四十二話、青年の恋の詩
ーーかろりん。
呼鈴が鳴る。
来店に気づいた誠司さんの、柔らかい声が純喫茶『星月』に響いた。
「いらっしゃいませ!」
磨き上げられた木のカウンターやテーブル、魔具灯の優しい光が、店内に穏やかな温かみのある空間を演出している。
テーブルの上には小さな花瓶があり、季節の花がーー今は白い姫金魚草が飾られている。
最近、店の奥の窓際の席に、よく来る青年がいた。
彼は、いつも静かに珈琲を注文し、本を広げてペラペラとめくっていたり、時折、何かを書き留めるかのようにペンを走らせている。読書が好きなのだろうか、それとも、何かを書き綴っているのだろうか。
そんな彼の姿は、店の穏やかな雰囲気にすっかり溶け込んでいた。
今日も、彼はいつもの席に座り、詩集のようなものを開いている。サラサラとしたクリーム色の髪は、陽の光を受けて柔らかく輝き、その伏せられた瞳は、何かを深く考えているようだった。彼の名は、ノア。
私と誠司さんだけが知る、彼の名前だ。
私は、彼の注文した珈琲を淹れながら、ちらりと彼の様子を伺った。彼の手は、詩集の上で止まっている。視線は窓の外に向けられ、その表情には、どこか物憂げな影が差していた。
「ノアさん、珈琲です。どうぞごゆっくり」
私が珈琲を出すと、彼はハッとしたように顔を上げ、少し驚いた様子で私を見た。
「あ……ありがとうございます」
彼は、静かにカップを受け取ると、再び視線を窓の外へと戻した。彼の視線の先には、大通りを挟んだ向かいの端の古書店が見える。
ーーやっぱり。
私は、彼の視線の意味を、なんとなく察した。彼がじっと見つめているのは、その古書店の店先で、静かに本を整理している女性の後ろ姿だ。
ノアさんよりも少し年上に見える、落ち着いた雰囲気の女性が立っていた。
柔らかな髪をゆるく結い上げ、知的な眼鏡をかけた横顔は、本に囲まれた空間によく似合っている。時折、古びた書物を優しく撫でるその指先は、まるで宝物を扱うかのように丁寧だ。
ノアさんは、彼女をずっと見つめているけれど、決して声をかけようとはしない。彼の瞳には、憧れと、そしてどうしようもない切なさが混じり合っているように見えた。
誠司さんが、そんなノアさんの様子を、静かに見守っているのがわかった。彼もまた、ノアさんの秘めたる想いに気づいているのだろう。
私は、彼の珈琲カップが空になった頃、そっと彼の席へと向かった。
「ノアさん。もしよかったら、もう一杯、お淹れしましょうか?」
私がそう声をかけると、ノアさんはまた少し驚いたように顔を上げた。
彼のカップはとっくの昔に空になっている。
「あ、いえ……もう、十分です」
彼は、そう言いながらも、どこか寂しげに窓の外を見つめる。視線の先、女性の姿は見えない。
「……人の気持ちって、難しいですよね」
私がそっとそう言うと、ノアさんの肩が、ピクリと震えた。彼は、ゆっくりと私の方を見た。その瞳は、隠していた本心を見透かされたように、少しだけ戸惑っている。
「詩って不思議ですよね。単に綺麗な言葉が羅列されているわけじゃない。心の風景を描いているようにすら見えます。
でも、心はーーなんというか、言葉にするのが難しくて、胸にしまい込んでしまうことも、ありますよね」
私の言葉に、ノアさんの目がほんの少しだけ揺れる。
「誰かを想う気持ちは、とても温かくて、同時に、とても切ないものです。
今すぐに伝えないにしても、その気持ちを、そっと言葉にしてみるのも、いいかもしれません。
手紙に書いてみたり、詩に託してみたり……そうすることで、きっと、あなたの気持ちも、少しずつ整っていくはずだと思うんです」
私がそう言うと、ノアさんは、じっと私の目を見つめた。その瞳に、迷いと、そして、かすかな希望の光が宿るのが見えた。彼は、何も言わずに、ただ静かに頷いた。
その日、珈琲代を払って店を出て行った彼の背中は、いつもより少しだけ、しっかりしているように見えた。
数日後。
ノアさんが、再び喫茶『星月』に来店した。
いつもの窓際の席に座り、珈琲を注文する。彼の席は、詩集ではなく、真新しそうなノートと、ペンが置かれていた。
彼は、そのノートをゆっくりと開く。そして、深呼吸をひとつこぼすと真剣な表情で、何かを書き始めた。
窓辺から古書店をそっと見つめながら。彼のペン先が、紙の上を滑るたびに、彼の心の中に秘められた想いが、少しずつ言葉になっていくのだろう。
「イオリは、詩に詳しいの?」
前回の私の言葉を聞いていたのだろうか、ノアさんには聞こえないであろう声量で、ぽそりと誠司さんが問いかけてくる。うーん、と唸りながら私は答える。
「詳しくはないです。
でも私の故郷には『恋は人を詩人にする』なんて格言もありますし、友人も片思いの時は、あんな感じでしたね」
歌の歌詞に自分達を重ねてみたり、ちょっとしたことで一喜一憂したり……恋する乙女だった若き日の友人を思い出す。格言も“恋に肩をたたかれた時には、 常日頃は詩的な調べに耳をかさないような男でさえ詩人になるのだ”なんて訳もあったはず。
「ふぅん……。イオリはどうなの?」
「え?」
「イオリは、誰かに恋したりしたことないの?」
じっと、誠司さんが私の顔を覗き込んでくる。
綺麗な翡翠の瞳が、逃がさないと告げていた。
「……ないですよ」
「そうなんだ?」
どこか訝しむように。
彼の視線は私の心の中を覗き込むかのようだった。
実際、燃えるような恋愛とか、胸を焦がす切ない片思いとか、そんな経験はなかった。だからこそ誠司さんの軽い褒め言葉にも反応してしまうのに。
「ま、前に男がいても関係ないけどね」
にっこりと誠司さんが笑う。
ほら、そういう、ちょっと意味深なことをいうのがずるい。気があるのではと勘違いしてしまいそうなことを言わないでほしい。
誠司さんは、まるでなにごともなかっかのように静かに珈琲を淹れ始める。彼の視線は、ちらりとノアさんの方に向けられていた。
たとえ言葉を交わさずとも、この喫茶店には、誰かを思いやる温かい空気が流れている。
ノアさんの、切なくも美しい片思いが、どうか、温かい形で実を結びますように。彼の詩が、そして彼の想いが、いつか、あの女性に届きますように。
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