交流
主な登場人物
ロナード…漆黒の髪に紫色の双眸が特徴的な、傭兵業を生業としていた魔術師の青年。 落ち着いた雰囲気の、実年齢よりも大人びて見える青年。 一七歳。
エルトシャン…オルゲン将軍の甥で、ルオン王国軍の第三治安部隊の副部隊長だったが、カタリナ王女から、新設された組織『ケルベロス』のリーダーを拝命する。 愛想が良く、柔和な物腰な好青年。 王国内で指折りの剣の使い手。 二一歳。
アルシェラ…ルオン王国の将軍オルゲンの娘。 白銀の髪と琥珀色の双眸が特徴的な、可愛らしい顔立ちとは異なり、じゃじゃ馬で我儘なお姫さま。 カタリナ王女の命を受け、新設される組織に渋々(しぶしぶ)加わる事に。 一六歳。
オルゲン…ルオン王国のカタリナ王女の腹心で、『ルオンの双璧』と称される、幾多の戦場で活躍をして来た老将軍。 温和で義理堅い性格。 魔物の害に苦しむ民の救済の為に、魔物退治専門の組織『ケルベロス』を、カタリナ王女と共に立ち上げた人物。
セシア…ルオン王国の王女カタリナの親衛隊一人で、魔術に長けた女魔術師。 スタイル抜群で、人並み外れた妖艶な美女。
レックス…オルゲン侯爵家に仕えている騎士見習いの青年。 正義感が強く、喧嘩っ早い所がある。 屋敷の中で一番の剣の使い手と自負している。 一七歳。
カタリナ…ルオン王国の王女。 病床に有る父王に代わり、数年前から政を行っているのだが、宰相ベオルフ一派の所為で、思う様に政策が出来ず、王位継承権を脅かされている。 自身は文武に長けた美女。 二二歳。
サムート…クラレス公国に住む、烏族の長の妹サラサに仕える、烏族の青年。 ロナードの事を気に掛けて居る主の為に、ロナード共にルオンへ赴く。 人当たりの良い、物腰の柔らかい青年。
ベオルフ…ルオン王国の宰相で、カタリナ王女に代わり、自身が王位に就こうと企んで居る。 相当な好き者で、自宅や別荘に、各地から集めた美少年美少女を囲って居ると言われている。
メイ…オルゲン侯爵家に仕えている騎士見習いの少女。 レックスとは幼馴染。 ボウガンの名手。 十七歳。
雲一つない澄み渡った春の空の下、日の光に照らされた木々の新緑が眩しい草原の中を行く、一行があった。
周囲に護衛の兵士を数人引き連れた、白髪混じりの焦げ茶色の短髪、眼光鋭い深い緑色の双眸、白髪混じりの立派な顎鬚を持ち、肩幅が大きく、ガッチリとした体付き、温和そうな風貌の初老の男と、その後ろを少し遅れて、白銀の長い髪を有した少女、漆黒の髪の長身な細身の青年、少し癖のある明るい茶色の髪の青年が続いていた。
「今日は本当に、絶好の狩日和ですね。伯父上」
少し癖のある明るい茶色の髪の青年が、にこやかな口調で自分たちの前に行く、白髪混じりの焦げ茶色の短髪の初老の男に声を掛けた。
「もう少し冷えるかと思ったが、何だかんだ言って、もうすっかり春だの。 そう言えば昨夜、料理の中に山菜が入っておったな」
白髪混じりの焦げ茶色の短髪の初老の男は、上機嫌な様子でそう言った。
この人物は、ルオン王国の将軍でカタリナ王女の腹心のリャハルト・フォン・オルゲンである。
彼に声を掛けたのは、甥のバルフレア家の次男エルトシャン。
彼と馬を並走させている銀髪の少女は、オルゲン将軍の娘の養女アルシェラ。
そして、少し後ろから、あまり気乗りしない様子で付いて来ている、漆黒の髪の細身の長身な青年は、オルゲン将軍の食客のロナードだ。
彼等三人は、オルゲン将軍の誘いを受け、王都郊外の森へ向かう途中であった。
男勝りで跳ねっ返りのアルシェラは、他の貴族の子女たちの様に、裁縫や生け花、詩歌などは好まずに、この様に馬に跨り、オルゲン将軍と遠出や狩をする事が大好きで、今日も学校をサボってこうして付いて来た訳である。
オルゲン将軍の甥のエルトシャンは、馬や銃の扱いも上手く、このところ第三治安部隊の副部隊長として、後任への引き継ぎをする為、詰所でディスクワークばかりしていたので、気放しに丁度良いと思い、オルゲン将軍の誘いを快く受けた。
何より、父の様に慕っている伯父のオルゲン将軍と、久々に会って話が出来る事が嬉しかった。
ロナードはと言うと、馬の扱いには慣れているが、彼曰く銃の腕の方はサッパリらしい。
何より、こう言う遊び感覚で、動物を傷付ける行為が昔から好きではないのだが、自分を懇意にしてくれているオルゲン将軍の誘いだった為、無下に断る事も出来ず、渋々参加したと次第だ。
出来る事ならば、森中にいる動物たちに今直ぐ逃げる様に伝えたい気持ちで一杯だが、それでは狩に来た意味が無いし、それ以前に、彼は妖精たちと意思の疎通は出来ても、動物と話す事は残念ながら出来ない。
「何か元気が無いね。 具合でも悪いの?」
エルトシャンは、先程から浮かない顔をして、相槌ばかりで殆ど話さず、自分たちの後ろに付いて来ているロナードにそう声を掛けた。
「あ、いや……。 只単にこう言う事に、慣れて無いだけだ……」
ロナードは、複雑な表情を浮かべつつ、そう答えた。
「ちょっと意外ぃ。 馬の扱いは凄く上手いのに、狩りはした事が無いのぉ?」
アルシェラは少し驚いて、ロナードにそう問い掛ける。
「俺には、こんな風に狩りを楽しむ時間など、無かったからな……」
ロナードは、複雑な表情を浮かべつつ、アルシェラにそう言い返すと、
「良ければ、アタシが教えてあげようかぁ?」
アルシェラは身を乗り出し、嬉しそうにロナードにそう言った。
「偉そうに、人に教えられる程の腕でも無いでしょ? 君は」
エルトシャンは肩を竦め、嫌味たっぷりにアルシェラに言い返すと、
「っさいわね! 大体何で付いて来たのよ! 折角ロナードと仲良くなれるチャンスなのにぃ!」
アルシェラはキッとエルトシャンを睨み付けると、『邪魔しないで!』と言わんばかりに、強い口調で彼に言い返した。
(相変わらず、我儘って言うか、ド直球だなぁ……)
アルシェラの言動を見て、護衛として同行していたレックスは呆れた表情を浮かべ、心の中で呟いた後、ロナードの方へと目を向けると、彼はとても迷惑そうな顔をしている。
「そう思っているのは多分、君だけだと思うよ」
エルトシャンは苦笑いを浮かべながら、ロナードとお近付きになろうと、躍起になっているアルシェラに言った。
「それ、どう言う意味よぉ?」
アルシェラはムッとした表情を浮かべ、エルトシャンに問い掛ける。
「そのまんまだよ」
エルトシャンは少し小馬鹿にした様に笑いながら、アルシェラにそう言っている後ろで、ロナードはこっそりと溜息を付き、護衛の為に同行しているレックスは、焦りの表情を浮かべ、オロオロと自分たちの前で口喧嘩をしている二人を見ている。
「はっはっは。 相変わらず仲が良いのぉ。 二人は」
困っている様子のレックスを見かねて、オルゲン将軍はニコニコと笑いながら、アルシェラとエルトシャンに向かって言った。
(そうか?)
レックスは、心の中でそう呟くと、エルトシャンとアルシェラを見比べる。
「別にぃ。 仲なんて良く無いわ。 エルトは何時も口煩いから嫌よぉ」
アルシェラはムッとした表情を浮かべ、オルゲン将軍にそう言い返した。
そうだろうね。 僕は他の人たちと違って、心にもない事を言って、君のご機嫌を取る必要なんて無いからね」
エルトシャンは肩を竦めながら、全く悪気の無さそうな口調で言った。
「ロナードなんて貴方以上に素っ気ないわ。 こうして会ったって、絶対に自分から話し掛けて来る事なんて無いしぃ」
アルシェラは不満に満ちた表情を浮かべ、頬を膨らませ、エルトシャンにそう訴えると、
「それは、君に嫌われても構わないからでしょ」
彼は、苦笑いを浮かべながら、遠慮なしにそう指摘した。
「それでは困るのぉ」
エルトシャンたちの話を聞いていたオルゲン将軍は、困った様な表情を浮かべて呟く。
「君は、自分の気持ちを押し売りし過ぎなんだよ」
エルトシャンは、苦笑いを浮かべながら、アルシェラにそう指摘するが、
「?」
彼女は、エルトシャンの言っている意味が理解出来ない様で、キョトンとした表情を浮かべ、小首をかしげる。
「アルは、相手の事を気に入ると、相手の都合なんてお構いなしに、自分の気持ちを前面に出してグイグイ行くから、何時も相手が君の勢いにドン引きしちゃうんだよ」
エルトシャンは、苦笑いを浮かべながら、アルシェラにそう説明すると、
「じゃあアタシ、ロナードにドン引きされてるのぉ?」
アルシェラは、戸惑いの表情を浮かべながら、エルトシャンに問い掛ける。
(気付いて無かったのかよ!)
