幕間二話、雨上がりの日(誠司目線)
定休日の朝。
温かい珈琲の匂いが漂う店内とは対照的に、俺の部屋は、どこかひんやりとして、寒々しい。匂いも、畳と埃の、美味しさの欠片もないような匂いしかしない。
何もない自宅の天井を見上げて、俺はため息を吐いた。
「何か買いに行くか……」
食欲もないが、食べない訳にもいかない。
軽く身なりを整えて、家を出る。施錠して外に出ると、雨上がりの湿度高い空気が俺の頬を撫でた。
昨日の荻野との会話が、ぐるぐると終わりなく頭の中で繰り返される。
ーー誠司殿ほどの御方が、なぜ……!
ーー軍を辞められ、このような場所で……!
荻野の声が、俺の耳にこびりついて離れない。彼は、俺がかつて軍に所属していた時、ずっと近くにいた数少ない直属の部下だった。新人の頃から俺の傍にいたあいつは、俺を尊敬してくれていたし、相棒になりたいと、言ってくれていた。
そんなあいつの言葉は、俺が選んだ道を、真正面から否定するものだった。
俺は、確かに自分でこの道を選んだ。
あいつからすれば、裏切られたと思っていることだろう。それも、仕方ない。
あの日、異世界から迷い込んだイオリと出会い、彼女を守ると決めた時、俺の心は迷うことなく、軍を辞めることを選んだ。
けれど、恋に浮かされて、そんな選択をしたわけじゃない。
表向きは優秀な軍人として振る舞っていたが、あの場所は、元々俺には合わなかった。規律だけを重んじ、暴力を是とする風潮、そして上層部の醜い権力争い。
俺が本当に守りたいと願うものを、あの場所では守れない矛盾に、ずっと苛まれていたのだ。
だが、荻野の言葉は、俺が、俺自身の選択に、本当に自信を持てているのか、という問いを突きつけてきた。
俺が背負ってきた「白瀬・アリオルト・誠司」という存在は、俺が思う以上に、多くの期待や、役割を負っていたのだろう。
実家で常にその存在を疎まれてきた俺にとって、唯一自分の価値を証明できる場所だと、信じ込もうとしていたのかもしれない。
命の危険がある仕事だから、死んだっていい。生きてるにしても、栄誉ある仕事として周りの評判は悪くないだろう。……そうして逃げ込んだ先で出会った仲間や信頼は、かけがえないもののはずだ。
それを捨てて、俺は本当に良かったのか。
俺の選択は、正しかったのか。
街を歩きながら、俺は無意識のうちに、いつもとは違う裏路地へと足を踏み入れていた。石畳のひび割れ、壁の落書き、そして、少しだけ淀んだ空気。
あの頃の俺は、冷徹に、効率的に、ただ任務を遂行するだけの機械のようだった。感情を殺し、余計な事は考えないようにしていた。
そんな自分から、俺は逃げ出したかったのか。
ーーもしや、もしや誠司殿のは、まだ、上総殿の……
荻野の言葉は、俺の心をざわつかせた。
あれは、俺にとって忘れられない過去だ。俺の未熟さゆえに、上総殿は軍を離れざるを得なくなった。
上総殿の件についても、自分は一生抱えて生きて行くのだと思う。
けれど今はあの喫茶店と、そしてイオリの存在が、俺に新しい生きる意味を与えてくれたのだ。
俺は、ふと、立ち止まった。
目の前には、古いパン屋があった。以前、イオリが「ここのパンは素朴で美味しいんですよ」と話していたのを思い出す。彼女は、本当に些細なことにも喜びを見つけ、それを俺に分け与えてくれる。
その無邪気な笑顔が、俺の心をどれだけ救ってくれたことだろう。
ぐるぐると、思考の渦から抜け出せないまま、俺は再び歩き出した。どこへ行くというあてもなく、ただ、このざわつく心を落ち着かせたいと願って。
その時だった。
「誠司さん?」
聞き慣れた、そして、俺が何よりも求めていた声が、俺の耳に届いた。俺は、ハッと顔を上げた。
そこには、買い物籠を提げた、イオリが立っていた。柔らかな日差しが、彼女の笑顔を包み込んでいる。彼女の顔には、俺を見つけた驚きと、そして、俺を気遣うような優しい表情が浮かんでいた。
「イオリ……」
俺は、思わず彼女の名を呼んだ。彼女の姿を見た瞬間、俺の胸を締め付けていた重苦しい感情が、すっと、まるで霧が晴れるように消えていくのを感じた。
「奇遇ですね。天気もいいしお散歩ですか?
私も、ちょっと散歩がてら、買い出しに来てたところです」
イオリは、屈託なく笑う。その笑顔は、どんな暗闇も照らし出す、温かい光のようだった。
「……ああ。俺も、少し……散歩に」
俺は、そう答えるのが精一杯だった。
胸がぐっと熱くなって、なぜか泣いてしまいそうな気持ちになる。冷えた心が和らいでいく。
彼女の存在が、俺の心をこんなにも落ち着かせてくれる。昨日まで、そして今朝まで俺を苛んでいた感情の波が、彼女の笑顔と声によって、穏やかな凪へと変わっていく。
「ねえ、誠司さん。この後、もしよかったら、一緒にこの前話したパン屋さんに行きませんか?
新しいパンが出てるかもしれないんです!」
イオリが、俺を見上げて、無邪気に誘ってくれた。その誘いは、俺の心の重荷を、何の気兼ねもなく取り去ってくれる。
「……ああ。ぜひ」
俺は、そう答えた。
イオリは、嬉しそうに頷いた。
明日から、またいつもの喫茶『星月』での生活が始まる。温かい珈琲の香りに包まれ、イオリの笑顔が溢れる、俺の大切な場所だ。
俺の過去が、どれだけ複雑で、どれだけ重いものであろうと、あの場所が、そしてイオリの存在が、俺の心を、いつも穏やかな場所へと導いてくれる。
雨上がりの空が、少しずつ澄んでいくように。俺の心もまた、イオリのおかげで、明日からのいつも通りの生活へと、静かに思いを馳せていくのだった。
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