三十三話、海の揺籃ミルクティー
ーーかろりん。
呼鈴が鳴る。
大正ロマンを彷彿とさせる深い色のカウンターやテーブルは、艶が出るほどに磨き上げてある。
その日は、朝からしとしとと雨が降っていた。
窓の外は、水滴が滑り落ちる音と、石畳を濡らす鈍い光に包まれている。
外の薄暗さを補うように、魔具灯の優しい光が店内に穏やかな温かみのある空間を演出していた。
そんな、どこか物憂げな午後に、あの海色の髪の女性が再び店を訪れた。
彼女の髪は、雨露を含んだかのように、いつもより一層しっとりとした輝きを放ち、そのウェーブはより深く色づく。
揺れる海色の髪はまるで波のようだ。
耳元のティアドロップ型のアクセサリーは、本物の水滴が固まったかのように、きらきらと光を反射している。
彼女は、窓際の席に静かに腰掛けた。
その大きな瞳は、絶えず窓の外の雨を見つめている。どこか遠い場所に心を馳せているような、寂しげな雰囲気をまとっていた。
「いらっしゃいませ。
……温かいお飲み物をお持ちしましょうか?」
私が声をかけると、彼女はふわりと微笑んだ。
その微笑みは、雨の日の薄暗い店内に、一筋の光を灯したかのようだ。
「……ええ。温かいものを、お願いします」
彼女の声は、やはり、今にも消え入りそうなほど小さく、囁くような声だった。
誠司さんも、彼女の存在に気づいたようだ。
珈琲の用意を取り出しつつも、迷うようにちらりと私の方を見た。
違うもののほうがいいのかもしれない。
と、いう意味だろうか。
確かに、この彼女の物憂げな雰囲気と、強さのある珈琲は不似合いな気がした。
「かしこまりました。
……よろしければ、お客様用に海の揺籃ミルクティーはいかがですか?
温かくて、きっと心が落ち着くと思います」
彼女の瞳が、わずかに揺れた。
その海色の瞳が、私の言葉に反応したのがわかる。
「……海の……揺り籠……?」
彼女の声が、ほんの少しだけ、好奇心を帯びたように聞こえた。
「ええ。ハーブティーに牛乳と『蒼玉茘枝』のシロップを加えた少し珍しいミルクティーです。優しい香りがしますよ」
「……それを、お願いします」
「かしこまりました。少々お待ちください」
ベースはリラックス効果の高いカモミールティーだ。
この街ではハーブ類が向こうにいた時よりずっと安価で手軽に手に入る。
濃いめにカモミールティーを淹れ、牛乳を注いで沸騰直前で火を止める。
そして蒼玉茘枝のシロップを加える。
実が濃い青色をしている不思議な果物だが、味は華やかで香りが強い。実は、紫陽花ゼリーの時も、青い色を付けるのにこのシロップを使った。
湯気と共に立ち上る香りは、甘くエキゾチックだが、カモミールの落ち着いた香りが合わさってミルクティーは上品にまとめられている。
「ーーお待たせいたしました。『海の揺籃ミルクティー』でございます」
言いながら彼女の前に置くと、彼女は白い泡と薄い水色が液体が揺れるカップをじっと見つめた。
そして、そっと両手で包み込むように持ち、カップに顔を近づけ、深く香りを吸い込んだ。
彼女の瞳が、ゆっくりと閉ざされた。
その表情は、まるで遠い故郷の風景を思い描いているかのようだ。
「……この香り……」
彼女の声は、小さく、消え入りそうだった。
けれど、その響きには、深い安堵と、そして、かすかな悲しみが混じり合っているように聞こえた。
彼女は、ミルクティーをこくり、と飲んだ。
そして、その瞬間、彼女の瞳から、一筋の雫が、静かに伝い落ちた。ーーまるで、彼女の心を覆っていた氷が、温かい飲み物によって溶かされたかのようだ。
「……温かい」
彼女は、そう呟くと、再び窓の外の雨へと視線を戻した。そして、その美しい唇から、さらに、か細い声が漏れた。
「……故郷の………海は、もっと……」
その言葉は、そこで途切れた。
彼女は、それ以上何も語らなかったけれど、その瞳の奥には、広大な海の風景が、確かに広がっているように見えた。
もしかしたら、彼女は、本当に海に関係する人なのかもしれない。
人魚、あるいは、海の精霊……?
私の想像は、膨らんだ。
誠司さんも、カウンターの向こうで、静かに彼女の様子を見守っている。彼の視線もまた、彼女の持つ、神秘的な魅力に惹きつけられているようだった。
彼女は、ミルクティーを飲み終えると、静かに会計を済ませた。
「ごちそうさまでした。……ありがとう、ございました」
その小さな声には、心の底からの感謝が込められているように聞こえた。
そして静かに店を後にする。
ーーかろりん。
呼鈴が鳴り、彼女の姿が見えなくなる。
「……誠司さん。今の、お客様……」
「少し前に来た人だよね。
ミルクティー、口に合ったみたいで良かったね」
彼の言葉に、私も同意した。
彼女の海色の髪、ティアドロップのアクセサリー、そして、あの物憂げな表情。
その全てが、彼女がただの人間ではないことをーーしかし、その心は私たちと同じように温かさを求めていることを、示しているようだった。
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