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三十二話、二人きりの梅仕事

 




 かろりん、とドアベルが鳴らない静かな朝。


 純喫茶『星月』の店内に、珈琲豆を挽く音も、カップが触れ合う音も、客の賑やかな声も、一切響いていなかった。


 休業日の、特別な静けさだ。


 今日は、私と誠司さん、二人きり。

 この静けさが、妙に心地いい。

 店舗ではなく、店舗裏にある私の家の縁側は柔らかな光が、差し込んで暖かい。



「誠司さん、梅、たくさん手に入ったんだけど、どうしようかなって」



 言いながら、山盛りの青梅を指差した。

 昨日市場で仕入れてきたものだ。

 アク抜きのために、金盥(かなだらい)に水を入れて、昨日からさらしている。


 つやつやと輝く梅は、見ているだけでも爽やかな気分になる。初夏の訪れを感じさせる、清々しい香りが、ほのかに漂っていた。



「見事な梅だね。……って言っても俺は梅をどうしたらいいのか知らないんだけど……」



「梅干しくらい?」と、おどけたように誠司さんが言った。

 彼の瑠璃色の瞳は、好奇心に満ちている。



「梅干しもいいですね。

 ーーせっかくだから、梅シロップと、梅酒を作ってみようかと思ってました」



 私の提案に、誠司さんは少し目を丸くした。



「それはいいね。

 イオリの作る梅シロップと梅酒、きっと美味しいだろうな。

 ……完成したら、二人で乾杯する?」



 覗き込んでくる翡翠の瞳は蠱惑的だ。

 なんとなく距離の近さを感じる。



「いいですよ」



 と、頷くと、彼は嬉しそうに破顔した。



「じゃあ、約束ね。

 ……俺、梅仕事は初めてだけど、手伝うよ」


「はい、約束です。

 ありがとうございます、実はそのつもりで声をかけてたり……」


「うわーやられたー」



 おどけたように誠司さんは言う。

 最初から、時間があれば手伝ってほしいと声をかけていたので、本当におどけているだけなのだろう。


 彼が隣にいてくれるだけで、どんな作業も楽しくなるから不思議だ。



「よし、じゃあ始めましょう」



 まずは、アク抜きしていた梅をザルに上げ、清潔な布巾で一つ一つ丁寧に水気をとる。

 ここで手を抜くとカビが生える。


 その間、誠司さんと他愛ない話をした。


 最近来店したお客様のことや、新しい食材の仕入れのこと。そんな何気ない会話が、この休日の穏やかな時間を、より一層特別なものにしてくれる。



「梅って、いい香りだね。

 まるで、森の中にいるみたいな」



 誠司さんが、梅を鼻に近づけて、ふわりと微笑んだ。その横顔があんまりにも美人すぎて、私はなぜか気恥しくなった。


 洗い終わった梅は、一つずつヘタを取り除く。小さな竹串を使って、梅のヘタを丁寧に取り除いていく作業は、意外と集中力がいる。


 誠司さんも、黙々とヘタ取りを手伝ってくれた。彼の大きな手が、繊細な作業をしているのが、なんだか新鮮だった。


 軍人として厳しい訓練を積んできたであろう彼が、こんなにも細やかな作業を真剣にこなしている。

 ギャップ萌えな気がした。



「誠司さん、手が大きいのに、器用ですね」


「手、大きい?」



 男性としてはわからない。

 けれど、私と比べれば一目瞭然だろう。



「大きいですよ、ほら」



 ぴたりと手を合わせれば、大人と子どもくらいの差があった。

 誠司さんはなぜか目をそらす。



「……まあ、昔はさ!

 剣を振るだけじゃなくて、こういう内職じみた仕事もあったし、色々な作業をしてたからさ」



 ぽち、ぽち、とヘタはつつき落とされる。



「イオリの隣で、こうして作業できるのは、嬉しいよ」



 そうか、軍人だった頃は、もっと色々なことをしていたのだろう。

 現代の自衛隊などでも、戦闘以外の訓練も多いと聞いたことがある。


 そんな彼が、今、私の隣で、こうして梅のヘタを取ってくれている。そのことが、私には、じんわりと嬉しかった。


 誠司さんがなぜ軍をやめてしまったのか。


 私は深くは聞けていない。

 けれど、彼の言葉の端々から、誠司さんが今、望んでここに居てくれているのが伝わっていた。



 ヘタを取り終えたら、次に梅をプツプツと刺していく。こうすることで、梅のエキスが出やすくなるのだ。


「この作業、なんだか地味だけど、意外と楽しいんですよね。美味しい梅シロップや梅酒にするためには、このひと手間が欠かせない……と個人的には思ってます」



 私がそう呟くと、誠司さんが頷いた。



「愛情は手間に出るっていうしね。

 美味しいものをつくるための努力をイオリは惜しまないんだね」



 そうかも、と頷いた。

 料理も、珈琲も、手間をかけたぶんだけ返ってくる。



「ねぇ、誠司さん。

 この梅シロップと梅酒ができたら、何か新しいメニューを考えたいですよね」


「例えば、どんな?

 俺にはシロップを使って『梅ソーダ』にしたり『梅かき氷』にしたりするくらいしか思いつかないよ。

 きっと、夏の暑い日にぴったりだろうけど」


「それもいいですね。

 紅茶に入れても美味しいと思いますよ。爽やかな香りが、お客様に喜ばれそう」



 私の言葉に、誠司さんも楽しそうに頷く。



「梅酒の方も、ケーキに入れたり、肉料理の隠し味にするのもいいんですよ」


「食欲がそそられる……!

 イオリが作った料理で外れたことがないのが怖いよ……!!」



 梅酒を使った、ちょっと大人なデザートや、カクテル風の飲み物。

 甘酸っぱい梅と肉料理はすごく相性がいい。


 この喫茶店で、新しい可能性が広がっていくのが、今から楽しみで仕方なかった。


 梅の準備が整ったら、いよいよ瓶詰めだ。大きな硝子(ガラス)瓶を熱湯消毒し、しっかりと乾かしておく。



 まずは梅シロップから。

 瓶の底に梅を敷き詰め、その上に氷砂糖をたっぷりと乗せる。さらに梅、氷砂糖と交互に重ねていく。



「こうやって層にしていくと、なんだか綺麗だね」


「まるで、宝石箱ですね。

 この透明な瓶の中で、梅のエキスがゆっくりと溶け出していくのを見るのも楽しいですよ」



 次に、梅酒だ。

 こちらも、梅と氷砂糖を交互に瓶に入れていく。

 そして、最後に、お酒を静かに注ぎ込む。

 透明な液体が、梅と氷砂糖の間をゆっくりと満たしていく。


 アルコールの独特な香りが、甘酸っぱい梅の香りと混ざり合い、これから熟成していく過程を想像させる。



「これで、あとは待つだけです。数ヶ月後が楽しみですね!」



 私がそう言うと、誠司さんが頷いた。


 私たちは、並んで完成した瓶を眺めた。

 梅シロップの瓶は、まだ透明な氷砂糖がキラキラと輝いている。梅酒の瓶は、琥珀色の液体が、これからゆっくりと色づいていくのだろう。



 休日の、二人の静かな梅仕事。


 梅の甘酸っぱい香りが漂う中で、私たち二人の絆も、ゆっくりと、しかし確実に深まっていく。


 この喫茶店が、お客様にとっての憩いの場であるように、私にとって、誠司さんの存在そのものが、何よりも安らぎの場所なのだと、改めて感じた。




お読み頂きありがとうございました!

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