レックスは驚きの表情を浮かべ、思わず心の中で突っ込んだ。
「かなり高い確率でね」
エルトシャンは苦笑いを浮かべながら、アルシェラにそう答えると、それを聞いた彼女はショックを受けている様だ。
「え、エルトシャン様……。 もう少し別の言い方がアるんじゃ……」
ショックを受けている様子のアルシェラを見て、レックスは焦りの表情を浮かべながら、エルトシャンにそう言った。
「人ってさぁ、みんな同じじゃないでしょ?」
困っているレックスを見て、エルトシャンは苦笑いを浮かべながら、アルシェラに言うと、
「う、うん……」
アルシェラは戸惑いの表情を浮かべつつ、エルトシャンにそう返事をする。
「じゃあ、みんな一緒のやり方じゃあ、上手くいく訳ないじゃない? 相手に合せて、攻め方を変えなきゃね」
エルトシャンは、チョット得意気な表情を浮かべつつ、アルシェラにそうアドバイスをする。
「う―――ん……」
アルシェラは、エルトシャンが言っている意味が分からないのか、思い切り眉間に皺を寄せ、顔を顰めながら唸る。
「多分ロナードは、今みたいな勢いでグイグイ来られると、逃げちゃうタイプなんじゃない?」
アルシェラの反応を面白そうに見ながら、エルトシャンはそう付け加えると、彼女はパッと表情を輝かせ、
「そっかぁ」
考える事が苦手なアルシェラは、明瞭な答えを示されたので、嬉しそうに声を弾ませてそう言った。
(余計な事を)
二人のやり取りを黙って見ていたロナードは、ゲンナリとした表情を浮かべ、心の中でそう呟いた。
「ただ追い掛ければ良いってモノじゃないんだよ。 恋愛って」
エルトシャンは苦笑いを浮かべながら、アルシェラに言うと、
「恋愛には駆け引きが必要なのだよ。 まあ、そう言う儂も、あまり恋愛の駆け引きは、上手では無いがの」
オルゲン将軍は、穏やかな口調でそう言うと、フォッフォッフォと声を上げて笑った。
「駆け引きかぁ……」
オルゲン将軍の言葉を聞いて、アルシェラは真剣な面持ちで呟く。
「まあ、お子様の君にはまだ、難しい事だろうけどね」
エルトシャンは嫌味たっぷりに、アルシェラにそう言うと、
「一々五月蠅いわね!」
彼女はムッとした表情を浮かべ、強い口調でエルトシャンに言い返した。
「そう言えば、チェスターは何で来なかったのぉ?」
森に入る前に小休憩をする事になり、アルシェラは乗っていた馬から降りながら、オルゲン将軍にそう問い掛けた。
「仕事が忙しいらしい」
オルゲン将軍は、少し残念そうな表情を浮かべつつ、そう答えた。
『チェスター』と言うのは、エルトシャンの腹違いの兄で、ルオン治安部隊総監補佐をしている。
元々、エルトシャンの父であるバルフレア伯爵は軍人では無く文官で、バルフレア家も代々、文官を輩出している家系だ。
故に、兄であるチェスターは当初、文官を志していたのだが、文官の採用試験に落ちてしまった。
だがそれでは、親や家臣に面目が立たないし、何よりも世間に対して体裁が悪いと言う事で、母親が義兄であるオルゲン将軍に頼み込み、将軍のコネで軍部の事務方として、捻じ込まれた訳である。
元々、文官を志していただけあり、脳内まで筋肉な輩が多い軍部の中では、チェスターの様な人材は重宝され、今の地位にまで上り詰めたと言う訳だ。
ただエルトシャンと違って武芸には疎く、チェスターはこう言った事は昔から苦手であった。
仕事が忙しいと言う理由を付け、苦手な狩りの同行を回避したのだと、エルトシャンは直ぐに理解した。
それ以前に母親のサフィーネに似て、とてもプライドの高いチェスターは、何処の馬の骨かも分からぬ、伯父の養女であるアルシェラの事も、バルフレア家の侍女と父親の間に生まれ、引き取られて来た腹違いのエルトシャンの事も、とても毛嫌いしており、二人の事を見下していた。
彼にしてみれば、卑しい身分の二人と、天下のオルゲン侯爵家の姫で、バルフレア家の正妻の子である高貴な身分の自分が、同列に扱われる事は、耐えられない事なのであろう。
ましてや、自分よりも格下の二人の前で、無様な姿を伯父のオルゲン将軍に見せられないと思ったのだろう。
エルトシャンとしても、渋々付いて来ているロナードの方が、兄がいるよりも遥かにマシだ。
誰も口に出す事はしないが、ロナードは、アルシェラ以上に自己中心的なチェスターと違って、常に周りの者が彼の顔色を伺う必要も無いし、皆が困る様な我儘を言う訳でもなく、大抵の戯れ事は聞き流してくれるし、気分を害して、誰振り構わず当り散らす程お子様でも無い。
何よりもロナードは、アルシェラやエルトシャンを含め、兵士たちなどをチェスターの様に見下す様な事はしない。
(オレ、あの人苦手だぜ。 来なくて良かったんじゃね?)
レックスは、ゲンナリとした表情を浮かべ、心の中で呟く。
「少し、疲れた?」
エルトシャンは、何処かゲンナリした顔で、馬の背中から降りるロナードにそう声を掛けた。
「アンタは良く、アルシェラの話に付き合っていて疲れないな?」
どうやらロナードは、ずっと一人でペチャクチャと話し続けていたアルシェラに対して、お疲れの様で、ゲンナリとした表情を浮かべたまま、力なくそう答えて来た。
「君と違って僕は、免疫があるからね」
エルトシャンは苦笑いを浮かべながら、ロナードにそう言い返した。
「アイツも良くまあ、あれだけ一人で喋り続けて疲れないな?」
ロナードは半ば感心した様な口調で、同行している女性兵士と話をしているアルシェラの方へと目を向けながら言った。
「普段、みんな忙しくて、彼女に構ってあげられないから、僕等に構って貰えて嬉しくて仕方がないんだよ。 アルは『構ってちゃん』だから」
エルトシャンは、苦笑いを浮かべながら言うと、
「俺は多分、アルシェラのそう言う気持ちは、理解出来ないと思う。 彼女の様に常に人に囲まれているよりも、一人で居る方が気楽で良いと思ってしまうからな……」
ロナードは淡々とし口調で言った。
「他人と居る事は疲れる?」
エルトシャンは、穏やかな口調でロナードにそう問い掛けると、
「そうだな……」
彼は、少し考えてから、淡々とした口調で答えた。
「でも、ずっと一人で居たい訳でも無いでしょ?」
エルトシャンは、ニッコリと笑みを浮かべながら、優しい口調で言うと、
「……どうだろうか……」
ロナードは戸惑いの表情を浮かべ、そう答えた。
「まあ自分自身の事でも、良く分からない所ってあるからね。 だから、そんなに真剣に考えなくても大丈夫だよ」
エルトシャンは、穏やかな口調で言い返した。
ロナードは、どう返事をして良いのか分からず、困った様な表情を浮かべる。
「僕も、アルみたいに『ウザイ奴』って、君に思われない様に気を付けないといけないね」
エルトシャンは苦笑いを浮かべながら、ロナードに言うと、
「別に、アンタをそんな風には思っていないが……」
彼は、戸惑いの表情を浮かべつつ、そう言い返した。
「近付き難い雰囲気を纏ってる割には、何気に優しいよね? 君って」
エルトシャンは、ニッコリと笑みを浮かべ、ロナードにそう言うと、彼は、少し恥ずかしそうな表情を浮かべ、慌ててそっぽを向いた。
ロナードの反応を見て、エルトシャンは可笑しそうに、クスクスと笑う。
「エルト。 少し……外れてもらって良いかの?」
そう言って声を掛けて来たのは、向こうでアルシェラといた筈のオルゲン将軍であった。
「あ。 気が付かなくて済みませんでした。 伯父上」
エルトシャンはオルゲン将軍にそう言うと、慌ててその場から離れて行った。
見れば、二人の周囲には誰もいないので、どうやらオルゲン将軍が人払いをした様だ。
「付き合わせて済まぬな」
オルゲン将軍は、申し訳なさそうにロナードに言うと、彼は首を左右に振り、
「誘いを受けた時点で、何か、俺と話したい事があるのだろうと思っていた」
落ち着き払った口調で言った。
「折角ルオンへ来てくれたと言うのに、初日に顔を合わせて簡単に挨拶をして以降、其方と会う機会が無くて申し訳無かったの」
オルゲン将軍は言うと、近くにあった、少し大きめの岩の上に腰を下ろした。
「いや……気にしていないが」
ロナードは、淡々とした口調で言い返した。
「ルオンはどうかね?」
オルゲン将軍は、穏やかな口調でロナードに問い掛ける。
「賑々しい所は苦手だ。 でも海は好きだ」
ロナードは淡々とした口調で、オルゲン将軍の問い掛けにそう答える。
「そうか」
オルゲン将軍は穏やかな口調でそう返すと、二人の間に暫くの間、沈黙が続いた。
「アルシェラの事は、どう思うかね」
オルゲン将軍は、ロナードに徐に問い掛けると、彼は物凄く嫌そうな表情を浮かべ、
「一緒に居て、凄く疲れる。 合わないみたいだ」
淡々とした口調で、素直に自分の気持ちを語った。
「ははははっ。 明るくて素直で、可愛らしいじゃろう?」
ロナードのあまりに素直過ぎる返答に、オルゲン将軍は豪快に笑いながら言った。
「……自分の気持ちに素直過ぎて、相手や周囲の都合はお構いなしの様だが……」
