37 ヴェロニカ
随分と懐かしい夢を見た。
それはまだフィオナが幼い少女であった時の事でメルヴィンとの関係に悩み、それを両親に打ち明けた時、彼らはフィオナに言ったのだった。
文句があるならヴェロニカに話をつけて来ればいい、それが出来ないならお前の主張が間違っているのだと。
頼れるはずの両親にそうして突き放されたこと自体も、フィオナの心を荒ませる原因になったが、メルヴィンに頼んでヴェロニカに合わせてもらうこともとても大変だった。
仕事で会うことはあっても、いつも言葉を交わしたりはしない、フィオナは言われたままに動く道具だ。
だからこそちゃんとした話し合いの約束が必要だった。
そしてやっとほんの少し許された時間でフィオナはヴェロニカと話をすることになった。
「……」
「早く言いなさいな。フィオナ、わたくしあなたのような子供に長時間構っていられるほど暇ではないよ」
高圧的に言われた言葉にフィオナは萎縮していた。
いつもその背についていき、言われた通りに従うだけだったフィオナは初めて彼女と対面しその威圧感に今にも泣きだしてしまいそうだった。
ヴェロニカは面倒くさそうに紙煙草を吸いながらフィオナに視線を向ける。
きわどく胸元が露出しているドレスを着ていて、柔らかな胸の肉はヴェロニカが体勢を変えるとゆっくりと違う形の皺を作ってその肌に絹糸のような茶色の髪がさらりと落ちた。
「わ、私は…………」
「遅い。わたくしのような高貴な人間を待たせるなんて、それだけで重罪なのよ?」
「は、はい。あの、でも、聞いていただきたくて……メルヴィンはいつも私を殴ったり、怒ったりしていて、だから怒らせてばかりだから、婚約破棄して欲しいと思って……」
怒る彼が悪いというのは、フィオナの身分からすると言うことはできない。精々言えて、怒らせてばかりで申し訳がないから離れたいという趣旨のことぐらいだ。
しかし、ヴェロニカにその提案を飲んでもらうために、フィオナはたくさんの言葉を用意していたはずなのに、いざヴェロニカを前にすると萎縮してしまってどうにもうまく言葉が出なかった。
ヴェロニカはフィオナの言葉を聞いてふうっと煙を吐き出した。
それから、大きな瞳を苛立たしげに細めてぎろりとフィオナを見た。
目が大きく、まつ毛が長く重たいせいでとても眼力があり、お子様なフィオナには太刀打ちできない大人の妖艶さを感じた。
「……あのねぇ、フィオナ。そもそもあなたみたいな器量の悪い子供、貰い手なんか他にはないわよ」
それはただ事実を言っているような適当さのある言葉でフィオナにはその真偽を確かめるすべはない。
しかしこんなに美しい人が言っているのだからそうなのかもしれない。
「妹のテリーサを見てごらんなさいよ。素晴らしい魔法を持っていて、そのうえで爵位継承権者として一生懸命与えられた仕事を頑張ってる。でもあなたは?」
「……」
「与えられた状況に文句を言ってばかり、メルヴィンに叱られたからって何だっていうのバカバカしい。それだけで名誉な地位から降りたいだなんて侮辱していると思わない?」
……でも、私は、怒られたくないし、殴られたら痛い。敬語でずっと話すのだって気持ち悪く感じるし、テリーサみたいに髪を伸ばしたり可愛い服を着たい。
「今も。あなた今、不満を感じたわね? そうやってわがままな事ばかり考える、その癖があなたをどんどんと傲慢にしていってるのよ!」
「え」
「わたくしはあなたの為に言ってるのよ。そんなにわがままで幼い考え方ばかりして、こんな風に文句を言って時間を無駄にさせて、あなた責任取れるのかしら?」
彼女は徐に立ち上がり、片手に紙煙草を持ったままフィオナのそばへとやってきた。
「でもそうね。たしかにメルヴィンが可哀想だわ。わたくしもいくらアシュトン伯爵からの頼みだとしても、こんなに聞き分けのない幼い子供を相手に選んでしまってあの子を不憫に思うのよ」
それから振りかぶって彼女はフィオナの頬を思い切り平手で打った。
バチンと音がして小さなフィオナは勢いに耐えられずソファーの座面に倒れこんだ。
「だからこそ、わたくしたちで足並みをそろえて、あなたを教育していかないといけないわね。アシュトン伯爵にもあなたを甘やかさないように言っておかなければ」
「っ……?」
「フィオナ、よく聞きなさい?」
ヴェロニカに殴られたことをまったく理解できていなかったフィオナだったが、そんなフィオナの驚きも恐怖も無視してヴェロニカはフィオナの胸ぐらを掴んでタバコの火を近づけた。
「これはすべてあなたの為なのよ。わがままで傲慢なあなたを躾けるために、わたくしたちはたくさんの労力を支払っている。あなたはそれをありがたく受け入れて、文句を言うなんて不義理なことはしないで、よく従い、きちんと尽くすの」
頬にタバコの熱が伝わってきてフィオナは思わず息をのんだ。これは脅しだろう。
ヴェロニカに話をすればきっとわかってくれると思っていた。
しかし、違った。メルヴィンを育てたのは彼女なのだから、彼女がメルヴィンと同じ……それ以上の事を言うのは必然だった。
けれども幼いフィオナは、そんなことにも気がつかず、叩かれたりわがままだと罵られたりすることが怖くて、泣きながらただひたすらに謝罪を繰り返した。
そんなフィオナに、ヴェロニカは、もう二度と逆らいませんと無理やり言わせて、最終的にメルヴィンと同じように暴行を繰り返しフィオナの選択肢を奪った。
大人になって今ならば反論の余地がある言葉だとわかるのに、その時は絶対的な当たり前の常識を受け入れなければならないのだと思った。
それほどまでに少年期のフィオナを取り囲む環境は歪んでいて、いつしか、自由になりたいという渇望だけが取り残されてくすぶり続けていた。
メルヴィンは実行犯で、もちろん彼に対するフィオナの怒りの感情は自然だ。けれども同じぐらいヴェロニカの行動だって酷くフィオナを傷つけることに加担していたと思う。
だからこそ、ここで終止符を打ちたい。フィオナは受けた扱いの報いを受けさせたいと思っている。
そのためにとても重要である情報をフィオナは知っている。
ああしてフィオナの尊厳を奪われ続けたからこそ、警戒心の強いヴェロニカに警戒されずに手に入れた、他の悪事とは毛色の違う明確な彼女を討ち取るための情報。
それを使えばヴェロニカを確実に失墜させることができる。しかし同時に加減のできる手札ではない事がフィオナにとって少しの気がかりになっているのだった。




