十九話、将校さんと星空珈琲
白瀬・アルトリオ・誠司。
純喫茶『星月』で働いてくれている従業員であり、私の命の恩人でもある彼は、以前は国営の軍に所属していた。
彼は、彼なりに選択して今ここにいる。
けれど、全てがすべて、彼の判断を肯定してくれるわけではないのだ。
そんな当たり前のことを、私は忘れていたーー。
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ーーかろりん。
店に入ってきたのは、軍服をきっちりと着こなした若い将校さんだった。背筋がピンと伸びていて、いかにも真面目そうな雰囲気。
その顔になぜか見覚えがあった。
「あれ……?」
妙な既視感に目を瞬く私の隣で、珈琲を淹れる練習をしていた誠司さんが、ぴたりと手を止めた。彼の表情は、一瞬だけ硬くなったように見えた。
「誠司さん、知り合い?」
「ああ。前の……部下だよ」
はっとした。
そりゃあ見覚えがあって当然だ。
そういえば、私がこの異世界に迷い込んできた時、呆然と立ち尽くす私に最初に声をかけてくれたのが、誠司さんと、そしてこの将校さんだった。
あの時は、誠司さんの隣にいた彼はすぐに別行動になったのもあり、あまり気に留める余裕もなかったが、よくみればあの時と変わらない様子の男性が、直立していた。
「……荻野、どうした?」
誠司さんが、いつもの柔らかな声とは少し違う、低い声で声をかけた。将校さんは、誠司さんの顔を真っ直ぐに見つめたまま、カウンター席にまっすぐ向かってきた。
「誠司さん……いえ、誠司殿。お久しぶりであります」
荻野さんというらしい将校さんは、誠司さんに対して、まるで上官に接するように礼儀正しい言葉遣いで挨拶した。その様子に、私は少しだけ緊張した。
普段の誠司さんからは想像できない、彼の過去の一端を垣間見たような気がしたからだ。
「いらっしゃいませ、荻野さん。お飲み物は何になさいますか?」
私がメニューを差し出すと、荻野さんはちらりと私に視線を向けた。その瞳は、冷たくて、私を測るような、どこか探るような色をしていた。
「……珈琲を。砂糖や牛乳は不要です」
「かしこまりました」
私はすぐに珈琲の準備に取り掛かった。誠司さんは、荻野さんの目の前で静かにグラスを磨いているが、楽しくお喋りする雰囲気ではなかった。二人の間に流れる空気が、いつもとは違う、張り詰めたものに感じられた。
丁寧に珈琲を淹れる。
ネルフィルターにとぽとぽとお湯を注ぎ、柔らかな珈琲がサーバーポットに落ちていく音だけが、店内に響く。
私は、二人の様子を伺いながら、少しだけ不安になった。荻司さんが、なぜここに来たのか。その理由が、なんとなく予想できている気がして。
「お待たせしました、星空珈琲です」
私が珈琲を差し出すと、荻野さんは無言でそれを受け取った。そして、一口飲むと、静かに口を開いた。
「……誠司殿。なぜ、ここにいらっしゃるのですか」
その言葉は、まるで尋問のようだった。私の心臓がどくっと跳ねた。やはり、そうきたか。
誠司さんは、グラスを磨く手を止めず、穏やかな声で答えた。
「見ての通りだ、荻野。ここで、マスターの喫茶店を手伝っている」
「しかし!
誠司殿ほどの御方が、なぜ……! 軍を辞められ、このような場所で……!」
荻野さんの声に、少しだけ感情がこもった。彼の誠司さんへの尊敬と、今の状況への戸惑いが、ひしひしと伝わってくる。私は、思わず隣に立つ誠司さんの方を見た。彼が、どんな顔をしているのか、気になった。
誠司さんは、静かにグラスを置き、荻野さんの目を真っ直ぐに見つめた。その美しい瑠璃色の瞳は、いつもの軽薄さのある彼とは違う、強い光を宿していた。
「荻野。俺は、ここで、大切なものを見つけたんだ」
彼の言葉に、私は息を飲んだ。胸のあたりが締め付けられるような感覚。
ーー大切なもの。
それは、この喫茶店のことだろうか。それとも……。
「大切なもの、と申されましても……!」
喘ぐような、苦しそうな声。
「誠司殿の力は、この街の、いや、この国の平和のためにこそ、使われるべきではありませんか!
どうか、軍にお戻りください!
皆、誠司殿の帰りを待っております!」
荻野さんの言葉は、真剣だった。
彼がどれほど誠司さんを必要としているのか、痛いほど伝わってくる、誠司さんがたくさんの人に慕われていたことも、その言葉から感じ取れた。
少しだけ罪悪感を感じてしまう。
私が異世界から来たせいで、誠司さんは軍を辞めてしまったのだろうか、と。
誠司さんは、そんな荻野さんの言葉を、じっと聞いていた。そして、ゆっくりと、しかしはっきりと、口を開いた。
「荻野。お前の気持ちは嬉しい。だが、俺はもう、あの場所には戻らない」
その言葉に、荻野さんの顔から、サッと血の気が引いた。
「なぜ……!?」
「言っただろ、大切なものを見つけたんだ」
同じことを繰り返されても、荻野さんは納得できなかったんだろう。
実直そうな瞳が、バッとこちらを見た。その視線の強さに思わずたじろいでしまう。しかし、こちらを見たのは一瞬で、焦げ茶の瞳は誠司さんに向けられた。
「元々、辞めようと思ってたんだ。
イオリや、この喫茶店のことはなにかの導きかもしれないと思ったが、それだけだ。
彼女に変な敵対心を向けるなよ」
「……誠司殿。
もしや、もしや誠司殿のは、まだ、上総殿の……」
「荻野」
ぴしゃり。
冷たい音だった。
戸惑いながら何かを言おうとした荻野さんも、一瞬で口を閉ざす。
呆然とした彼の顔には、誠司さんが戻らない悲しみや、触れられない壁があることの虚しさ。そんな感情が溶けているようだった。
「……誠司殿……」
彼は、それ以上何も言えず、珈琲をぐいっと一口に飲むと、静かに立ち上がった。
「……失礼いたしました」
荻野さんはそう言って、深々と頭を下げると、足早に店を出て行った。
ーーかろりん。寂しげな呼鈴が鳴り、荻野さんの姿が見えなくなる。
店内に、再び静寂が戻った。
ただ、私と誠司さんの間には、先ほどの会話の余韻が、重く漂っていた。
「……誠司さん」
なんと言っていいかわからないまま声をかけると、誠司さんは私の顔を真っ直ぐに見た。その瞳は、いつもと同じ優しい色をしている。
「心配かけた? 大丈夫」
誠司さんはそう言って、私の頭にそっと手を置いた。その温かい手に、私の心は落ち着きを取り戻していく。
「私……誠司さんのこと、全然知らないんですね」
「これから知ってくれればいいよ。
俺も、イオリのこと、全然まだ知らないって思ってるし」
いつものように努めて明るく笑う彼の言葉に、私の胸は、温かさと、少しの切なさでいっぱいになった。
雨上がりの空のように、私たちの関係も、少しずつ、新しい色を帯びていくのかもしれない。
雲のかかる空を見上げながら、私はほんの少しだけ、彼のまだ知らない過去に思いを馳せたーー。
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