幕間一話、雨の日(誠司目線)
ざあざあ、ざあざあ。
窓の外は、土砂降りの大雨だった。
まるで空に穴が開いたみたいに、途切れることなく雨粒が降り注いでる。こんな天気じゃ、さすがに客足も途絶える。普段は賑やかなこの店も、今日はひっそりと静まり返っていた。
純喫茶『星月』、本日も、営業中ーー。
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カウンターの奥で、俺は磨き上げた硝子の器を棚に戻す。伊織は、窓の外をぼんやりと眺めていた。普段はどんな時でも明るく、笑顔を絶やさない彼女だが、さすがに今日は少しだけ、肩を落としているように見えた。
「こんな雨じゃ、お客さんも来ないですね……」
ぽつりと落ちたその言葉には寂しさが滲んでいて、俺の胸はわずかに締め付けられる。
「仕方ないよイオリ。
こんな日は、みんな家でゆっくりしたいだろ?」
俺は慰めるようにそう言いつつ彼女の隣に立った。
雨で湿度が高いのか、珈琲の香りが、いつもより濃く店内に漂っている気がした。
静まり返った店内に二人きり、それだけなら珍しくないとはいえ、ゆっくりとした時の流れを感じるこんな時間は、滅多になかった。
伊織は、俺の言葉に少しだけ顔を上げた。その瞳は、雨の日の光を映して、いつもより深く、吸い込まれそうに見えた。
「そうですね……。
でせっかく美味しい珈琲も食事も用意してるのに、誰にも届けられないのは、少しだけ残念で」
仕方ないことなんですけどね。彼女はそう言って、また窓の外に視線を戻した。
その横顔を見て、俺はたまらない気持ちになった。寂しそうなその瞳はどんよりとした雨空を見ている。振り続ける雨が窓硝子を叩いていた。
異世界から来て身寄りのない伊織にとって、人と触れ合える時間の重要さが現れているようだった。
そりゃあ、家族も誰もいないんだ。寂しいよなあ……。
それが入れ込みすぎと思っても、どうにかして彼女の寂しさを吹き飛ばしてやりたかった。
何か、彼女を元気づけることはできないだろうか。
「イオリ、あのさ……もしよかったら」
俺は、逡巡してふと頭に浮かんだことを口にした。
「……ええと、この前、新しい珈琲豆を仕入れただろ? まだ試してなかったんじゃない?」
伊織が、ハッと顔を上げた。その瞬間に、ぱあっと表情が明るくなったのが分かって、俺は内心、ホッと息をついた。
「あ! そうでした! すっかり忘れてました……!」
ぱちん!と、手を叩く仕草で彼女は言った。
俺の内心なんて知らないだろうけれど、彼女の顔に、いつもの明るさが戻ってきて、俺はへらりと頬を緩めた。
「せっかくだし、今から淹れてみない? 二人で味見するとか」
「うん、そうしましょ!」
この笑顔が見たかったんだ、と俺は思った。
伊織は黒目がちな瞳をまるで星空のようにきらきらと輝かせつつ、テキパキと準備を始めた。
先日行商人から買った新しい珈琲豆の袋を開けると、今まで嗅いだことのない、深く芳醇な香りが店中に広がった。
「わぁ…! これは、すごい香りですね!」
伊織の瞳は好奇心にきらめいていた。くんくんと犬のように鼻を近づけて匂いを嗅いでいるのも可愛い。豆の状態を見るその顔はとても真剣で、どれだけ彼女が仕事に真摯に向き合っているかがわかった。
ころころと変わる彼女の表情を見ているだけで、俺の心は満たされていく。ああもう、可愛いな。
ごりごり、ごりごり。
一定のリズムで刻まれる粉砕機の音が雨音に重なった。ネルフィルターをセットし、粉末にしたばかりの珈琲を入れた。そして焦らずゆっくりと、丁寧に珈琲を淹れていく。
伊織は、俺の手元をじっと見つめていた。
「誠司さん、珈琲を淹れるのが上手になりましたね。最近は誠司さんが淹れてくれたものも安心してお出しできますし、誠司さんが珈琲を淹れているところを見てると、なんだか心が落ち着けるんです」
まさか、そんな風に言われるなんて。
予想外の言葉に、俺の心臓は高鳴った。珍しく顔が熱くなるのを感じたけれど平静を装う。
「ありがとう。イオリに教えてもらった通りにやってるだけだよ。先生の教え方がいいんだね」
そう答えるのが精一杯だった。
やがて、こっくりとした深い色の珈琲がサーバーに落ちていく。湯気と共に立ち上る香りは、雨の日の静かな店内に、温かさを運んでくるようだった。
「さあ、できたよ」
俺がカップに珈琲を注ぎ、伊織に差し出すと、彼女は嬉しそうにそれを受け取った。普段は二人ともブラック派だが、試飲の時は砂糖と牛乳も用意する決まりがあるのでポットを置いておく。
「ありがとう、誠司さん。いただきます」
伊織は、ゆっくりと珈琲を一口飲む。
その美しい黒曜の瞳が、ふわりと細められた。
「美味しい……! 今まで飲んだことのない味ですね。深いけど、後味がすっきりしてる……」
「そうだね。西方の『竜眼豆』だっけ。
加熱前が金色なのと、豆に筋のある形が竜眼のようだって言われてるとか?」
「うん。コクが深いのに、後味があんまりにも爽やかで、天に昇って消えた龍を思わせる……」
俺は、彼女の笑顔を見ながら「俺も君の笑顔をみれば幸せで天にも昇る気持ちだよ」心の中でそう呟いた。さすがに気障ったらしいか。
彼女が喜んでくれるなら、それだけで十分だ。いや、それは綺麗事だな。俺は彼女のことが……。
「ねぇ、誠司さん」
伊織が、俺の方を向いた。
「こんな雨の日も、悪くないですね。二人でゆっくり珈琲を淹れて、味見するなんて、普段はできないもの」
ふふっ、と笑う伊織が眩しい。
彼女の言葉が、嬉しかった。この雨が、俺たち二人の距離を、少しだけ近づけてくれたような気がした。
願わくば、もっともっと、近づきたい。
窓の外では、まだ地面を叩くような雨が降り続いている。けれど、店の中は、新しい珈琲の香りと、俺たち二人の温かい空気で満たされていた。
伊織は、俺の隣で、静かに珈琲を味わっている。その横顔は、とても穏やかで、幸せそうに見えた。
俺は、この瞬間が、ずっと続けばいいと、心から願った。
そして、いつか、彼女が俺のこの気持ちに、ちゃんと気づいてくれる日が来ることを、密かに、強くーー夢見ている。
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