ロナードは、淡々とした口調で指摘する。
「其方が、アルシェラの事を苦手としているのは分かるが、一人でも味方が多いに越した事は無い。 嫌な相手でも必要とあれば付き合う事も大事だぞ」
オルゲン将軍は苦笑いを浮かべながら、穏やかな口調でそう言うと、
「……彼女に何かを期待するのは、厳しいと思うが……」
冷淡な視線をオルゲン将軍に向け、冷ややかな口調で言った。
「戦いではそうかも知れん。 じゃが、情報を得るには、様々な場所へ出入り出来る者は必要じゃ。 例えば、其方が入る込む事が出来ぬ、貴族たちの社交界とか……の」
自分の発言に、冷ややかに返して来たロナードに対して、オルゲン将軍は苦笑いを浮かべながら、そう言った。
「……」
ロナードは何も言わず、複雑な表情をを浮かべている。
「其方も、傭兵と言う仕事を通して、多少なりとも世の中と言うモノを知っている筈だ。 目的を果たす為には、利用出来るモノは最大限に利用し、時には私情を捨て、冷徹にならねばならぬ時もあると言う事位は、分かっておろう?」
オルゲン将軍は、素っ気ない態度を示しているロナードに、落ち着き払った口調で言った。
「……相手をどう使うかは考え方次第……と言う事か」
ロナードは徐に眉を顰め、淡々とした口調でオルゲン将軍に言った。
「一見、使い様の無いものでも、視点を変える事で利用価値が出てくる。 其方に求められる事はそう言った事だと思うがね。 兎に角、広い視野を持ち、柔軟な思考回路を持つ事だ」
オルゲン将軍は、落ち着いた口調でそうアドバイスをする。
「助言は、素直に受け取って置こう」
ロナードは、落ち着き払った口調で答えてから、
「……ところで、アルシェラやエルトシャンには、俺がルオンへ来た理由を話しているのか?」
暫く間をおいてから、徐にオルゲン将軍に問い掛ける。
「いいや。 今のあの子たちには、知る必要のない事だろう」
オルゲン将軍は、落ち着き払った口調で答えた。
「そうだな。 俺の事で二人を巻き込みたくない」
ロナードは複雑な顔をして、重々しい口調で言った。
「アルシェラは兎も角、エルトは勘の良い子だ。 儂が語らぬとも、何か勘付いている可能性は否定出来ぬ」
オルゲン将軍は複雑な表情を浮かべ、重々しい口調で言った。
「そう言えば、エルトシャンは随分と、将軍の事を慕っている様だが……」
ロナードは一瞬、父親を慕う子供の様に、オルゲン将軍を見ているエルトシャンの表情を思い浮かべてから、そう指摘した。
「エルトは、妻の妹の子では無く、バルフレア伯が、屋敷に仕えていた侍女と不貞をした際に授かった子での……。 その侍女が屋敷を追われた後、数年後に幼いエルトを残し、流行病で亡くなった事を知り、バルフレア伯が引き取ったのだ」
オルゲン将軍は、複雑な表情を浮かべ、重々しい口調で語る。
「当然、不倫相手の子を正妻である、義妹が快く思う筈も無く……。 エルトはバルフレア家で冷遇され、肩身の狭い想いをして育って来た言う訳だ……」
オルゲン将軍は、複雑な表情を浮かべ、重々しい口調でそう続ける。
「成程」
オルゲン将軍の説明を受け、ロナードは淡々とした口調で呟く。
「あの子は、ああやって何時も愛想良く笑っているが、それは偏に自分を守る為なのじゃ」
オルゲン将軍は、沈痛な表情を浮かべ、そう語った。
「自分を守る為?」
ロナードは戸惑いの表情を浮かべ、そう言ってオルゲン将軍を見る。
「そうじゃ。 バルフレア家では、エルトは決して歓迎されぬ厄介者。 特に義母と兄からは、それは酷い仕打ちを受けて来たそうだ。 反抗的な態度や、泣き叫び許しを請う様な態度は、二人の怒りを助長するだけと、幼いながらに悟ったのじゃろう。 いつの間にか、何を言われても、どんなに酷い仕打ちをされても、あの子は笑って誤魔化す様になってしまったのだ」
オルゲン将軍は沈痛な表情を浮かべ、重々しい口調で語る。
「……」
ロナードは、エルトシャンの姿を思い浮かべ、何と返して良いのか分からず、押し黙っている。
「儂の事を父の様に慕って来るエルトを、儂は可愛くて仕方がない。 あの子には幸せになって欲しいと心の底から思っている。 だが、それを望んでおらぬ者が、エルトの家族の中にいるのも事実。 それは、とても恐ろしく、とても悲しい事だ。 しかし儂の力では三人の関係を改善する事は出来んのだ。 儂はあくまで伯父であって、父親では無いからの……」
オルゲン将軍は沈痛な表情を浮かべたまま、苦しい胸の内をロナードに明かした。
「エルトシャンの父親は、健在なのか?」
ロナードは、真剣な面持ちでオルゲン将軍に問い掛けると、
「健在だが、気の強い妻の妹の尻にすっかり敷かれ、彼女の言う事を黙って従う事しか出来ぬ様な男だ」
オルゲン将軍は、困った様な表情を浮かべ、ロナードにそう答えると、溜息を洩らした。
「そう言う事情ならば、オルゲン家の次期当主はアルシェラでは無く、エルトシャンにするべきだと思う。 エルトシャンがルオンに居続ける限り、常に義母や兄からの嫌がらせを受け続ける事になる。 今は将軍が居るから、その影響は少ないかも知れないが、将軍が居なくなった後、エルトシャンにとって更に生きにくい状況になるのは明らかだ。 それ等からアイツを守るには、それ相応の権力と地位が要るんじゃないのか?」
ロナードは淡々とした口調で、自分なりの考えを述べる。
「確かに、その可能性は否めんのう……」
オルゲン将軍は複雑な表情を浮かべ、重々しい口調で言った。
「義母たちが、エルトシャンがオルゲン家の家督を継ぐ事を黙って居ない気もするが、アルシェラは論外だ」
ロナードは落ち払った口調で、オルゲン将軍に言った。
「ふむ……」
オルゲン将軍は、片手を自分の顎の下に添え、真剣な面持ちで思慮する。
「まあ、人様の家庭の事情に、深入りする趣味は無いが……」
ロナードは淡々とした口調で言うと、軽く肩を竦める。
「何にしてもまずは、邪魔な宰相に退場して貰わなければ、始まらない訳だが……」
ロナードは、落ち着き払った口調で言うと、
「言うのは簡単じゃが、知っての通り、宰相は相当な切れ者で、事実上のルオンの支配者と言っても良いだけの力もある。 それを取り払うのは並大抵の事では無い。 そなたにも害及ぶかもしれぬ」
オルゲン将軍は、複雑な表情を浮かべながら、重々しい口調でそう告げる。
「承知の上だ」
ロナードは、落ち着き払った口調で答えた。
「だがのう……」
オルゲン将軍は、複雑な表情を浮かべながら呟く。
「今更になって、不安になったのか?」
ロナードは、苦笑いを浮かべながら言う。
「情けない爺で済まぬのう。 だが、儂とて人の子なんじゃよ」
オルゲン将軍は、沈痛な表情を浮かべながら語る。
「大丈夫だ。 その為に俺が来たんだから」
ロナードは、オルゲン将軍の肩に手を添え、優しい口調でそう言うと、フッと笑みを浮かべた。
「其方は、苦労を掛けるな」
オルゲン将軍はそう言うと、穏やかな笑みを浮かべる。
「何だかんだ言って、ここへ来たのは俺の為だ。 結局、俺も自分が可愛いらしい」
ロナードは、苦笑いを浮かべながら言うと、
「そなたの事情を知れば、誰も其方を責められぬよ。 そんな風に自分を卑下してはならん。 最悪の事態を回避するためだ」
オルゲン将軍は、優しい口調でそう言うと、片手でロナードの頭を優しく撫でる。
オルゲン将軍に頭を撫でられているロナードは、何処か照れ臭そうな、それでいて嬉しそうな顔をして、将軍の武骨で大きな手を黙って受け入れていた。
「今日は、そなたの気性を顧みず済まなかったの。 次に何処かへ行く時は釣りにするかの?」
オルゲン将軍は、ロナードの頭を撫でながら、不意に苦笑い混じりにその様な事を言うと、
「釣りはした事がない」
ロナードは、苦笑いを浮かべながら言うと、
「ならば儂が釣りの楽しさを教えてやろうかの。 こう見えて、釣りは上手いのじゃよ? 何年か前に海釣りに行った時に、こんな大物を釣り上げてな!」
オルゲン将軍は、嬉々とした表情を浮かべ、釣り上げた獲物がどの位だったのか、両手を広げながら語る。
「凄い」
ロナードは、嬉しそうに語るオルゲン将軍に、目を丸くしながら言うと、
「それを儂が捌いて、皆に料理を振舞ったのじゃよ。 なかなかの美味だった。 其方にも食べさせてやろうかの」
オルゲン将軍は、その時の事を思い出しながら、楽しそうに語り、ロナードも楽しそうな顔をして聞いて、その表情は年相応の青年だった。
その後も暫く、二人は楽しそうに語らっていた。
ロナード達は目的の森に来ると、狩を始めたのだが、どう言う訳かこの日は全く動物の姿が見当たらない……。
この森は、年に何度か貴族たちが催す狩猟大会に使われる森なので、馬が入れる様に間伐など、人の手が加えられてはいるものの、他の森と同じ様に動物たちが普通に生活して居る所なのだが……。
(妙に静かだな……。 ここって、こんな場所だったけか?)
