四十四話、恋の終わりとソルトクッキー
「よし、焼けた……」
私は出来上がったばかりのソルトクッキーを取り出しながら、ふうと息を吐いた。
ーー裕子さんが、誠司さんに手作りの焼き菓子を渡してから、しばらく経つ。
あの日の彼女の輝くような笑顔と、誠司さんが少しだけ困ったように、笑顔でそれを受け取った姿は、私の心に刻まれている。
彼女は相変わらずこまめにお店に顔を出して以前にも増して、誠司さんとの距離を縮めようと、積極的になっているように見えた。
私が特に気にする必要はないのに。
最近焼き菓子を作る時、こうして思い出して気にしてしまっている自分がなんだか嫌だった。
ある日の閉店間際。
他にお客様もいなくなり、私は洗い場で最後の片付けをしている時だった。誠司さんは、カウンターで、翌日の仕込みの準備をしていた。
裕子さんが、まるで決意したかのように、ぱっと勢いよく立ち上がり、真っ直ぐに誠司さんの前へとやって来た。彼女の顔は、林檎のように真っ赤で、その瞳は、強い光を宿している。
「あの……誠司さん。お話が、あります」
裕子さんの声は、少し震えていたけれど、その言葉には、確かな覚悟が宿っていた。私は、思わず洗い場の水音を止め、そっとその場から離れた。
ーー邪魔しちゃだめだよね。
誠司さんは、彼女の真剣な雰囲気に気づいたのか、ゆっくりと手を止めて、裕子さんの方へと体を向けた。彼の翡翠色の瞳が、優しく、しかし、どこか全てを見通すように、彼女を見つめていた。
「どうしましたか?」
「あの……私、誠司さんのことが……好きです!」
その言葉は、澄んだ音色のように響いた。
裕子さんの声は、震えながらも、真っ直ぐに、誠司さんの心へと届けられた。
彼女の頬からは、感情の昂りなのか、溢れる気持ちの表れなのか。美しい涙が、一筋、また一筋と伝っている。
誠司さんは、その言葉をじっと聞いていた。
邪魔にならないよう離れた私には彼の表情は、窺えない。しかし、なぜか緊張してしまい、つい呼吸をするのも忘れてしまいそうだった。
そして、彼はゆっくりと、しかしはっきりと、口を開いた。
「裕子さん、お気持ち、とても嬉しいです。
ーーですが……申し訳ありませんが、あなたの気持ちにお答えすることはできません。
私には、大切に想っている人がいます」
誠司さんの言葉は、優しかった。
柔らかな声色も、いつも私をからかう時のような軽薄さを微塵も感じない、まっすぐな声。
けれど、その内容はあまりにも明確で、そして、彼女にとって残酷な答えだった。傍目にみていても真っ赤だった裕子さんの顔から、サッと血の気が引いていくのが見えた。
彼女の瞳から、とめどなく涙が溢れ出す。
「そ、そんな……」
裕子さんは、言葉にならない悲鳴を上げるように、唇を震わせた。華奢な肩が震えていた。
彼女の初恋は、あまりにも唐突に、そして、あまりにも鮮やかに、終わりを告げたのだ。
誠司さんは、そんな裕子さんの様子に、やはり心を痛めているようだった。それでも敬語や「私」といった彼のなかの線引きからみても、誠司さんにとって、裕子さんはお客様の一人でしかなかったのだろう。
「……好きになってくれて、ありがとう」
ごめんと謝らないその言葉が正しいのか、恋愛経験の少ない私には分からなかった。
それでも彼女にはなにか伝わるものがあったのか、ぶわっと一際涙を溢れさせて、勢いよく一礼し、裕子さんは駆け出すように店を飛び出していった。
ーーかろりん、と。
孤独に呼鈴が鳴り、裕子さんの姿は完全に見えなくなった。店内に、重い沈黙が満ちた。誠司さんは、未だカウンターの前で立ち尽くしたまま、扉を見つめている。
彼の顔には、微かな苦悩の色が浮かんでいた。
あんなに純粋な恋心が、こんなにもあっけなく散ってしまうなんて。
誠司さんに恋する人は多い。けれど、きっとあんなにまっすぐ全力で向かってきたのは裕子さんが初めてだったはずだ。
きっと誠司さんにも伝わっていた。
本気で伝えてくれたからこそ、本気で答えた。
それが彼女の望まない答えであっても、誠実に彼女と向き合って出した誠司さんの答えだった。
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数日後、裕子さんは、いつものように店に現れた。
けれど、彼女の表情は、以前とは違っていた。頬は少し痩せ、瞳にはどこか諦めのようなーーしかし、凛とした新しい光が宿っている。
彼女は、誠司さんの顔を真っ直ぐに見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「誠司さん、店主さん。ご報告があります。
……私、この街を離れることになりました」
その言葉に、私と誠司さんは、同時に目を見開いた。
「父の紹介でご縁があった方と、結婚することになりました。……もう、この街に戻ってくることも、ないと思います」
息を飲んだ。
裕子さんの声は、静かだったけれど、その言葉は、まるで鋭い刃のように、私たちの心に突き刺さった。
現代のように自由恋愛が当たり前でないこの世界で、こんな話はどこにだって珍しくないはずなのに。いくらなんでも、と思うと言葉が出てこなかった。
彼女の瞳には、微かに涙が滲んでいるけれど、もう、あの日のように嗚咽を漏らすことはない。
狼狽える私とは対照的に、彼女は、もう、初恋の終わりを、受け入れているようだった。
「……そうなんですね。
それは、おめでとうございます」
誠司さんの声は、静かに、温かく響いた。彼の表情には、裕子さんへの心からの労いと、そして、別れを惜しむ気持ちが浮かんでいる。
「はい。……このお店と、誠司さん、店主さんには、本当に感謝しています。ここで過ごした時間は、私の大切な宝物です」
裕子さんは、そう言って、深々と頭を下げた。そして、その澄んだ瞳で、最後に誠司さんを、そして、私を、優しい眼差しで見つめた。
「……さようなら」
そう言って、彼女は静かに店を出ていった。
その背中は、以前よりもずっと、大人びて見えた。
呼鈴が鳴り、裕子さんの姿が、二度と見えなくなる。店内に、再び静寂が戻った。けれども、裕子さんの残した、初恋の切なさ、そして旅立ちの余韻が、重く漂っていた。
私は、なにも言えなかった。
今もどうするべきだったのかわからない自分が情けなかった。もう前を向き始めていた裕子さんは、私よりよほどしっかりしていた。
ーーどうか彼女の門出に幸あらんことを。
ーーそして、裕子さんの初恋が、いつか、素敵な思い出になりますように。
そんなふうに願わずにはいられない。
今日もまた、純喫茶『星月』に、新しい物語が生まれていく。それは、甘く、そして、時に切ない、人生の一頁だ。
おもむろにかじったソルトクッキーは、いつもよりなぜかしょっぱかった。
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続きや続編製作の活力となります!




