二十七話、初夏の香る杏ジャム
ここは異世界。
私はある日突然、迷い込んでしまっていたらしい。
箒で店先を掃く。
心地よい日差しは、徐々に暑さを運んできている。
大正ロマンや昭和レトロ、そんな言葉が似合いそうな街並みには、私が生きてきた世界との大きな違いがあった。
それは甲冑や皮の鎧を身につけた『冒険者』と呼ばれる人々や、獣の耳や尻尾、表皮をもつ『獣人』と呼ばれる人達である。
兎耳の少年は、郵便配達員のキャスケットを被り、バッグから紙の束を覗かせている。
純喫茶『星月』開店準備中です。
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「誠司さん、仕入れの搬入、お願いしていいですか?」
「構わないよ。すぐ戻るね」
にっこりと笑う誠司さんは、そう言って裏口へと向かって行った。彼のさらさらの薄茶色の髪と、瑠璃色の瞳が輝いている。彼目当てのお客様もいるくらい彼の容姿は人目を引くのだろう。
私は、厨房で新しいメニューの準備を進めていた。
季節は初夏。
日差しは強くなり、爽やかな風が心地よい季節だ。
こんな時期にぴったりの、新しいトーストを考えていた。
今回の主役は、杏だ。
現代日本ではあまり生で見かけることのなかったこの果物だが、この異世界で初めて見た時、その鮮やかなオレンジ色と、甘酸っぱい香りに心を奪われた。
これを、どうにかして喫茶店のメニューにできないかと、ずっと考えていたのだ。
「チーズケーキに杏ジャムを塗ったのがすっごく美味しいのよね」
これがあれば、それも出来るのだと思うと胸が踊った。ふふふ、と一人で笑ってしまう。
まずは、黒麦パンを準備する。
これは、普段使っているふわふわの食パンとは違い、黒っぽく、全粒粉やライ麦のように、風味が強いのが特徴だ。このパンを、トースターで香ばしく焼き上げていく。
じんわりと温まり、表面がカリッとするまで。
その間に、杏ジャムの準備だ。甘酸っぱい杏を、花蜜でじっくりと煮込んでいく。砂糖ではなく、蜂蜜のような「花蜜」を使用することで、単調な甘さにならずに、華やかな味になる。
鍋の中で、潰した杏がとろりと溶け出し、花蜜と混ざり合って、琥珀色の美しいジャムへと変わっていく。甘く、どこか懐かしい香りが、厨房いっぱいに広がった。
「いい匂い……」
トーストが焼き上がったら、熱々のうちに牛酪をたっぷり塗る。溶けた牛酪が、黒麦パンの香ばしさと絡み合い、食欲をそそる香りを放つ。
そして、その上に、きらきらと輝く杏ジャムを贅沢に乗せる。あんずの鮮やかなオレンジ色が、黒麦パンの深い色合いに映えて、まるで絵画のようだ。
「……っ、ん〜〜! 美味しい!!」
出来上がったトーストを頬張るとじゅわわ!っと口いっぱいに杏の味が広がり、思わず声が出た。
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「いらっしゃいませ!」
営業時間になると、からりん、と呼鈴が鳴り、お客様が来店し始める。常連のゴローさんや、ご新規様が『星月』を賑やかにしてくれる。
「イオリ、カフェオレの注文入ったんだけど俺作ろうか?」
「あ、はい、ありがとうございます!」
喫茶店とはいえ、軽食があることや、冒険者の方がよく来てくれるからか、昼もお客様には恵まれている。
「杏の匂いがするね。メニューにはないのかい?」
カウンター席に座った、髭を蓄えた老紳士がそう声をかけてくれた。
「ふふ、バレました? 自家製の杏ジャムを朝につくりまして……」
「ほほう、トーストにつけてくれんか?」
にやり、と笑う老紳士に私は微笑む。
ステッキを持つ彼は、片手で豊かな髭を撫で付けてこちらを見ている。
「かしこまりました。厚切りの食パンにも、黒麦パンにもおつけできますが……」
「厚切りの黒麦パンだね。珈琲も頂こう」
私が出した候補を組み合わせた提案をしてくるなんて、敵わない。
そう思うとつい笑ってしまう。
黒麦パンを厚く切って、魔具トースターで香りが出るまで焼く。冷ましていた杏ジャムを取り出し、ゴロゴロの果肉ごと贅沢にトッピングする。
「お待たせいたしました。
杏の蜜煮トーストでございます!」
私がそう言うと、老紳士は目を丸くした。期待の籠るその視線はトーストにきらきらと輝く杏ジャムに釘付けだ。
他の席のお客様たちも、その美しい見た目と、甘酸っぱい香りに、皆が目を輝かせた。
「こっちにも、それを……!」
追加の声に、誠司さんが対応に回る。
ザクッ、老紳士は髭が汚れるのも厭わず大きな口でかぶりついた。
一口食べると、あんずの甘みと酸味が、黒麦パンの香ばしさとバターのコクに絶妙に絡み合い、初夏の爽やかな風を感じさせる。
「これは、美味い!」
唸るように老紳士が言う。
半分ほど食べてから、珈琲を上品に口へ運んだ。
「初夏らしい杏の蜜煮は甘酸っぱく、珈琲にあうものかと思っていたが、これが不思議と珈琲によく合う」
「ありがとうございます」
「杏は妻の好物でね。……次は、妻と来ることにしよう」
老紳士は満足そうに頷いた。
珈琲豆の種類にもよるが、実は、オレンジなどの柑橘や、ベリーなど、珈琲だって紅茶と同じくらい果物と相性がよいものもあるのだ。
「このトースト、見た目も華やかで、朝から幸せな気分になるわね」と、近くのテーブルに座っていた女性客が微笑んだ。「爽やかで、いくらでも食べられそうだ」と、その連れの男性も頷いている。
今日もまた、純喫茶『星月』には、杏の甘酸っぱい香りが漂い、お客様たちの笑顔が溢れている。
お客様にとって、季節の移ろいを感じ、新しい味に出会える場所になっていることが嬉しくて、私は、新しい杏メニューを考えようと心に決めるのだった。
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