レックスは心の中でそう呟きながら、戸惑いの表情を浮かべつつ、周囲を見回す。
今までにも何度か、オルゲン将軍についてこの森に訪れた事はあるのだが、今日は何時もと様子が違う……。
「どう言う事なのかな……。 さっきから動物どころか、小鳥すら見当たらないなんて……」
エルトシャンも、何時もと森の中の様子が違う事に戸惑い、辺りを見回しながら呟く。
「何か、何時もと違わない?」
アルシェラも森に入った瞬間から、何とも言い難い、重苦しい空気を感じ取っている様で、思い切り眉をひそめてそう言った。
二人の後から来ているロナードは、先程から表情を険しくし、明らかに何かに警戒している様で、腰に下げている剣の柄に片手を掛け、忙しく周囲を見回しつつ、
「……もしかすると、近くに魔物が居るのかも知れない……」
そう呟くと、
「その可能性は否めんのう……」
オルゲン将軍も、神妙な面持ちで言った。
「ええっ! でもこの森って魔物が入れない筈じゃあ……」
ロナード達の言葉を聞いて、アルシェラは焦りの表情を浮かべ言うと、
「それは、狩猟祭の時だけだよ」
エルトシャンが、苦笑いを浮かべながら、アルシェラにそう答えた。
それでも普段、狩りをする為に訪れても、魔物と遭遇する事は殆どないのは確かで、彼女がその様に勘違いするのも無理はない。
「だが王都にも近く、主要な街道の近くに魔物が出てくるとなると、ちと問題じゃな……」
オルゲン将軍は、神妙な表情を浮かべ、自慢の自分の髭を片手で撫でながら、そう呟いた。
地方の街道は兎も角、この様な大きな都市部近くの主だった街道は、旅行者たちを魔物から守る為に結界が張ってある事が多く、その結界から発せられる魔力などを嫌がり魔物はその一帯には近付かない事が多いのだが、それも所詮は小物に対してだけで、魔力の強い魔物に対してはあまり有効的では無い。
その為、王国軍は定期的に強力な魔物の駆除を行って街道の安全確保に努めている訳なのだが、この数年間は、国から軍への予算が毎年の様に削減されていっており、前の様に魔物の駆除が出来ていない。
特に、交易で財を成しているルオンにとって、交易の要である商人たちの安全が確保出来ないのは死活問題である。
商人たちが、魔物から身を守る為に傭兵を雇う事に資金を投じれば、その分だけ、彼等が運んで来る物の単価が吊り上り、結果として、そのツケは全てルオンの民が払う事となり、やがては経済の鈍化にも繋がる……。
そうでなくてもこの数年、農作物の不作が相次ぎ、飢饉だの、疫病だのと、魔物の被害だの、悪い事続きだと言うのに、これ以上、人々の生活が苦しくなる様では、流石に王女もお手上げだ。
「伯父上。 引き返しますか?」
エルトシャンが真剣な面持ちで、オルゲン将軍に問い掛けると、
「ええ~っ。 折角ここまで来たのに、何もしないで帰っちゃうのぉ?」
アルシェラは不満に満ちた表情を浮かべ、口を尖らせ、そう言った時、背後の茂みからガサガサと言う音がしたので、一同は慌てて振り返った次の瞬間、別の方向から弓矢が飛んで来て、アルシェラが跨っていた馬の太腿に刺さり、驚いた馬は暴れ、アルシェラを乗せたまま物凄い勢いで駆け出した。
「アル!」
それを見たエルトシャンは、慌てて自分が乗っていた馬の手綱を引き、その後を追い駆ける。
エルトシャンが走り去った後、茂みの奥から現れたのは、人間の子供くらいの背丈で、肌の色は艶の無いどす黒い緑色、淀んだ黄色の双眸は猫の目の様に大きく、大きく裂けた口からは、黄ばんだ鋭い犬歯が並んでいるのが見え、両耳の先は尖り鼻は団子鼻で、頭髪は殆ど無く剥げ頭、粗末なボロボロの麻の服の上から、何処からか盗んで来たのか、鉄の胸当てや鎧を着ており、そこから枯れ枝の様な、細い手足が出ている。
手には、古びた短剣や剣などを持っており、背には、木で造られた弓を背負っている。
この生き物は、『ゴブリン』と呼ばれている魔物で、森や山などにある、自然に出来た洞窟などを住処とし、森や川などで、狩猟採集をして生活しており、その生活圏が人間と近い為、田舎の村や町に『魔物が出た』と言えば、大抵は『ゴブリン』を指す事が多い。
彼等は、人間と同じく集団生活を営み、独自のコミュニティを形成し、簡単な武器や道具を作る事も出来るが、知能はさほど高く無く、チンパンジーに毛が生えた程度の知能だと、言われている。
性格はとても好戦的で、縄張り意識が高い。
しかも、人間たちの村や町には、森などとは違い、食料が豊富にある事を彼等が知ってしまうと、人間たちの集落を襲い、家畜や穀物を盗んで行き、時には、人間たちの集落に火を放ち、村人を皆殺しにする事まで起きてしまう。
なかなか、厄介な魔物なのだ。
(で、出た―――っ!)
レックスは、心の中でそう叫ぶと、恐怖に顔を引き攣らせつつも、両腰に下げている剣の柄に手を掛ける。
「はわわわわ……」
「ま、ま、魔物だ!」
「ど、どうしましょう……」
一緒に居た護衛の兵士たちは、自分たちの前に突然現れたゴブリン達を見て、慌てふためき、青い顔をし、逃げ腰になりながら口々にそう言っていると、ゴブリンたちが一斉に襲い掛かって来た。
「ひいいいっ!」
若い兵士が情けない声を上げ、身を低くし、自分の頭を庇う様に身を縮ませた次の瞬間、ロナードは何の躊躇いも無く、自分に向かって来たゴブリンを持っていた剣で叩き切った。
『グエッ』と言う、カエルを押し潰した様な声と共に、ゴブリンは魔物特有の紫色の血を首から撒き散らしながら、地面の上に力なく転がった。
近くに居たゴブリンたちは、無残に仲間が叩き切られたのを見てたじろぎ、側にいた兵士たちは、揃って驚いた顔をしてロナードを見ていると、突然、彼は片手で薙ぎ払う様な仕草をすると、緑色の風の刃が現れて、近くにいたゴブリン達を一瞬で遥か後方へ吹き飛ばした。
それを見たゴブリン達は驚き、蜘蛛の子を散らした様に、大慌てで逃げ出して行った。
その一部始終を兵士たちは、間抜けにポカンと口を開け、目を丸くして彼を見ている。
「ボサッとするな!」
ロナードは、剣に付いた血糊を払いつつ、落ち着き払った口調で、驚いた顔をして自分を見ている兵士たちに向かって言ってから、
「レックス。 お前は兵士達とオルゲン将軍を連れて、急いで森から出ろ。 直に荒れるぞ」
落ち着き払った口調で、レックスに言った。
ロナードの言葉を聞いて、兵士たちは皆、『こんなに天気が良いのに、何を言っているのだろうか』と言う様な顔をして、彼を見ている。
「お、おう」
レックスはとっさに、ロナードにそう言い返したが、
「けどよ、姫とエルトシャン様は、どうすんだよ?」
レックスは戸惑いの表情を浮かべ、ロナードに問い掛けると、
「二人は俺が探し出し連れて戻る。 お前たちは急ぎ、結界が張ってある街道まで戻った方が良い。 そこならば見通しも良いし、結界の中まではゴブリンも入って来れない」
ロナードは、落ち着き払った口調でそう答えると、
「ならオレも一緒に」
レックスが、真剣な面持ちでロナードに言うと、彼は首を左右に振り、
「お前はオルゲン将軍を守れ。 コイツ等だけでは心許ない」
真剣な面持ちでレックスに言った。
「大丈夫か? この森、結構深いぜ?」
レックスは戸惑いの表情を浮かべ、ロナードに問い掛けると、彼は真剣な面持ちで頷き返した。
(何か、考えがあんのか?)
ロナードの反応を見て、レックスは心の中で呟く。
「あ、あの……」
「自分たちも、一緒に探しに行った方が……」
兵士たちの内の数人が戸惑いの表情を浮かべつつ、ロナードと一緒にアルシェラ達を探す事を申し出たが、
「お前たちでは、ロナードの足手纏いになるだけだ。 大人しく彼の指示に従え」
オルゲン将軍は、落ち着き払った口調で、兵士たちにそう言い切ってから、
「くれぐれも、無理はするでないぞ」
レックスと同じく、ロナードは何か考えがあると判断したのか、オルゲン将軍はロナードにそう声を掛けると、彼は頷き返し、何の躊躇も無く馬の手綱を引き、アルシェラ達が消えて行った、森の奥へと一人で向かってしまった。
「一人で行かせて、宜しかったのですか?」
兵士が、戸惑いの表情を浮かべ、オルゲン将軍に問い掛ける。
「心配なかろう。 あの子はアルシェラと違って、考え無に行動を起こす様な真似はせんからの」
オルゲン将軍は、落ち着き払った口調で、兵士たちに言った。
「アル。 アル! いたら返事をして!」
暴れ出した馬の背に乗ったまま、森の奥深くへ行ってしまったアルシェラを、エルトシャンはそう声を掛けながら、ゆっくり馬を走らせ、周囲を見回していると、ポツポツと頭の上から水滴が落ちて来たので、思わず空を見上げた。
先程まで良い天気だったのに、何時の間にか上空には、雨粒を大量に含んでいると思われる、真っ黒い雲がこの一帯の空を覆い、おまけに遠くで、雷鳴の音が微かに聞こえる……。
「参ったな……。 本降りになる前に見付け出さなくちゃ……」
真っ黒な雲が覆っている空を見上げたまま、エルトシャンは呟いた。
だが、エルトシャンの想いとは裏腹に、次第に雨脚が強くなり、森の中も薄暗くなってきた……。
やがて、雨は音を立てて激しく降り出し、直ぐ近くまで雷鳴が轟く様になった。
足元は、あっという間にぬかるんで、至る所に大きな水溜りが出来て、彼を乗せた馬がその上を歩く度に、パシャパシャと音を立てて小さな水飛沫を上げる。
衣服や髪はすっかり濡れ、重く水を含んで、それが容赦なく彼の体温を奪い取って行く……。
春を迎え、暖かくなったとは言え、流石にこれだけ激しく雨が降れば、気温も一気に急降下してしまう。
何時の間にか、エルトシャンが吐く息が、微かに白くなっていた。
「アルっ!」
エルトシャンの叫び声だけが、雨が降り付ける森の中で、虚しく響いた。
(何処に行っちゃったんだよ!)
