになった。元は、洋館の従業員などが寝泊まりする小さな家だったそこは、彼女の人柄を表すような穏やかな内装に生まれ変わっていた。
伊織はすぐにエプロンをつけ、慣れた手つきで食材を準備し始めた。
「お味噌汁は、豆腐とわかめにしようかな。あとは、ほうれん草のおひたしを……」
そう言いながら、彼女は手際よく味噌汁の準備を始めた。温められた鍋からは出汁の香りがふわりと立ち上り、豆腐とわかめが踊る。
もう一つの鍋では、先程八百屋で購入した、茹で上がったばかりのほうれん草が、鮮やかな緑色に輝いていた。
伊織はそれを冷水にとって、軽く水気を絞り、切って器に入れた状態で魔具氷室に入れた。
まな板の上で鶏肉がトントンと心地よい音を立て、玉ねぎが薄くスライスされていく。
熱した鍋に、出汁と醤油、みりんが注がれる。湯気と共に立ち上る甘辛い香りが、あっという間に厨房に満ちていった。
いつも珈琲の香りをふんわりと漂わせている店内と違い、どこか懐かしい匂いに変わっていくのが不思議だった。
実家の記憶に結びつかず、懐かしさは俺に軍の食堂や野営の炊き出しを思い出させた。
鶏肉と玉ねぎが鍋に投入され、くつくつと煮立つ。伊織は、その様子をじっと見つめ、火加減を調整する。真剣な眼差しは、普段お客様の珈琲を淹れる時と何ら変わらない。その横顔を、俺はただ静かに見つめていた。
容姿以上にその真っ直ぐな瞳の美しさが俺を惹きつけてるって君は気づいてる?
「よし、そろそろね」
伊織がそう呟くと、溶き卵を静かに鍋に回し入れた。半熟になり、とろりと鶏肉を包み込む。黄金色の卵が、鍋の中で花開くように広がっていく様は、見事としか言いようがなかった。
全ての料理が、あっという間に膳の上に並べられた。
炊きたてのご飯の上に、黄金色の卵と鶏肉が輝く親子丼。湯気を立てる豆腐とわかめのお味噌汁。そして、醤油と鰹節を添えた、緑鮮やかなほうれん草のおひたし。
どれもこれも、シンプルながらも、伊織の真心が込められているのが伝わってきた。
「はい、誠司さん、お待たせしました」
伊織が、俺の前に膳を置いてくれた。
俺は、その温かさに、思わず息を呑んだ。
「いただきます」
箸を取り、まず親子丼を一口。
口に入れた瞬間、出汁の優しい甘みと、鶏肉の旨味がじゅわっと広がる。とろとろの卵が、ご飯と絡み合い、心をじんわりと温めてくれた。
「……とろっとろ。米と絡んで一体感があるし出汁と鶏の旨味が口いっぱいにくる……!
鶏肉もぷりぷりして食べ応えあるし、お代わりしたい!」
「食べ始めなのに」
「……こほん。美味しいよ、イオリ。本当に」
「良かった。お口に合って嬉しいです」
花咲くように微笑んで、彼女も小さく「いただきます」と手を合わせた。丼物を食べる彼女はなんとも愛らしい。
次に、お味噌汁を一口。ほっとする出汁の味が、疲れた体に染み渡る。
「一人暮らしだと、味噌汁も面倒なんだけどやっぱり染み入る味だね……」
ほうれん草のおひたしは、さっぱりとしていて、親子丼との相性も抜群だった。
普段、喫茶店のメニューにはない、家庭の味。伊織の料理は、いつも創造性豊かで美味しいけれど、この飾らない温かさは、また格別だった。
「ご馳走様」
「お粗末さまでした」
「洗い物は俺がするよ」
膳を片付けようとするイオリから食器を奪い取るようにして言うと、彼女は小さく「わあ」と鳴いた。高めに持てば彼女には届かない。
「そんな、せっかくのお休みなのに」
「ご馳走になったし、これくらいはね」
「珈琲淹れるので、ゆっくりしてていいんですよ?」
店舗のならともかく、自宅の家事を任せることに抵抗があるのかあわあわとしているイオリに俺はにんまりと笑顔をつくる。
「それじゃあ、一緒にやる?
その後二人で一緒に珈琲淹れて飲もうよ」
「……! はい、そうしましょう!」
ぱっと顔を輝かせたイオリに、俺は彼女が罠にかかったことを内心でほくそ笑んだ。
任せきりにせずに済んだと喜ぶ彼女の顔をわざと覗き込んで、言う。
「こうしてると、新婚夫婦みたいだね?」
「なっ……!」
ぼっ、と音を立てるようにイオリの白い肌が色付く。
こうして匂わせていたら意識してもらえるだろうか。もっと積極的にいくべきか。
そんな悩みも今日は楽しく思えた。
たまには純和食で。
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