四十五話、すもものクリームあんみつ
裕子さんがこの街を去っていった。
彼女の純粋な恋心が散り、新しい人生へと旅立っていったことを思うと、胸が締め付けられるような、切ない気持ちになる。
そして誠司さんの「想っている人がいる」という言葉。
知らなかった。好きな人がいたのか、そう思った。
親しげに接してくれていた日々を思い返し、自分かもしれないと思うのは、自惚れだろうか。
でも誠司さんと知り合った頃、彼は確か『今は恋愛とか結婚なんて考えられない』と言っていた。
だから、収入が減っても激務でも構わないーーそんな彼の言葉を思い出す。
ーーもしかしたら、叶わない恋なのかも。
そう思うと合点がいく気がした。
これだけ美形でモテるのだ。恋人がいないのは、叶わぬ恋をしているとか、忘れられない人がいるのかもしれない。
「そんなこと考えても意味無いのに……」
独りごちても返事はない。
彼が私を助けてくれた恩人だということは、ずっと変わらないけれど、それだけじゃない気持ちが、私の中で芽生えているような気がした。
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そんな午後のことだった。
ーーかろりん。
カウンターに一人立っていると、呼鈴が軽やかに鳴った。
磨き上げられた木のカウンターやテーブル、アンティーク調魔具灯の優しい光が、店内に穏やかな温かみのある空間を演出している。
「いらっしゃいませ」
ふらりと店に入ってきたのは、少し疲れた様子の女性だった。髪は纏められているが乱れがみえる。着ている着物はたすきに纏められていたのだろう、袖や袂に皺がよっていた。
小さな手のひらを擦り合わせるような仕草は、どこか居心地が悪そうに見えた。
「あ、あの……一人ですけど、大丈夫ですか?」
彼女は、少し遠慮がちにそう尋ねた。その声も、元気いっぱいとは言いがたく、どこかくたびれているように聞こえる。
「もちろんです。どうぞ、お好きな席へ」
私が笑顔で迎えると、彼女はほっとしたように、店内の奥まったテーブル席に座った。
「こちらをどうぞ。ご注文お決まりになりましたらお伺いいたします」
私が手渡した注文表を受け取ると彼女の顔には、安堵の表情が広がる。
ふと、きょろりと自分の周囲ーー目線を下に見回して、はっとしたように注文表に視線を戻す。その仕草から、勝手な想像だがお子さんがいるのかもしれない、そう思った。
もしかしたら、家族やご近所さんに子どもを預けて忙しい日々の中わずかな時間を見つけて一人で来たのかもしれない。それを匂わせるかのように、彼女には家事の痕跡をしめす少し荒れた手指があった。
「ーーご注文、お伺いいたします」
女性が注文票から顔を上げたのを合図に、軽く近寄って声をかける。彼女は少し迷ったように言った。
「あの……この珈琲と、甘いものを……。なんでもいいので、疲れている時に……心が安らぐようなものをいただけますか?」
彼女の声は、控えめだったけれど、その言葉には、深い疲れと、そして癒しを求める切実な気持ちが込められているのが伝わってきた。
「珈琲は初めてですか?
ーー苦味の強い飲み物ですので、珈琲と牛乳を合わせたカフェオレもご用意できますが……もちろん、初めてで珈琲を選ばれる方もいらっしゃいますよ」
変に遠慮してしまわないように、どちらでもいいのだと笑顔で伝える。
個人的に、飲み慣れないうちに苦手意識が出来てしまうともったいなく感じてしまうのもある。せっかくお金を払って食事してくれるのだから、できるだけ満足してもらいたい。
「ええと……初めてですけど、珈琲にしてみます」
「かしこまりました。心を込めてお作りしますね」
私がそう答えると、彼女は、まるで救われたかのように、ふっと息を吐いた。
彼女のために、どんな甘いものがいいか考える。プリン? それとも、ロールケーキ? フルーツサンド? 疲れた彼女に、ぴったりなのは……?
「うーん……」
「どうかしたの?」
「あ、誠司さん」
食材の在庫チェックをしてくれていた誠司さんがひょいっと顔を出した。今は厨房の食材を確認していたのだろう。
「誠司さんなら『疲れてる時に心が安らぐような甘いもの』をリクエストされたらどうします?」
誠司さんはちらりと女性を見た。
そして私の顔を見て、いつものように笑ってから「そうだなぁ」と続けた。
「……俺なら、クリームソーダは選ばないかな」
イオリなら多分わかるよ。
それだけ言うと、誠司さんはまた作業へと戻っていった。
珈琲を頼まれたので、飲み物系はそもそも除外していたのだが、誠司さんはどうしてクリームソーダはダメだと思ったんだろう。
もう一度、彼女をみる。
若く美しいがどこかくたびれたような女性は、窓の外をぼんやりと眺めていた。
「うん、決めた」
彼女の心の安らぎ、それはきっと炭酸の爽快感とか、見慣れない洋菓子じゃないのだ。
そう思った私は、クリームあんみつを用意する。
賽の目状に切った寒天に、茹でて冷やした赤えんどう豆、杏の蜜煮に、小豆餡。それから抹茶の求肥と白玉、あいすくりん、そして今が旬のすももを添え、黒蜜をくるりと回しかければ完成だ。
目新しさは残しつつ、口にしたことのある餡子や寒天の馴染み深い味わい。すももの華やかな甘酸っぱい酸味と、あいすくりんのとろけるような甘みが、きっと彼女の心を癒してくれるはず。
「お待たせいたしました。
星空珈琲と、すもものクリームあんみつです」
私が珈琲とクリームあんみつを彼女のテーブルに運ぶと、女性は、珈琲の香りをゆっくりと吸い込み、そして、クリームあんみつを目にした瞬間、小さく息を呑んだ。
「……まぁ、なんてきれい……。これは、みつ豆とは違うのね、あいすくりんがのってるわ……」
彼女の瞳に、あんみつがきらきらと映り込んでいる。そして、そおっとスプーンであんみつを掬って一口食べた。その瞬間、彼女の顔に、張り詰めていたものが解けていくような、柔らかな微笑みが浮かんだ。
「……美味しい……」
そのわずかな一言に、彼女のすべての感情が込められているようだった。彼女の目から、一筋の涙が、そっとこぼれ落ちた。
それは、悲しみの涙ではなく、張り詰めていた心が解放された、温かい涙のように見えた。
「毎日、子供たちの世話や家事に追われて、自分の時間なんて、ほとんどなくて……」
彼女は、途切れ途切れに、でも、堰を切ったように話してくれた。
「……そんな私を見かねて、トキ江さん……ご近所さんが、うちの子をみておくから、なにか食べておいで、って……」
「そうだったんですね」
「こんな風に、静かに、ゆっくりと飲み物を飲んで、美味しいものを食べる時間なんて……本当に、久しぶりなんです。
ーー心が、ほっとします」
そう話す彼女の瞳は、もう涙は止まっているけれど、澄んでいて、どこか清々しい。
私は、その言葉に、ただ静かに頷いた。
気がつけば誠司さんも、カウンターからその様子を見ていたらしい。彼の表情もまた、優しさに満ちていた。
裕子さんのことは自分にはもう何も出来ない。
だからこそ私は目の前のお客様の心に寄り添うことをこれからも頑張ろう。誰かを想い、その誰かのために行動するということの、大きな意味を教えて貰った気がした。
目の前の女性が、ゆっくりと珈琲を味わい、あんみつを口にするたびに、その顔に安らぎの色が広がっていく。その姿を見ていると、私の心にも、温かいものがじんわりと広がっていくのだった。
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