エルトシャンは、焦りに満ちた表情を浮かべつつ、心の中で呟く。
(こんな雨の中を無暗に動き回っていたら、体力を消耗するだけだ。 何処かで大人しくして居れば良いんだけど……)
エルトシャンは、降り付ける雨を恨めしそうに見つめながら、心の中で呟いてから、
(って、アルにそんな判断が出来る訳ないか……。 馬鹿だから、わーわー叫びながら、森の中を考え無にウロウロしているよね……)
更にそう心の中で呟くと、特大の溜息を付いた。
その様な事をすれば、彼女の叫び声を聞い、腹を空かせた熊や狼と言った獣だけでなく、先程、彼等を襲撃したゴブリンたちをも、呼び寄せる事になるなど、アルシェラは考えもしないだろう。
エルトシャンは、どうして良いものか途方に暮れていると、
「エルトシャン」
不意に背後から自分の名を呼ぶ声がしたので、彼は驚いて振り返ると、薄暗い森の中に溶け込む様に、馬に乗った全身黒尽くめの人物が居た。
「ロナード?」
エルトシャンは、戸惑いの表情を浮かべつつも、名を口にすると、相手はゆっくりと彼の下へと近付いて来た。
自分の直ぐ目の前に相手が来た時、エルトシャンは声を掛けて来た相手がやはり、ロナードだった事を確認すると、安堵し、胸を撫で下ろした。
「お前だけか?」
ロナードは周囲を見回しながら、エルトシャンに問い掛ける。
「御免。 見付けられなかった」
エルトシャンは、申し訳なさそうに、ロナードに言った。
「気にするな。 俺も手伝う。 早く探し出そう」
ロナードは、落ち着き払った口調で、エルトシャンにそう声を掛けると、彼は頷き返した。
同じ頃、アルシェラは乗っていた馬が、木の根元に足を取られ転倒し、足を挫いて動けなくなった為、徒歩での移動を余儀なくされ、途方に暮れていた。
見た目重視の格好をしていた為、踵の高いブーツでは、ぬかるんで水気を含んだ落ち葉が降り積もった地面の上を歩くのは滑り易く、何度も深い水溜りに足を取られた所為で、ブーツの中にまで水が入り、重たく、湿ったブーツの中は冷たく、着ていた服もずぶ濡れで、寒くて仕方がない。
何度も足元を滑らせた所為で、着ていた衣服は泥塗れになっており、フードの付いた外套など着ていないので、自慢の銀髪は扱けた時に撥ねた泥で汚れてしまっている。
アルシェラの体はすっかり冷え切り、ガタガタと震えながら、覚束無い足取りで、当ても無く森の中を彷徨っていた。
「もう。 マジ最悪ぅ。 何でアタシが、こんな目に遭わなきゃなんないのぉ!」
アルシェラは、ムッとした表情を浮かべ、ブツブツと文句を言いながら、雨が降りしきる薄暗い森の中を歩いて居ると、小さく光る何かが彼女の目の前を過ぎった。
「えっ! な、なに? 何ぃ?」
アルシェラは思わず立ち止まり、恐怖に身を縮め、声を震わせながら呟いて居ると、また小さな謎の光が彼女の目の前を過ぎった。
それは、蛍の様に緑色に光を放ち、けれども蛍にしては大き過ぎる。
人の掌程の大きさで、人魂ではないかと思ったが、それとも違う様な気もする……。
アルシェラは人魂など見た事が無いので、何とも言えないが、それでも何だが、そう言った霊的な物とは異なり、不気味で寒々(さむざむ)しい空気は纏っていない気がした。
柔らかな光を放ち、フワフワと浮いている様な、不安定な動き方を繰り返し、執拗にアルシェラの周りを飛んでいる……。
良く目を凝らしてみると、それは全身が赤茶色で、背中に蜻蛉の羽の様な物を生やした、幼女の姿をした、体全体から暗い緑色の光を放つ、不思議な生き物だった。
そして、良く耳を澄ましてみると、蚊が鳴く様な小さな声で、『コッチニオイデ。 コッチニオイデ』と、アルシェラに囁いている。
(これって妖精……だよね? 多分)
アルシェラは採用試験の際、ロナードが呼び寄せたと言う妖精と、良く似ているその生き物を見て、戸惑いの表情を浮かべつつ、心の中で呟く。
『コッチニオイデ』
妖精と思われるその生き物は、幼い女の子の声で優しく囁いて居る。
「もしかして、アタシを助けてくれるのぉ?」
アルシェラは嬉々とした表情を浮かべ、妖精と思われる生き物に向かってそう言うと、その生き物は楽しそうな笑い声を上げ、クルクルとアルシェラの周りを回った。
間違いない。
この生き物は恐らく妖精で、雨の中、薄暗い森の中に迷い込み、困っているアルシェラを見かねて、救いの手を差し伸べてくれたのか、ロナードが妖精たちに協力を呼び掛けて、自分を探しに来たのだろう。
アルシェラは都合良くそう解釈すると、妖精と思われる生き物に導かれるまま、森の中を進む。
自分が森の更に奥深くへと、誘われているとも知らずに……。
「アル!」
「何処だ? 返事をしろ!」
エルトシャンとロナードは、冷たい雨が降り、薄暗い森の中、アルシェラを探して移動を続けていた。
遠くで、稲光と共に、落雷の音が響いて来たので、エルトシャンは思わず身を強張らせ、
「マズイ。 どんどん近くなってる……」
恐怖に顔を引き攣らせながら、そう呟いた。
「くそっ! あの馬鹿娘! 一人の時は森の中を無暗に移動するなと、教えられてないのか?」
ロナードは苦々しい表情を浮かべ、吐き捨てる様な口調で呟いた。
「多分、ちゃんと教えられているとは思うけど、アルの場合、聞いて無かったのか、覚えて無いのか、そのどちらかだね」
エルトシャンは、ゲンナリした表情を浮かべ、溜め息混じりにロナードに言うと、
「そんなのを連れて来るな!」
ロナードは、アルシェラが一向に見付からない事に苛立って居る様で、強い口調で言った。
「あの子は、自分さえ良ければ、他の者の事なんてどうでも良いからね。 何せ、天下のオルゲン家のお姫さまだから。 小さい頃から、周りにチヤホヤされて育っているから、自分が世界の中心だと本気で思って居るんだよ」
エルトシャンは肩を竦めながら、ロナードにそう説明すると、
「成程。 アイツの頭の中が何時も御目出度いのは、周りの人間たちの所為と言う訳か」
ロナードは、淡々(たんたん)とした口調で返した。
「まあ、その指摘はある意味、間違ってはないよ」
エルトシャンは苦笑いを浮かべながら言うと、
「?」
ロナードは理解出来ず、思わず小首をかしげた。
「僕もさ、アルや周りの人たちには色々と、苦労させられてるって事だよ」
エルトシャンは苦笑いを浮かべたまま、そう語った。
「同情する」
ロナードは、気の毒そうにエルトシャンに言うと、彼は苦笑いを浮かべた。
その後も、雨が止む事は無く、何時落ちるか分からぬ雷鳴に怯えつつ、エルトシャンはロナードと共にアルシェラを探し続けた。
「ちょ、ちょっと、何処まで行くのぉ?」
アルシェラは息を切らせながら、自分の前を緑色の光を放ちながらフワフワと飛ぶ、妖精と思われる生き物に向かって叫ぶ。
だが、その生き物はフワフワと森の奥深くへと進んで行く……。
流石のアルシェラも、人の手があまり入ってなさそうな場所に入り込んだので、不安を抱く様になっていた。
「ねぇ! 本当にそっちで合ってるのぉ?」
アルシェラは、不安に満ちた表情を浮かべつつ、自分の目の前を行く妖精らしき生き物に叫ぶ。
だが、前を行く生き物は、彼女の言葉が理解出来ないのか、一向に止まる気配はない。
その時、ガサガサッと茂みを素早く掻き分け、バシャバシャと何かが、水気を含んだ落ち葉が降り積もった地面を複数駆け抜ける様な音が近付いて来た。
「なっ、なに?」
アルシェラは驚いて振り返ると、薄暗い森の中から奇声を発しながら、人間の子供ほどの背丈の枯れ枝の様に細くシワシワの手足を持ち、ニンジンをくっ付けた様な鼻、口が大きく裂け、黄ばんだ鋭い犬歯を生やした、ボロボロの服を身に纏った、醜悪な生き物が鋭く尖った刃物を手に飛び出して来た。
ゴブリンだ!。
「キャアッ!」
アルシェラは悲鳴を上げ、顔から勢い良く前方にスッ転び、パシャッと枯葉の下に溜まっていた水が、勢い良く飛び散った。
間一髪、スッ転んだお蔭で、ゴブリンからの攻撃を避ける事が出来た。
アルシェラは慌て身を起こすと、血の様に真っ赤な目を持つ、ゴブリン達が彼女の周囲を取り囲んで居た。
アルシェラは、瞬時に己の命の危険を感じ、みるみる顔から血の気が引き、彼女を取り囲んでいるゴブリン達の殺気立った雰囲気に腰が抜けてしまい、彼女は全身が泥まみれになる事も構わずに、四つん這いになり、地面に這う様にして、慌ててその場から逃げ出した。
アルシェラを襲撃したゴブリン達は、奇声を上げながら、逃げる彼女を追い駆けて来る。
その気になれば、直ぐに追い付けそうなのに、ゴブリン達は態と彼女の足を蹴ったり、へし折った木の枝を投げ付けたり、彼女が死なない程度に切り付けたりして、一思いに殺そうとはせずに、嬲り殺しにしようとしている。
アルシェラは『殺されてしまう』と言う恐怖から声も出ず、落ち葉の下から撥ねる泥が時折、口の中に入って来るのも気にせず、ただ必死に森の中を這う様にして、逃げ惑った。
雷鳴が一際大きく鳴り響き、稲光が森の中を一瞬だけ照らし、彼女の命を奪おうとする悪魔たちの姿を映す。
いつの間にか、アルシェラをここまで誘導していた、緑色の光を放つ、妖精らしき生き物の姿が無くなっていた。
