マックスアンドバーク法律事務所
テック・カバナー財閥も、単独で今あるアメリカ最大の財閥という地位を手に入れたわけではない。
その獲得には数多くの訴訟を抱えることとなった。
訴訟には必ず弁護士がいる。
弁護士事務所として、テック・カバナー財閥とつながりがある弁護士事務所は多くあるが、その最大手になっているのはマックスアンドバークス法律事務所というところだ。
もともとは1841年設立のマックス法律事務所と1839年設立のバークス法律事務所という別々の弁護士事務所だった。
マックスは民事を中心に、バークスは刑事を中心にして、それぞれが得意分野が重ならずに育っていた。
マックスは最初からカバナー市内に本拠があったが、バークスは最初はマサチューセッツ州プリマス郡のカバナー市とは別のところにあった。
アメリカ全体にテック・カバナー財閥が広がるにつれて、民事訴訟が数多く提起されるようになってくる。
それがテック・カバナー財閥が被告になるか、原告になるかは問わず、それに対抗するための策も必要になって来た。
そこで地元にあったマックス法律事務所を顧問事務所として契約を結び、民事訴訟関連の対策を実施するようになる。
これが1860年から1870年代にかけてのことである。
バークス法律事務所とテック・カバナー財閥が関係するようになるのは、1901年に発生した内乱未遂疑獄である。
内乱未遂疑獄は、複数の連邦政府高官、マサチューセッツ州の高官、さらにテック・カバナー財閥の中枢の数名が関与しているとされた事件である。
当然、このころになると、テック・カバナー総合軍事会社も財閥のみならず、数多いところでの警護契約を結んでおり、この軍事力をもってして連邦政府を制圧。
後に独立した国家を作るという計画があったとされたものだ。
連邦政府内にも総合軍事会社として参画をしており、仮にこれが本当であれば大問題となるところである。
これにより大騒動となったテック・カバナー財閥では、当時すでに刑事事件の弁護士として名高い存在となっていたバークス法律事務所のドアをたたいた。
逮捕者100名以上、刑事事件として起訴されたのだけでも40人を超えるこの内乱未遂疑獄では、最終的には嫌疑不十分とほぼほぼされた。
これも弁護士の手腕のおかげであると考えたテック・カバナー財閥の中枢の面々は、刑事事件に関する顧問弁護士としての契約をバークス法律事務所と結んだ。
これら2つの弁護士事務所がが合併したのは大恐慌時代。
統合したほうが有効であると上層部が判断したためである。
経営も安定していたものの、当然テック・カバナー財閥だけの収益では賄えない。
そこで合併して資本を集中してもらうことにして、生き延びる方向にかじを切った。
大恐慌以後、本来であれば別々に分割するつもりであったが、結局そのまま今も合併したまま、マックスアンドバークス法律事務所として、テック・カバナー財閥の顧問弁護士事務所となっている。