十四話、朝とボロボロの男
かろりん。まだ夜明け前の薄暗い時間。
純喫茶『星月』の呼鈴が、私の手で静かに鳴る。ひんやりとした朝の空気が、店内に流れ込んできた。
「よし、今日も一日、頑張ろう」
私は小さく呟いて、店に明かりをつけた。
レトロなデザインの魔具灯が、ぽつりぽつりと温かい光を灯し、店内に穏やかな雰囲気が広がる。
まずは窓を開けて空気を入れ替え、床を掃き、テーブルを磨く。ネルドリップの珈琲器具も丁寧に洗い、今日の珈琲豆を挽く準備をする。この、開店前の静かな時間が、私は結構好きだった。一日が始まる前の、清々しい空気。
ふと、窓の外に目をやった時だった。店の前の石畳に、何かが転がっているのが見えた。最初はただの荷物かと思ったけれど、よく見ると、それは人影だった。
「えっ……?」
私は慌てて店の外に出た。
そこにいたのは、ボロボロの服を身につけた、大柄な男の人だった。顔は土気色で、ひどく酔い潰れているのか、酒臭く、ぐったりと横たわっている。
冒険者らしい、動きやすそうな防具を身につけているけれど、泥だらけで、あちこちが擦り切れていた。
「大丈夫ですか!? もしもし!」
慌てて思わず肩を揺すってみたけれど、男の人はぐったりとしたままで、ピクリとも動かない。血の匂いではなく酒の匂いがするのがせめてもの救いか。いや、それにしたって、これはよくない。
昨晩、どこかの酒場で飲み比べでもして、そのままここで酔い潰れてしまったのだろうか。
こんなところに放っておくわけにはいかない。
私は一度店に戻り、お盆に水が入ったコップと水差し、温かいおしぼり、それからブランケットを持って再び外に出た。
「あの……少しでも、楽になりますように」
一瞬どうしようか迷ったが、男の人の顔をそっと拭き、水を口元に近づけてみた。こくりと少しだけ、喉が動いたのが分かった。それから、冷えないように、ブランケットをそっとかけてあげる。
がっしりとした身体は、どうやっても私には動かせそうにない。誠司さんはまだ暫く来ないし……と、しばらくそうしていると、男の人の瞼が、ゆっくりと持ち上がった。
ぼんやりとした瞳が、私を捉える。
「……ん……?」
「大丈夫ですか?
ここで酔い潰れていたようですけど……」
私が声をかけると、男の人は何度か瞬きをして、状況を理解しようとしているようだった。
「……ああ……悪い……。飲みすぎた……」
掠れた声でそう呟くと、男の人はゆっくりと体を起こした。その動きは、まだ少し覚束ない。
「水、どうぞ」
私がコップを差し出すと、男の人はそれをがしっと掴み、一気に飲み干した。
「ぷはぁ……、助かった……」
彼はそう言って、息を吐いた。
なんとなく、顔色も先ほどよりマシな気がした。
さっきまではそんな余裕がなかったけれど、近くで見ると、顔には傷跡がいくつかある彼のその瞳の奥には、どこか優しい光が宿っているように見えた。そして「ありがとな」とこちらを見る仕草は、笑顔が明るくてチャーミングな印象を受けた。
「ここは……えーと、喫茶店か……?」
「はい、純喫茶『星月』です。開店前ですが、もしよかったら、中で少し休んでいきませんか?」
私がそう言うと、男の人は少し躊躇うように私を見た。
「いや……。悪いな、あんたに迷惑かけちまった」
「そんなことないですよ。
困っている人を放っておけませんから」
私がそう言うと、男の人は少しだけ驚くように目を開いた。ぐぅ、と彼のお腹が鳴る。
「胃に優しいものでも何か作りますね」
「……あんた、優しいな。俺はアランだ。冒険者やってる」
アランさんはそう言って、ゆっくりと立ち上がった。まだ少しふらついているけれど、なんとか自分の足で立てるようになったようだ。
入口付近の席にとりあえず腰掛けてもらう。
「私は伊織です。この店の店主をしています」
「イオリ、本当に助かった。礼を言う」
アランさんはそう言って、深々と頭を下げた。
その時、店の裏手側から誠司さんが出勤してきた。
「イオリ、おはよう……って、誰? その男は」
誠司さんの声が、いつもより少し低い。彼の瑠璃色の瞳が、アランさんを警戒するように見つめている。
誠司さんは、私が見知らぬ男性とと二人きりで話していることに対して、少し複雑な気持ちを抱いているように見えた。
「誠司さん、おはようございます。
この方はアランさん。店の前で酔い潰れてたようだったので、少し休んでもらっていました」
私が説明すると、誠司さんはアランさんから私へと視線を移した。彼の表情は、まだ少し硬い。
「そう。……お加減はいかがですか?」
誠司さんはアランさんにそう声をかけたけれど、その声には、どこか落ち着かない響きがあった。彼の視線が、私とアランさんの間を、何度か行き来しているのが分かった。
アランさんは、誠司の視線を感じ取ったのか、少し居心地が悪そうに頭を掻いた。
「いや、俺の方こそ、迷惑かけちまった。本当にありがとうな、イオリ」
アランさんはそう言うと、私に軽く頭を下げ、立ち上がった。朝食だけでも、と呼び止めるのも、笑顔で断ると足早に彼は立ち去っていく。
ーーかろりん。
呼鈴が鳴り、アランさんの姿が見えなくなる。……いっちゃった。
「……大丈夫だった?」
誠司さんが、すぐに私の隣に寄ってきて、心配そうに尋ねた。彼の顔には、まだ少し不満そうな色が残っている。
「大丈夫ですよ。誠司さん、心配してくれたんですよね、ありがとうございます」
そう言われてやっと誠司さんは少しだけ表情を緩めた。けれど、彼の瞳の奥には、まだ何か言いたげな感情が揺れているのが分かった。
「……イオリは優しいからほっとけないよね。
でも、あまり見知らぬ男の人を、安易に店に入れるのは賛成できないな」
誠司さんの言葉に、私は目を瞬いた。珍しく不機嫌そうな態度なのはそれだけ心配をかけたのだろう。
荒くれ者の冒険者やならず者、物取りなんかもいるこの街の治安を考えれば私のほうが不用意だったかもしれないと反省する。でも。
「大丈夫ですよ、誠司さん。
私は、誠司さんがいてくれるっていつも思ってます。あなたの存在があるからこそ、私は安心してこの世界で生きていけてるんです」
弾かれたように彼はこちらを見た。
今日だって、もうすぐ誠司さんが来てくれるってわかってたし、信じていた。
翡翠の瞳はぱしぱしと瞬いて、それからお客様を虜にするその顔が、ほんの少しだけ赤くなったように見えた。誠司さんの視線が、私から逸らされる。
今日もまた、星月喫茶の新しい一日が始まる。そして、私と誠司さんの関係も、少しずつ、変化していくのかもしれない。
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