アルシェラは完全に、自分がどの方向から来たのか、何処へ逃げているのか、分からなくなっていた。
「ギエ――ッ!」
そう叫びながら、背後から彼女を追って居たゴブリンが刃物を振り翳し、躍り掛かって来た。
『もう駄目だ』とアルシェラが思った瞬間、直ぐ近くに雷が落ちたのか、大地を揺さぶり、鼓膜が破れそうな程の轟音と共に、目の前が一瞬真っ白になり、あまりの眩しさにアルシェラはとっさに目を閉じた。
そして、轟音が止み、辺りが一瞬だけ不気味な程に静まり返った後、激しく降り付ける雨音と共に、木が焼き焦げる様な匂いが漂って来た。
アルシェラが恐る恐る目を開けると、雷が走り抜けた後の様に、さっきまで周囲に立っていた筈の木々は黒く煤けて薙ぎ倒され、紅蓮の炎と白い煙を上げている。
そして、彼女を襲っていたゴブリン達は、雷が直撃したのか、真っ黒になって落ち葉が降り積もった地面の上に転がっていた。
「アルシェラっ!」
呆然として居たアルシェラの背後から、普段から慣れ親しんでいる、若い男の声が聞こえて来たので、彼女はハッとして振り返った。
振り返った彼女の元に真っ先に近付いて来たのは、見た事も無い二匹の犬で、後から来ている人間たちに、彼女の居場所を知らせる様に、大きな声で吠えて居る。
少し遅れて、複数の足音が近づいて来た。
「アル!」
落ち葉の下に溜まっている水溜りの泥が勢い良く撥ね、身に付けているブーツやズボンの裾が汚れる事など気にも留めず、エルトシャンが息を切らせながらアルシェラの下へ駆け寄って来た。
彼は、腰が抜けて動けない彼女の前に両膝を付くと、アルシェラの無事を確認するかの様に、その大きな体を丸めて、彼女を思い切り抱きしめた。
「無事でよかった」
エルトシャンは、安堵に満ちた表情を浮かべ、優しい口調でアルシェラにそう言うと、彼女はとても安堵したのか、大粒の涙を流し、ワーワーと大声を上げて泣きながら、自分を抱きしめる彼の胸元に顔を埋めた。
「姫!」
「無事か?」
少し遅れて、レックスとロナードも駆け付け、泣きじゃくって居るアルシェラにそう声を掛けた。
アルシェラに声を掛けて来た、ロナードとレックスは、外套を身に着けていたにも関わらず、頭の上から爪先までずぶ濡れで、顔からすっかり赤みが失せている事から、彼女が一行から逸れた瞬間から、彼等は激しく雨が打ち付ける中、彼女を探し続けていた事を物語っていた。
「ふえ―――っ! 怖かったよぉ――」
アルシェラは、駆け寄って来たロナードに向かって、泣きながらそう叫んだ。
「無事で良かったぜ」
レックスが、安堵の表情を浮かべつつ、アルシェラにそう声を掛ける傍らで、エルトシャンは雨に濡れぬ様に、自分の衣服の下に入れていた外套を取り出し、アルシェラに優しく掛けた。
「何処から、その犬を?」
森の外れに待機して居るオルゲン将軍たちと合流する為、森の出口へ向かう途中、エルトシャンは自分達が乗って居る馬の横を、尻尾を振りながら付いて来ている犬を見下ろしながら、レックスに問い掛ける。
「街道へ出る手前で猟師の小屋を見付けてよ。 お館様に言われて猟犬を借りて、姫の匂いを辿らせる事にしたんだ。 この雨の中、ちゃんと匂いを辿れるか心配だったけどよ……」
レックスは、落ち着き払った口調で、エルトシャンに答えると、
「流石は伯父上。 正直、僕たちだけじゃあ厳しかったからね。 ねぇ? ロナード」
エルトシャンは、ニッコリと笑みを浮かべ、自分の隣に馬を並べて移動していたロナードに同意を求めると、
「ああ。 正直、見付からないかもしれないと思っていた」
ロナードは、落ち着き払った口調でそう答えた。
「ところでロナードぉ」
エルトシャンの後ろに乗っていたアルシェラが徐に、ロナードに声を掛けると、
「何だ?」
ロナードは、素っ気ない口調で問い返した。
「妖精を呼んで道案内させたよね? 全然、違う方向に連れて行かれたんだけどぉ」
アルシェラはムッとした表情を浮かべ、口を尖らせながら、そうロナードに抗議する。
「何の事だ?」
ロナードはキョトンとした表情を浮かべ、アルシェラに問い返す。
「だってぇ。 緑色の蛍みたいなのがぁ、アタシの所に飛んで来て『コッチ、コッチ』って言ってぇ、案内してくれたわよ」
アルシェラはムッとした表情を浮かべたまま、語気を強め、ロナードに言った。
「いや、俺は本当に妖精を召喚して無いぞ」
ロナードは、困った様な表情を浮かべ、そうアルシェラに答えた。
「えっ……。 でも確かに、蜻蛉みたいな羽を生やした、全身が緑色のちっちゃいのがぁ……」
アルシェラは、戸惑いの表情を浮かべ、自分が見た妖精の事をロナードに説明すると、彼は暫く考えてから……。
「もしかすると、ジプシーかも知れないな……」
神妙な面持ちで、そう呟いた。
「じぷ……何て?」
アルシェラは、聞いた事のない言葉に戸惑い、思い切り眉を顰めながら言うと、
「ジプシーだ」
ロナードは、淡々(たんたん)とした口調で言い返す。
「それは、妖精とは違うの?」
エルトシャンは、戸惑いの表情を浮かべつつ、ロナードに問い掛ける。
「ジプシーと言うのは、簡単に言うと群れから逸れ、闇落ちした妖精の事だ」
ロナードは、落ち着き払った口調で、エルトシャンたちに説明する。
「なんで態々、違う呼び方をすんだ?。」
レックスは、不思議そうにロナードに問い掛けると、
「基本、妖精と言うのは風の妖精は風を。 火の妖精なら火を食い、人間に無害な存在なんだが、ジプシーは変異してしまって、動物……特に人間の血肉が好物らしい。 だが奴等は単体では人を傷付ける程の力を持っていない。 だから人間を騙し、態と魔物や獰猛な獣が居る場所へ案内して、そいつ等に人間を襲わせる。 そして、そのお零れに肖っている言う訳だ」
ロナードは淡々とした口調で、ジプシーの事を簡潔に説明すると、エルトシャンは、戦々恐々と言った様子で、
「怖いね……それ」
「じゃあ、アタシはそのジプ何とかって言うのに騙されて、態と魔物が居る所へ連れて行かれたって事なのぉ?」
アルシェラも恐怖に顔を引き攣らせつつ、恐る恐る、ロナードに問い掛ける。
「お前が会ったと言う妖精が、ジプシーならな」
ロナードは、落ち着き払った口調で答えた。
「もし、それに出会った場合って、どうしたら良いんだ?」
レックスは、真剣な面持ちでロナードに問い掛ける。
「無視する事が一番だ。 さっきも言った通り、単体では人間にどうこう出来る程の力は無い。付いて行かなければ良いだけの話だ」
ロナードは、落ち着き払った口調で、レックスの問い掛けにそう答えた。
「じゃあ、アルはまんまと、ジプシーの思惑に嵌っちゃったって事だね」
エルトシャンは、苦笑いを浮かべながら言うと、アルシェラはムッとした表情を浮かべ、
「だって、そんなのが居るなんて知らなかったしぃ」
「兎に角、一人で森の中をウロつかない事だ。 下手に歩き回ると、方向を見失いかねないからな」
ロナードは、落ち着き払った口調で言うと、
「君が考え無しに移動したお蔭で、僕等は君を探し回る羽目になったんだからね」
エルトシャンは、ウンザリした様な表情を浮かべ、アルシェラに言った。
「五月蠅いわね。 見付かったんだから良いじゃないの」
アルシェラは、ムッとした表情を浮かべ、強い口調で言い返す。
「やれやれ。 助けて貰ったのに礼もろくに言えないのか」
アルシェラの言動に、ロナードは呆れた表情を浮かべ、呟いた。
「ねぇ……。 あれは何?」
アルシェラは、ロナードのボヤキが聞こえて居ないのか、そう言いながら、茂みの向こう側を指差したので、彼女の言動にロナードはムッとした表情を浮かべる。
「え――。 今度はなに?」
エルトシャンは、面倒臭そうにそう言いながら、アルシェラが指差す方向へ目を向ける。
すると、茂みの向こう側が、微かに紫色に光っているではないか。
「ねぇ。 ロナード。 あの光はなにかな?」
エルトシャンは、自分の隣に居たロナードに声を掛けると、
「何処だ?」
ロナードも、五月蠅そうな表情を浮かべつつ、エルトシャンに問い掛けると、彼はアルシェラが指差している方を指差す。
「確かに、何か光ってんな」
レックスも、その様な事を言っている。
「ちょっと、何か確かめてみてよぉ。 エルト」
好奇心が旺盛なアルシェラは、何故かエルトシャンに向かって言った。
「何で僕に言うの?」
エルトシャンは、不満そうな表情を浮かべ、アルシェラに問い掛ける。
「だって、何か分からないのに、アタシが近付くなんて危ないじゃない」
無責任に、エルトシャンに言い返すと、
「へぇ……。 僕は、危ない目に遭っても良いんだ」
エルトシャンは、ニッコリと笑みを浮かべているが、微妙に顔を引き攣っており、アルシェラの物言いが、気に食わなかったのは明らかだ。
「そう言う訳じゃないけどぉ……」
流石のアルシェラも、付き合いが長いエルトシャンの感情は分かる様で、バツの悪そうな顔をし、オドオドした様子で言い返した。
「じゃあ、君が行きなよ」
エルトシャンはややキレ気味で、少し強めにアルシェラに言うと、彼女は泣きそうな表情を浮かべるので、見かねたレックスが、
