30 フィオナの望む選択肢 その二
彼に抱きついたままヴェロニカの事を強く思い浮かべる。そうするとフィオナの魔力と彼の魔力が混ざって空気に溶けて消えるように無くなっていく。
フィオナの魔法は黒魔法で人の記憶を奪うものだ。細かく言うと、フィオナが思い浮かべたものを消し去る力だ。
人間の体と魔力はとても深いつながりがあり、魔力も体も相互的に干渉しあうことができる。
血が流れれば魔力が減るように、フィオナは頭の中の大切な記憶を保持している魔力に干渉して取り払うことができるのだ。
思い浮かべられるものならばなんでも可能だ。今日の出来事でもいつかの約束でも、誰かの事でも、自分自身の事でも。
ただ、記憶の大部分を占めている場合には、フィオナも魔力を多く消費するのでどこまで消せるかは不確定だ。魔力が多い人間であればあるほど魔法の効きが悪い。
フィオナの魔力が消えていき、無くなる寸前で魔法をとくとメルヴィンはガクリと力が抜けて、背後に倒れていく。
記憶を消すとこうして一度、意識を失う。そうわかっていたので手を放して彼をほおった。
すると見事に床に激突して鈍い音が応接室に響き渡った。
「ひゃぁっ」
メーベルが驚いたように声をあげて、それからあっけに取られていた騎士たちは、ハッと気が付いて、メルヴィンへと手を伸ばした。
メルヴィンは一応フィオナの魔法について、知識はあったはずなのだ。
何度か説明もしたが、しかしその事実は彼にとって不都合だった。
自分よりも圧倒的に劣っていて、無能で子供なフィオナでなければ彼の言葉は通じないし、自分の優位性が保てない。
だからこそちょっと使える程度のあまり意味もない魔法だと思い込んでいたのだったと思う。
……もう少し、私を一人の人間として扱ってくれていたなら、こんなことにはならなかったはずです。でも、もう手遅れですね。メルヴィン。
気を失った彼はすぐに目を覚まして、それから床に座り込んだまま、パチパチと瞬きをしてキョトンとした顔をした。
「すみません。急に抱き着いたので驚いて転んでしまったんですね。大丈夫ですか」
フィオナはわざとそう口にした。言いがかりをつけられて王族に対する傷害の罪に取られないようにという配慮だ。
それにこの魔法はヴェロニカの御用達だ。マーシアたちですら調べ上げられなかったほどに、フィオナの魔法は大切にされてきた。
だからこそ、今回はばれないという自信があった。
「え、え?……あえ?」
メルヴィンは未だにきょろきょろとして、それから舌足らずな声で混乱したように自分を取り囲む騎士たちを見つめた。
「メルヴィン様、どうかなさいましたか?」
「どこか痛みますか?」
様子のおかしいメルヴィンに、彼らは少し焦った様子で問いかけた。しかしいい年の大人である彼は「う」と顔を顰めて、瞳に涙をためる。
「え?」
「メルヴィン様?」
それから、小さな子供のように「ふえぇーん!」と泣き出した。それはもうとても無様であり、多くの人間が彼に抱いていた印象がガラガラと崩れ落ちていく。
長い大人の手足を放り出して、男性らしい低い声で子供のような泣き声をあげた。
「こ、ここどこぉ? こわいよぉ!」
「っ……」
「……」
「嘘……」
昔の記憶が消えたことによる記憶の混乱が起こり、一時的に幼児退行を起こしているのだろうとフィオナはすぐに見当がついた。
しかしお付きの騎士たちも、侍女たちも、政敵であるマーシアも彼の行動に息をのみ、凝視して誰も言葉を発さなかった。
瞳からこぼれ出る涙をぬぐって、鼻水を垂らしてぐずぐずと泣くメルヴィンにあっけにとられて全員が硬直していた。
……随分な醜態です、メルヴィン。きっと多くの人の心に強く残りますよ。
心の中でフィオナはそう呟いてから、すこし性格が悪かっただろうかと考える。
フィオナの中ではこの行為は正当性のあるものだし、今までされていたフィオナの暴力と屈辱に比べればなんてことないもののはずだ。
しかし周りにいる人間はとても深刻そうで、しかし、怯えていた騎士の一人がこらえきれないとばかりに「くっ」と声をあげる。
「くはっ……っ、どういう、な、え? っくくっ」
混乱しつつも、ありえない醜態に堪えられなくなった騎士の一人がおもむろに笑い声をこぼした。
「おいっやめろって、後で処罰されるぞっ」
言いながらも、笑いが堪えられないとばかりにもう一人も笑いをこらえながら制止した。
もちろん笑ってられる事態ではない。主の事を考えるのならば、すぐに彼を人目につかない場所へと連れていくべきだ。
主が主ならば従者も従者だなと思いつつ眺めていると、泣いているのに笑われて馬鹿にされたと思ったらしいメルヴィンは、顔を赤くして傷ついた様子で「も、もういい!」と口にしながら立ち上がる。
「は? え、メルヴィン様!」
「すぐに追いかけろ!」
騎士たちに見切りをつけて走り出すと、彼は体は大人なので足が速く騎士たちをあっという間に置いて去っていく、あの様子では自分の離宮もわからないだろう。
精々城中の人に醜態をさらして回ればいいなとフィオナは考えつつ、その後ろ姿を見送った。
アレだけ自分をひどい目に会わせていた彼だが、わんわん泣いているところを見るとやっとスカッとした気持ちになってふうっと息をついた。




