三十四話、休日に一人、路地裏で
今日は休業日。
静けさが心地よい朝、私は一人、買い物に出かけていた。
普段なら誠司さんが一緒に来てくれるけれど、今日は彼にもゆっくり休んでもらいたくて、一人で町を散策がてら、買い物を済ませることにしたのだ。
八百屋で新鮮な野菜を選び、肉屋で上質な肉を仕入れ、商店街をぶらぶらと歩く。
店で仕入れているものとは別で、自分のご飯用だったり、試作用にしようと買った食材は中々の量だ。
この街にもすっかり馴染んだな、なんて思いながら、ふと、少し路地裏に入り込んでしまったことに気づいた。
「あれ?」
一、二本普段の通りからズレただけなのに、薄暗いし、なぜか静かだ。
そこは、以前誠司さんから「一人で近寄らないように」と忠告されていた、あまり治安が良くない通りだった。
迷子になってしまった。
「ーーここ、どこだろう……」
見慣れない古びた建物が並び、人通りも少ない。
少し不安になってきた。
その時だった。
「おい、お嬢ちゃん。一人かい?」
突然、後ろからガラガラの低い声が聞こえた。
振り返ると、顔を赤らめた大柄な男が三人、私を取り囲むように立っていた。
酒の匂いがする。
酔っ払いに絡まれてしまった、みたい。
「何か、ご用でしょうか?」
私は努めて冷静に声を絞り出したけれど、足がすくんで、後ずさりすることさえできない。
買い物籠をぎゅっと握りしめ、どうすればいいのか、頭の中で必死に考えた。
こんな時、誠司さんならどうするだろう。
「へへ、こんな美人が一人でいるなんて、珍しいじゃねぇか」
「ちょっと俺たちと、付き合ってもらおうか?」
男たちは、いやらしい笑みを浮かべながら、じりじりと距離を詰めてくる。
まずい、本当にまずい。
私は、声を出して助けを呼ぼうとした。
その瞬間だった。
「……おい」
静かな、しかし、はっきりと響く声が、私の背後から聞こえた。
男たちが、ぎょっとしたようにそちらを見る。
振り返ると、そこに立っていたのは、先日喫茶『星月』に来店した冒険者ハークさんだった。
彼は、いつもと変わらない無表情。
腕を組み、ただそこに立っている。
しなやかに絞られた体つきは、大柄な酔っ払い達と比べると、一見すると迫力があるようには見えないかもしれない。
けれど、その瞳の奥には、確かな静かな圧力が宿っているように見えた。
「その女から、離れろ」
ハークさんの声は、抑揚がない。
だが、その言葉には、有無を言わせぬ響きがあった。酔っ払いの男たちは、一瞬ひるんだように見えたけれど、すぐに顔色を変えた。
「あぁ?なんだ、てめぇ……!」
「関係ねぇだろ!」
男の一人が、ハークさんに殴りかかろうと手を伸ばした。
しかし、ハークさんは、その手を最小限の動きでかわすと、男の腕を掴み、そのまま流れるように、ほんの少しだけ力を込めた。
「ぐっ……!」
男は、痛みに顔を歪ませ、膝をつく。
もう一人も、いなすように地面に倒された。
ハークさんは、決して暴力を振るうわけではない。ただ、相手の体勢を崩すような、関節を狙うような、静かで的確な動きで、あっという間に男の動きを封じたのだ。
その動きは、まるで水のようにしなやかで、無駄が一切ない。
残りの男は、その様子を見て、顔を青くした。
「ひっ……や、やめろ……!」
「ま、まさか…あんた、あの拳闘士の…!」
男たちは、ハークさんに敵わないと知ると、まるで蜘蛛の子を散らすように、あっという間に逃げ去っていった。
私は、呆然とその場に立ち尽くしていた。
本当に一瞬の出来事だったからだ。
「……大丈夫か?」
ハークさんが、無表情に私に問いかけた。
彼の瞳は、私を心配そうに見ている気がした。
「は、はい……。
あの、助けてくださって、ありがとうございます……!」
私は、慌てて頭を下げた。
本当に、あの時ハークさんがいなかったら、どうなっていたことか。
「……店で、いいか?」
ハークさんは、そう言うと、私の手から買い物籠を、何の躊躇いもなく奪い取った。
重かったのに、まるで苦にしてなさそうだ。
そして、私の返事を待つこともなく、スタスタと歩き出した。彼の背中は、なにも変わらないけれど、なんだか、以前より大きく見えた。
「あ、あの!」
私は慌てて彼の後を追いかけた。
追いつくと、ハークさんは、無言で私の隣を歩き、そのまま喫茶『星月』まで送ってくれた。
その間、彼は一言も話さない。
でも、歩幅を合わせてくれているのが分かる。
隣を歩いていると、不思議と安心できた。
店に着くと、ハークさんは、静かに買い物籠を私の手に戻した。
「ごちそうさま」
「……?」
首を傾げる。
が、それに対しての答えはないらしい。
彼はそう言って、再び、無言で去ろうとする。
「ハークさん!
本当に、ありがとうございました!」
私がもう一度頭を下げると、彼はぴたっと動きを止めた。そして、私の方を振り返った。
その無表情な顔の奥に、ほんの少しだけ、優しい光が宿っているように見えたのは、きっと私の気のせいではないだろう。
「……またな」
彼はそう短く告げると、今度こそ、薄暗くなった日暮れの中へと消えていった。
私は、店内に戻り、ホッと息をついた。
今日起こった出来事を、誠司さんに話したら、きっと心配するだろうな。
でも、ハークさんの、あの静かで確かな強さ、そして、無言の優しさが、私の心に深く刻まれた。
誠司さんのような、包み込むような安心感とはまた違う、静かで、しかし揺るぎない彼の強さ。そして、あの無表情の奥に垣間見えた、ほんの少しの優しさ。
ハークさん。
彼は、やっぱり不思議な魅力を持つ人だ。