「オレが見て来る。 三人はここに居てくれ」
落ち着き払った口調で、エルトシャン達に言うと馬から降り、謎の光に向かって行った。
戸惑って居るアルシェラ達の目の前を、何時の間か馬から降りたロナードが通り過ぎ、レックスの後に続いた。
「ちょっ……。 ロナード。危ないよ」
それを見たエルトシャンは、慌ててロナードに声を掛ける。
「レックスの話、聞いて無かったのぉ?」
アルシェラも、戸惑いの表情を浮かべ、ロナードに声を掛けるが、彼は無視を決め込む。
レックスは、背後から誰か付いて来ている事に気付き、足を止め、慌てて振り返り、付いて来ていた相手を確認すると、
「おいロナード。 危ねぇから、姫たちと一緒に居ろって言ったじゃねぇかよ」
ムッとした表情を浮かべ、ロナードに言うと、
「危ないのは、お前の方だレックス」
彼は、呆れた表情を浮かべ、そう言い返して来たので、レックスは面食らう。
「どんなトラップが仕掛けられているのか分からないのに、魔術の知識が無い奴が、興味半分に近付くな。 死に行く様なものだぞ」
ロナードは、落ち着き払った口調で、レックスにそう説明した。
「やっぱ、この光は魔術的なモノなのか?」
レックスは、戸惑いの表情を浮かべ、ロナードに問い掛ける。
「普通に考えて、森の中にこんな奇妙な光を放つ場所がある訳がないだろ」
ロナードは落ち着き払った口調で、レックスの問い掛けに答えた。
「確かに……」
レックスは、複雑な面持ちで呟いてから、
「じゃあ何で、普通はこんな所に、ある訳ねぇのがあんだよ?」
戸惑いの表情を浮かべつつ、ロナードに問い掛ける。
「知るか。 兎に角、こう言う訳の判らないのには、近付かないに限る。 行くぞ」
ロナードは、落ち着き払った口調で、レックスにアルシェラ達が居る所へ戻る様に促した。
ロナード達は無事に街道まで出ると、周囲を警戒していたオルゲン侯爵家の兵士たちと合流し、オルゲン将軍の居る天幕へ案内された。
「お父様ぁ!」
アルシェラは嬉々とした表情を浮かべ、すっかり泥にまみれ、ボロボロな形になって居るのも構わず、オルゲン将軍の下へと駆け寄った。
「おお! アルシェラ」
随分と薄汚れた格好ではあるが、娘の無事な姿を確認したオルゲン将軍は両腕を広げ、自分に駆け寄って来たアルシェラを抱き止めた。
「やれやれ。 とんだ目に遭った」
ロナードが、兵士が差し出したタオルを受け取り、雨に濡れた体を拭きながらそうぼやいた。
「早く帰って、温かいお風呂に入りたいよ」
エルトシャンも、タオルで髪を拭きながら、苦笑い混じりに呟くと、
「同感だ」
ロナードはそう言いながら、自分の服の袖に這っていた蛭を抓んで、その辺にポイと捨てる。
「うわっ! いきなり何投げ付けてんだよ。 オメェは!」
アルシェラの体を拭く為、タオルを持って来たレックスは、良く見もせず、自分に向かっていきなり蛭を投げ付けて来たロナードに、思わずそう怒鳴り付ける。
「ああ。 悪い」
ロナードは、然して悪かったとは思っていない様な、サラリとした口調で、腹を立てているレックスにそう言った。
「三人とも済まぬな。 お詫びに屋敷に戻ったら、温かいスープと風呂を急ぎ用意させよう」
オルゲン将軍は申し訳なさそうに、雨の中アルシェラを探し回ってくれた、ロナードたちに言った。
「それは、ちょ――っと厳しいねぇ」
不意に、知らない女性の声がしたので、ロナードたちは驚いて一斉に振り返ると、髪はオレンジ色のショートカット、猫の目の様に大きな緑色の双眸、全身に何かの模様の様な、文字の様な、不思議な刺青、猫の耳の様な形をした耳に、銀色のリングピアスをし、猫の尻尾の様なモノを生やして、体にピッタリとした黒いサーコートに身を包み、首元に黒いスカーフを巻いた、活発そうな小柄な女性が、槍を手に立って居た。
レックスは、自分たちとは明らかに容姿の異なる彼女を見て戸惑い、立ち尽くした。
彼女は恐らく、『亜人』と呼ばれる人種なのだろうが、たまに街中で見掛ける事はあるが、こんな近くで『亜人』を見るのは、レックスは始めてだった。
『亜人』と言うのは、体内に強い魔力を有し、巨大な獣に変化する能力を持つ、獣と人間の特徴を併せ持ち、独自の文化と言語を用いる、人間の亜種たちの事を指す。
彼等は人間よりも長命で、嘗ては、ランティアナ大陸全土と、南半球の一部をも支配していたと言われる、史上最大の大帝国『魔法帝国』を築き、千年以上も渡り、世界を支配していた者たちの末裔でもある。
だが当時、家畜の様に扱われ、虐げられていた、魔力を持たぬ人間たちの反乱により、『魔法帝国』が崩壊した後、人間たちの反乱を先導したと言われるイシュタル教会が中心となり、『魔人狩り』と称し、亜人たちを数世紀に渡り虐殺して来た所為で、その数は大幅に減ってしまい、今では、絶滅を危惧されている種族も少なくない。
多くの亜人が人間を恐れ、人間が立ち入る事の出来ない辺境の地へと逃れ、外界との交流を断絶し、ひっそりと暮らして居るのだが、中には、敢えて人間社会に順応しようと試みる亜人たちも居る。
彼女は後者の方のタイプと思われる。
(何時の間に!)
エルトシャンは心の中で叫ぶと、とっさに自分の腰に下げていた剣の手に柄を伸ばそうとしたが、それよりも早く、猫の耳を生やした女性が槍を繰り出して来た。
「くっ!」
エルトシャンは反射的に、急所を避けたが、繰り出された槍は左の脇腹を抉った。
それを見て、後方に居たアルシェラが悲鳴を上げる。
「エルトシャン様!」
レックスが慌てて、その場に崩れ込みそうになったエルトシャンの体を抱き支える。
「そんなモンかい?」
猫の耳を生やした女性は、拍子抜けした様子でそう言って、エルトシャンたちを挑発する。
「二人を避難させろ!」
ロナードは、突如自分たちの目の前に現れた、猫の耳を生やした女性に戸惑い、立ち尽くして居た兵士たちに危機迫る声で叫ぶと、彼等はハッと我に返ると、慌ててオルゲン将軍とアルシェラを守る様にして、武器を手に猫の耳を生やした女性と対峙する。
「アンタたちみたいな雑魚が幾ら集まろうと同じだよ。 死にたくなけりゃ、そこを退くんだね。」
猫の耳を生やした女性は、小馬鹿にした様な口調で、自分の前に立ち塞がる兵士たちに向かって言った。
「相手は一人だ!」
「掛れ!」
オルゲン家の兵士たちはそう言うと、一斉に猫の耳を生やした女性に向かって行った。
「雑魚が! 散りな!」
猫の耳を生やした女性はそう言うと、槍を片手で軽々と頭上で回転させ、ブンと槍で周囲を薙ぎ払う仕草をすると、ゴオッと言う音共に紅蓮の炎が現れ、彼女を取り囲んで居た兵士たちの衣服などに炎が燃え移り、彼等は情けない声を上げながら、地面の上に転がり、慌てて火を消そうとする。
その様子を猫の耳を生やした女性は、可笑しそうに声を上げて笑い、
「今のはほんの挨拶だよ? そんなんでビビってどうするのさ?」
突然繰り出された炎を見て、戦意喪失気味のオルゲン家の兵士たちにそう言って、嘲笑う。
「お父様……」
アルシェラは、不安に満ちた表情を浮かべ、側に居たオルゲン将軍の腕をギュッと掴む。
「誰の差し金だ!」
レックスは表情を険しくし、唸る様な声で、猫の耳を生やした女性に問い掛けると、
「そんなの聞かれて素直に答えると思うかい? 聞くだけ無駄だね」
彼女は小馬鹿にした口調で、レックスにそう言い返した。
その間、ロナードは猫の耳を生やした女性に気付かれぬ様に顎で『行け』と、オルゲン将軍らに合図を繰り返して、レックスとエルトシャンも、自分の大きな体で、相手の視界を遮る様に立つ。
「姫。 お館様。 今の内に」
ロナードの合図に気付いた兵士の一人が、アルシェラとオルゲン将軍の下へ駆け寄ると、ボソリとそう声を掛けた。
オルゲン将軍は直ぐにロナード達の意図を察し、アルシェラを抱きしめる様にしながら身を低くすると、自分たちを守る様に取り囲んで居た兵士に隠れる様にし、こっそりとその場から離れた。
「そうはいかないよ」
猫の耳を生やした女性は、ピクピクと耳を忙しく動かした後、突如ポツリと呟くと、目の前に立って居た、長身なレックスとエルトシャン、兵士たちの頭上を豹の様に軽々と飛び越えて、全く危なげ無く、猫の様に逃げようとしていたオルゲン将軍たちの前に着地した。
「ンな――――っ!」
レックスは、それを見て目を丸くして、思わず驚きの声を上げる。
「悪いねぇ。 チェックメイトだよ」
あまりの事に驚き、その場に立ち尽くして居たオルゲン将軍に向かって、不敵な笑みを浮かべ言うと、猫の耳を生やした女性は、オルゲン将軍に向かって持っていた槍を鋭く突き出した。
「お父様!」
「お館様!」
側に居たアルシェラと、少し離れた場所に居たレックスは、恐怖に顔を引き攣らせ、思わず揃って声を上げる。
そのままオルゲン将軍は串刺しになると思われた瞬間、ゴオッと言う音共に、物凄い勢いで風が巻き起こり、その勢いにオルゲン将軍は、危うく吹き飛ばされそうになる。
