三十話、読み聞かせと試食会
そして、イベント当日。
朝からしとしとと雨が降り続いていたが、予約をしてくれたお客様が、皆時間通りに店に集まってくれた。普段とは違う、特別な雰囲気が店内に満ちている。
カウンター席には、ゴローさんがいつもの珈琲を片手に、少し照れくさそうに座っている。その隣には、コウくんが、まだ珈琲を少し苦そうにしながらも、興味津々でこちらを見ている。
奥のテーブル席では、リリーちゃんが目を輝かせ、豹獣人のカンナさんはニコニコと豪快な笑顔で新作メニューの登場を待ち望んでいる。
ヨネさんも、いつもの席で腕を組み、不満そうな顔をしながらも、どこか楽しみにしているのが見て取れた。
「皆様、本日は足元の悪い中、『読み聞かせと新作メニュー試食会』にお越しいただき、誠にありがとうございます」
私が冒頭の挨拶を終えると、誠司さんがにこやかに続けた。
「本日の読み聞かせのため、共立図書館司書のアイリス様にお越しいただきました。
そして、私とマスターが、この梅雨の季節に合わせた新作メニューをご用意いたしました。
ーーどうぞ、心ゆくまでお楽しみください」
温かい拍手の中、アイリスさんが前に出た。
彼女は、静かに絵本を広げた。
「皆様、本日はお集まりいただき、ありがとうございます。
梅雨の雨音は、時に憂鬱に感じるかもしれませんが、本の世界は、どんな天気の日でも、私たちを温かく包み込んでくれます。
本日は、雨の季節にちなんだ物語をいくつか選んでみました」
アイリスさんの穏やかな朗読が、店内に響き渡る。
選ばれた絵本は、雨粒がキラキラと輝く森の物語。しっとりとした彼女の声は、聞く人の心を落ち着かせ、物語の世界へと誘っていく。
子どもたちはもちろん、大人たちも皆、真剣な眼差しで絵本を見つめ、アイリスさんの声に耳を傾けていた。
店内のざわめきが消え、まるで時間が止まったかのような、静かで贅沢な空間がそこにはあった。
「へぇ、こんな話もあるんだな」
ゴローさんが感心したように呟き、コウくんは静かに物語の世界に浸っているようだった。リリーちゃんは、目をキラキラさせてアイリスさんの声に聞き入り、カンナさんは、普段の冒険者らしい荒々しさを忘れ、穏やかな表情で物語に耳を傾けていた。
ヨネさんも、腕を組んだまま、時折、小さく頷いているのが見えた。
読み聞かせの合間に、音を立てないように気を払いながら、私と誠司さんは新作メニューを運んだ。
今回は梅雨の時期に合うように、涼やかで色鮮やかなものを選んだ。
一つは、紫陽花ゼリー。
鮮やかな紫や青、白の小さな花びらのように見立てた小さな錦玉を透明な丸いゼリーにいれ、紫陽花を作った。口に入れると、ほのかな甘みと、優しい香りが広がる。
翡翠草のシロップを使い葉の形にした葛切りを添えれば、まるで、雨上がりの庭に咲く紫陽花をそのままグラスに閉じ込めたような一品になる。
「わぁ、綺麗!」とリリーちゃんが歓声を上げ、カンナさんも「これは、食うのがもったいないな!」と珍しい声を上げていた。
もう一つは、枇杷と杏仁のパウンドケーキ。旬の甘い枇杷を贅沢に使い、杏仁クリームと合わせてしっとりと焼き上げたパウンドケーキだ。
杏仁豆腐で有名な杏仁は、漢字の通り、あんずの仁ーー核の部分を乾燥させたものだ。薬膳や漢方にも使用されている。
つまり、この間の杏ジャムを作った時に、杏仁も確保していたのだ。へへん。
枇杷の爽やかな酸味と甘みが、杏仁のまろやかな風味と絶妙に絡み合い、後を引く美味しさになっている。
二つを引き立てる刺激としてカルダモンを隠し味に入れてある。生姜の仲間であるこのスパイスが、単調にならない秘密だ。
「このパウンドケーキ、しっとりしてて美味いな!」とゴローさんが満足そうに頷き、ヨネさんも「ふん、悪くねぇな」と、珍しく素直な感想を漏らしていた。
お客様たちは、美しい見た目と、梅雨の季節にぴったりの爽やかな味に、皆が舌鼓を打った。
アイリスさんは、絵本の読み聞かせの後に、短い短編小説の朗読も披露してくれた。
雨の日の静けさを描いた、少し切ないけれど温かい物語。登場人物の“僕”が語る細やかな心情が、アイリスさんの優しい声により縁取られる。
その穏やかな朗読は、参加者たちの心を深く揺さぶったようだった。
読み聞かせの最後には、アイリスさんが図書館の案内をした。
「ーー本日の物語はいかがでしたでしょうか。
図書館には、今日お読みした本のように、様々な世界が皆様をお待ちしています。雨の日でも、晴れの日でも、いつでも皆様にとっての特別な場所でありたいと願っています。
ぜひ、共立図書館にも、足をお運びください」
イベントは大成功だった。
お客様が記入してくれたアンケート用紙には、「またやってほしい」「こんなイベントがあるなんて知らなかった」「図書館に興味が湧いた」「新作メニュー、とても美味しかったです」といった、喜びの声がたくさん集まっていた。
雨は止まないが、その日の彼らは、心ゆくまで物語と味覚を堪能し、気分良く過ごしてくれた。
「伊織さん、誠司さん、本当にありがとうございました!
こんなに素晴らしいイベントになるとは……」
アイリスさんは、イベント終了後、深々と頭を下げた。その瞳は、達成感と感謝の気持ちで輝いている。
「どういたしまして。
でも、この成功はアイリスさんの朗読が、本当に素晴らしかったからですよ」
私がそう言うと、誠司さんも頷いた。
「ええ、多くのお客様が、本に興味を持ってくださったことでしょう」
このイベントが、図書館の利用者を増やすきっかけになったことを、アイリスさんが報告しに来てくれるのは、もう少し先の話だった――。
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