三十六話、交差する視線
ーーかろりん。
その日も、ハークさんは、いつものように純喫茶『星月』に姿を現した。
彼は最近、カウンターから少し離れた、壁際の席を選ぶ。口数は少なく、珈琲や食事を静かに味わうだけ。
その存在は、店内にどこか独特の、張り詰めたような空気をもたらしていた。
しかし、それは決して居心地の悪いものではなく、むしろ、空気がぴりっと引き締まるような気がする。
彼は、注文した珈琲を一口飲むと、その無表情な顔で、じっと私を見つめた。
その視線は、まるで何かを訴えかけているかのようだったが、
「すみません、注文いいですか?」
「あ、はい、ただいまお伺いします!」
ーーと、すぐに別のお客様の注文に対応する私の意思は逸らされた。
「いらっしゃいませ。
奥のお席へどうぞ。ただ今注文表をお持ちしますね」
誠司さんが、開店と共に店の外で会った常連客の挨拶を終え、店内へと戻ってくる。
彼の瑠璃色の瞳が、ハークさんの姿を捉えた瞬間、その色が、ほんのわずかに深くなったように見えた。
誠司さんは、いつものように笑っている。
薄茶の髪がさらりと揺れ、カウンターの奥へと進んでいく。しかし、彼のハークさんへの視線は、どこかやはり警戒の色を帯びている。
「誠司さん、そのままサンドイッチもお願いしていい?」
ハークさんが苦手……というのも少し違う気がする。
どうしたものか。そう思いながら、誠司さんには他のお客様の対応をお願いする。
「もちろん。そっち手伝おうか?」
「今は大丈夫です。
あとで、力仕事お願いしますけど」
へらりと笑う顔は、いつも通りで。
私も少しおどけたように返す。
「ご褒美はデートがいいなぁ」
「もう! 誠司さんってば」
からかわれた。
顔を背けるが、誠司さんがくつくつと喉を鳴らす音が聞こえる。笑ってるらしい。
私は、ハークさんのカップが空になっていることに気づき、彼のテーブルへと向かった。
「ハークさん、おかわりはいかがですか?」
私が尋ねると彼は無言でカップを差し出した。
一瞬、声をかけようか、迷う。
先日のことを誠司さんには、迷子になったところを助けて貰ったーーそう伝えてたから。
絡まれたっていえば絶対心配するし、次から必ず自分が着いていくと言われそうで。
休日を私のために使わせるのは気が引ける。
今度誠司さんがいない隙に言おう。
そう決めてカップを受け取り、カウンターへと戻ろうとした、その時だ。
「……その手」
ハークさんの低い声が、私の背後から聞こえた。私は、思わず立ち止まり、振り返った。
彼は、私の右手を見ていた。
先日、酔っ払いに絡まれた時、腕を掴まれた際にできた、アザがまだ治りきってなかった。
「ああ、これは……先日、少しぶつけちゃって。
見た目ほど痛くないので、大丈夫ですよ」
私は、彼に心配をかけまいと、努めて明るく答えた。
しかし、ハークさんは、私の言葉には答えず、ただじっと、その傷を見つめていた。
彼の無表情な顔の奥に、微かな憂いのようなものが浮かんだのは、私の気のせいだろうか。
その時、カウンターの向こうから、誠司さんが、ハークさんとの会話に気づいたように、少し強い口調で言った。
「イオリ、痛むならまた手当し直すよ?
ーーお客様も、どうぞごゆっくり」
その言葉はハークさんへの牽制なのだろう。
彼のハークさんを見つめる瞳が、いつも以上に鋭くなっている。
しかし、ハークさんは、誠司さんの言葉にも動じない。彼は、再び私の手元の傷に視線を戻した。
「……手当は、私がすればよかった」
ハークさんが、ぽつりと呟いた。
その言葉は、あまりにも静かで。
けれど、私にははっきりと聞こえた。
彼の口から、こんなにも直接的な、気遣うような言葉が出るとは思わなかった。
思わずどきりとしてしまう。
彼の無表情な顔の奥に、ハークさんなりの優しさが存在する。
そしてそれが、私に向けられていた。
誠司さんの顔は見えない。
けれど、私の背中側から、明らかにぴりぴりとした空気が漂ってくる。
ハークさんは、そんな誠司さんの反応にも、まるで気づかないかのように、静かに私を見つめ続けていた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「……この街も、夜は危険が多い。
特に、裏路地は。用心した方がいい」
彼の言葉は、先日の出来事を明確に示唆していた。
それは、ただの忠告ではない。私を気遣う、彼なりの警告のようだった。
「イオリは、目立つ」
そう言って、彼は真っ直ぐに私を見た。
赤錆色の髪からのぞくその瞳は私を捕らえて離さない。
どうして? なにが目立つの?
……異世界から来たから?
「……はい。ありがとうございます」
ハークさんはそれ以上何も言わない。
私の気にしすぎかもしれない。
心配してくれてることへのお礼を聞くと、ハークさんは小さく頷いた。
「お客様、本日の珈琲は、いかがでしたでしょうか?」
誠司さんの問いかけは、明らかに会話を切り替えようとしてるように見えた。
ハークさんは、誠司さんの方に視線を移し、いつものように淡々と答えた。
「……悪くない」
彼はそう言うと、静かに立ち上がり、会計を済ませた。そして、私に一瞥をくれると、無言で店を出て行った。
ーーかろりん。
呼鈴が鳴り、ハークさんの姿が見えなくなる。
店内に、再び静寂が戻った。
しかし、私の心には、ハークさんの無表情な顔の奥に垣間見えた優しさと、彼の言葉の含みが、深く残っていた。
そして、誠司さんの、これまでになく露骨な反応も。




