幕間三話、冒険者との翌日
作中の時間軸は、二十六話の翌日になります。
ーーかろりん。
呼鈴が鳴る。
「いらっしゃいませ!」
イオリの明るい声が、今日も純喫茶『星月』に響いた。入ってきたのは藍色の絞り染めが良く似合う男性と、消炭色の袴姿の男性だ。
彼女に直接言ったことはないが、普段なら出来るだけ男性の接客は自分が担当するように気をつけていたのだが、ぼうっとしてしまっていたのだろう、彼女に先を越されてしまった。
イオリが、注文表片手に彼らの元へ向かう。
「こちら注文表です。……あ、はい、お決まりですね、お伺いいたします」
おだやかに微笑みながら接客をするイオリはいつも通りに見えた。朝の仕込み時は新しい試作の話でにこにことしていて、むしろいつもより元気なくらい。
ーー昨日の、アランという冒険者の来店は、俺の心に静かな波紋を残していた。
イオリが、店の前で酔い潰れていた男を介抱した時のことは、もちろん覚えている。俺が来たあとのそいつが逃げるように立ち去ったことも。
だが、まさかその男が、あそこまで印象を変えて、再び店に現れるとは思いもしなかった。
体格は元々良かったし、冒険者と言われても納得していたが、泥だらけのボロボロの姿から一転して現れたのは、引き締まった体躯と整えられた身だしなみ。
彼は、イオリの前で、あの日とは違い、自信ありげに振る舞った。
ーー覚えててくれたか。よかった。
ーーあんたに顔を覚えてもらいたくて、今日はちゃんと身綺麗にしてきたんだ。
あの時の彼の言葉が、俺の脳裏に焼き付いている。そして、あのやわらかそうなイオリの頬が、花が色づくように赤らんだことも。
俺の視界に、はっきりと入っていた。
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閉店後、俺とイオリは、いつものように店の片付けをしていた。だが、俺の心は、まだ昨日の出来事から解放されずにいた。
「誠司さん、どうかしました?
今日はずいぶん静かでしたね。何度か声をかけても大丈夫って言われてるし、その、気にしすぎかもしれないけど……」
イオリが、俺の顔を覗き込むように尋ねてきた。
本当に心から気遣ってくれてるんだろう、眉を下げて聞いてくる彼女の優しい声に、俺の心は少しだけ和らぐ。
だが、その柔らかな声も、今の俺の胸のざわつきを完全に消し去ることはできなかった。
「いや、なんでも。
ただ、最近は色々なことがあったから、少し考え事をしていただけだよ」
俺は、肩を竦めてそう答えて、へらりと笑う。
なんでもなかった顔をして、ぐるぐるとした思考は頭の奥に追いやって。グラスを磨く手元に意識を集中させた。
だが、俺の視線は、無意識のうちに、昨日アランが座っていたカウンター席へと向かっていた。
「そうですね。
リリーちゃんのお花を置くようになったり、カンナさんが通ってくれたり」
「カンナさん、最近頻繁だよね」
「はい、ありがたい限りです」
ふふっとイオリが笑う。
細められた目の奥では、夕焼け色の豹獣人が気風良く振舞っているのだろう。
「コウくんが鍛冶屋に弟子入りしたり、ハークさんやアランさんみたいな冒険者さんも増えましたし……本当に、色々な人と出会っていますね」
その言葉に、俺の胸はさらに締め付けられた。
彼女の無邪気な言葉には、何の他意もないだろう。
だが、俺にとっては、彼らが、まるで俺とイオリの間に、見えない壁を築こうとしているかのように感じられてしまうのだ。
ーー否、もっといえば、彼らは彼女と仲を深めようとしているように見える。
特に、アラン。
彼は、ハークのようなミステリアスな存在とは違う。太陽のように明るく、ストレートで、そして、イオリへの好意を隠そうとしない。
その率直さが、彼の魅力なのだろう。
だが、だからこそ、俺の心には、これまで感じたことのない種類の感情が湧き上がってくる。
それは、嫉妬だった。
俺が、これまで静かに守り続けてきたイオリ。
異世界に一人放り出されて、心細さを隠しながら気丈にあろうとしてきた彼女をずっと支えてきたのは自分だ。
彼女が、俺以外の男に、あの屈託のない笑顔を向けるたびに、俺の胸には、微かな痛みが走る。
俺とイオリの関係は、店主と従業員、そして、互いに信頼し合う家族のようなものだ。
だが、それ以上の関係へと進むことを、俺自身、一歩踏み出せずに、拒んでいる気がした。無意識で、俺の過去が、彼女を巻き込むことを恐れているのかもしれない。
しかし、アランのように、何の躊躇もなく、真っ直ぐに彼女へと向かう存在が現れたことで、俺の心は激しく揺さぶられた。
ーー……イオリは優しいからほっとけないよね。
ーーでも、あまり見知らぬ男の人を、安易に店に入れるのは賛成できないな。
いつかの俺の言葉が、脳裏をよぎる。
あの時の俺の声は、どれだけ落ち着かなかっただろう。ボロボロの男の目の前で無防備に笑う彼女に、腹が立ちさえした。
それでもまだ、彼女の安全を考えてだと、言い訳できたのに。
ーー……ああ、なるほど……。
ーーそれでも彼は、少しフランクすぎじゃない?
昨日の俺はきっと、露骨だっただろう。
アランのフランクな態度に対する不快感と、イオリを独り占めしたいという俺自身の未熟な感情が、あのように表に出てしまった。
ーー大丈夫ですよ、誠司さん。
ーー私は、誠司さんがいてくれるっていつも思ってます。あなたの存在があるからこそ、私は安心してこの世界で生きていけてるんです。
ボロボロのアランを介抱していたあの日のイオリが放ったあの言葉。彼女の無邪気な信頼が、俺の心を温めると同時に、さらに強く、彼女を守りたいという気持ちを掻き立てる。
俺は、イオリにとって、この喫茶店にとって、なくてはならない存在でありたい。誰よりも傍で、彼女を支え、守る存在でいたい。
アランやハークのような、突然現れた「強烈な光」とは違う、静かで、しかし確かな存在として、伊織さんの隣に立ち続けたいのだ。
「それじゃあ、お先に失礼します。誠司さん」
「うん、お疲れ様。俺ももう帰るよ」
ぺこりと頭を下げたイオリは、ふんわりと笑う。
仕事の凛とした姿とはまた少し違う、気の抜けたようなその姿は、等身大の彼女を感じさせた。
「はい、お疲れ様です。……おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
彼女の背を見送って、店の灯りを落とす。
彼女もいない、静まり返った店内には、珈琲の残り香だけが、ほのかに漂っている。
俺は、自宅に戻っても、なかなか寝付けなかった。窓の外の暗闇をじっと見つめながら、俺は自問する。
俺は、イオリにとって、どのような存在なのだろうか。
俺のこの気持ちは、純粋な愛情なのだろうか。
醜ささえ感じるこの独占欲は、彼女を支配したいという下卑た欲求なのだろうか。
そんなつもりは、ないけれど。
純喫茶『星月』がある方角を見つめる。
星月も、彼女も、今は静かに夜の帳に包まれている。そして、その中で、俺の心はイオリへの深い想いと、未来への不確かな予感に、静かに揺れ動いていた。
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