アルシェラが目を開くと、何時の間に駆け付けたのか、猫の耳を生やした女性とオルゲン将軍の間にロナードが居て、片足を大きく前に踏み出し、猫の耳を生やした女性の胸元に向かって片方の掌を突き出していた。
そして次の瞬間、猫の耳を生やした女性は、数メートル後ろに吹き飛ばされた。
見れば、彼女がしていた鉄の胸当は、大きくひび割れている。
「何だいアンタはッ! こんなの笑えないよッ!」
猫の耳を生やした女性は、自分がしている鉄の胸当ての状況を見て、額に青筋を浮かべ、怒りを顕わにして叫ぶと、物凄い勢いでロナードに向かって槍で薙ぎ払う。
ブンと思い切り、空気を斬る音を立てて、物凄い勢いで向かって来た槍先をロナードは素早く身を屈め、軽々と避けると、ダンと力強く地面を蹴り、立ち上がりながら、腰に下げていた剣を引き抜き、勢い良く彼女に向かって剣を振り上げた。
「チッ」
猫の耳を生やした女性は舌打ちすると、素早く後ろに身を引いて、ロナードが振り上げた剣を避ける。
「俺が引き付ける。 その間に二人を逃がせ!」
ロナードは、猫の耳を生やした女性と対峙したまま、背中越しに近くに居た兵士に言った。
「は、はいっ!」
兵士は慌てて返事をした。
「『はい!』じゃないわよ! 加勢しなさいよ! ロナード一人に任せてど――するのよ!」
アルシェラは表情を険しくし、側に居た兵士に怒鳴り付けた。
「冗談キツイですよ。 さっきのアイツの身のこなし、見て無かったのですか?」
兵士は戸惑いの表情を浮かべ、無茶苦茶な事を言うアルシェラに言い返した。
「ここは大人しくロナードに従うんだ。 アル。 君たちが居ては邪魔になるだけだよ」
エルトシャンが、レックスに支えられ、片手で脇の辺りを手で抑えつつやって来ると、真剣な面持ちで不満そうな顔をしているアルシェラに言った。
「ちょっ……。 エルト大丈夫なの?」
アルシェラは、エルトシャンが脇腹辺りから血を流しているのを見て、戸惑いの表情を浮かべ、彼に問い掛ける。
「大した傷じゃないよ。 それより早く行って」
エルトシャンは、猫の耳を生やした女性を見据えたまま、真剣な面持ちで言い返した。
エルトシャンに促され、アルシェラは戸惑いつつも、オルゲン将軍と共にその場から離れる。
「なっ……待ちな!」
それを見て、猫の耳を生やした女性はそう言って、追い駆けようとすると、その行く手にロナードとエルトシャンが立ち塞がる。
「無理をするな。 エルトシャン。 お前も行け」
ロナードは、猫の耳を生やした女性を見据えたまま、背中越しにエルトシャンにそう声を掛ける。
「お断りだよ」
エルトシャンは、不敵な笑みを浮かべながら、ロナードに言い返すと、彼は軽く溜息を付く。
「ここはオレに任せて、お館様たちの所へ行ってくれ。 エルトシャン様。 ロナードの助太刀はオレがすっから。 無理はしないでくれ」
遅れて駆け付けたレックスも真剣な面持ちで、エルトシャンにそう言った。
「仕方ないね。 レックスがそう言うのなら……」
エルトシャンは、渋々と言った様子でそう言うと、先にその場から離れたアルシェラ達の後に続いた。
「あんな、片足を棺桶に突っ込んでる様な爺の為に、アンタ達みたいな若いのが命張る必要なんてないと思うけどねぇ」
猫の耳を生やした女性は肩を竦めると、苦笑い混じりに自分の良く手を阻む、ロナードとレックスに言った。
「その片足を棺桶に突っ込んでる様な爺を、わざわざ殺しに来るアンタも大概だと思うが」
ロナードは剣を手に身構え、猫の耳を生やした女性と対峙したまま、そう言い返した。
「依頼なんでね」
彼女はそう語ると肩を竦めてから、
「あと十年もしない内に、棺桶の中に入りそうな爺をわざわざ殺そうと思うんだから、余程あの爺さんに恨みがあるか、居て貰っちゃ困るか……そのどちら共なんだろうねぇ」
苦笑い混じりに、そう付け加えた。
「報酬が幾らかは知らないが、無駄に命を散らす前に、諦めて引き上げるべきだと思うが」
ロナードは淡々とした口調で、猫の耳を生やした女性に言うと、
「大した自信だね。 アンタの方こそ、その無駄に綺麗な顔に一生消えない傷が付く前に、引き下がった方が良いんじゃないのかい? 商売出来なくなるよ?」
猫の耳を生やした女性は不敵な笑みを浮かべ、そう言ってロナードを挑発すると、彼は無言で睨み付ける。
(馬鹿だコイツ。 ロナードが一番嫌がる事を言いやがった……)
ロナードの全身から、物凄い殺気を発しているのを見て、レックスは心の中で呟くと、苦笑いを浮かべる。
何時だったか、ロナードが自分の女の様な顔に、コンプレックスを抱いている事を聞いた事があった。
「その無駄に動く尻尾、今直ぐ叩き切ってやる!」
ロナードはそう言うと、ダンッと力強く地面を蹴ると、猫の耳を生やした女性に切り掛かった。
「アタシの自慢の尻尾にケチを付けるのかい? 返り討ちにしてやるよ!」
猫の耳を生やした女性はそう叫ぶと、自分に切り掛かって来たロナードの剣を、持っていた槍で軽く受け流す。
二人は、目にも止まらぬ速さで攻防を繰り広げ、金属同士が激しくぶつかり合う音と、時折、火花が見えるだけで、オルゲン家の兵士たちの目には、彼等がどの様な動きをしているのか、全く目で追う事が出来ず、ただ呆然とその場に立ち尽くして居た。
(この女、単身で乗り込んで来ただけの事はあって、相当な腕前だぜ……。 オレが助太刀する隙がねぇ……)
レックスは、少し離れた所で二人の攻防を見ながら、心の中で呟くと苦々しい表情を浮かべる。
「魔術師のくせに、やるじゃないか!」
猫の耳を生やした女性は、ロナードの攻撃を受け止めながら、不敵な笑みを浮かべ、そう言った。
二人は互いの武器を合せたまま、抜かるんだ地面に足がめり込む程、思い切り両足で踏ん張り、力任せに互いを押し合う。
次の瞬間、目の前に居た猫の耳を生やした女性がフッと姿を消したと思った刹那、足を払われ、体が浮く感覚に見舞われ、ロナードはとっさに風の魔術を繰り出し、自分の前に空気の壁を作る。
半秒遅れて、片手を前に突き出し、地面に尻餅を付く様な格好でスッ転んだロナードに向かって、猫の耳を生やした女性が手にした槍が振り下ろされ、ガギンと激しくぶつかる音がした。
(危なかった……)
ロナードは、間一髪で相手の攻撃を防ぎ、額に薄っすらと冷や汗を流しながら、心の中で呟く。
そして、相手と間合いを取るため、ロナードは素早く地面を蹴り、後ろへ飛び退くが、地面が抜かるんでいる所為で、彼は一メートル程後ろに滑りつつも踏ん張り、体勢を立て直すと、左手で頬に付いた泥飛沫を拭った。
「ったく。 面倒臭い子だねぇ……。 今のは獲れてたのに! 空気の壁を作って防ぐなんて狡いよ」
猫の耳を生やした女性は、悔しそうに舌打ちすると、苛立ちを隠せない様子で呟く。
「使えるモノを使って何が悪い?」
ロナードは立ち上がり身構えたまま、淡々とした口調で言った。
「そりゃそうだわね。 要は、生き残った者が勝ちなんだからさ」
彼女は身構えたまま、苦笑いを浮かべながら言い返した。
二人は身構えたまま、無言でお互いの様子を探って居たが、暫くして……。
「止めた。 止めた」
突然、猫の耳を生やした女性がそう言うと、身構えるのを止め、サクッと持って居た槍の先を地面に突き刺すと、両手を広げ、面倒臭そうに言ったので、ロナードは面を食らった様な顔をして彼女を見る。
「戦うだけ、無駄な気がして来たよ。 仮にアンタを殺れたとしても、アタシも無事じゃ済まないのは明白だ。 しかもアタシの首を獲ろうとしてるのは、アンタだけじゃないしね。 その間に、将軍は逃げ遂せてしまうだろうしねぇ」
猫の耳を生やした女性は、遠巻きに自分を取り囲んで居る、オルゲン家の兵士やレックスを見回しながら言った。
「……」
彼女の話を聞いて、ロナードは、何処かホッとした様子で、軽く息を吐くと剣を鞘に収めた。
「それにしてもアンタ、見た目に反してホントにやるねぇ」
猫の耳を生やした女性は、そう言いながらロナードに歩み寄る。
「どうだい? 今度アタシと一緒に飲まないかい? 強い男は嫌いじゃないよ」
猫の耳を生やした女性は、猫なで声で言うと、まるで猫が擦り寄る様に、ロナードに擦り寄った。
レックスが立っていた位置から、彼女が手に何か持っているのが見え、彼はとっさにロナードに危険を知らせようと口を開けた時、ロナードは俄かに表情を険しくして、乱暴にすり寄って来た彼女の手を掴み上げ、そのまま素早く手を捻じり上げた。
「見え透いた手だな」
ロナードは、猫の耳を生やした女性の片手を掴み上げたまま、淡々とした口調で言った。
彼女の手には、折り畳み式のナイフの様なモノが握られていた。
「流石に平和ボケしてる何処かの兵士とは違って、良い勘してるねぇ」
猫の耳を生やした女性は、痛そうに顔を歪めながら、後ろ手にされたままそう言った。
そう言う割には、全く悔しそうでは無く、寧ろ、余裕すら感じさせる彼女の表情に、レックスが違和感を覚えた次の瞬間、シュッと霧状のモノが彼女の手に握られていた、折り畳み式のナイフの様な物から勢い良く噴き出した。
ロナードは慌てて、掴んでいた彼女から手を離すが、至近距離でそれを浴びてしまった。
「汚いぞ……」
ロナードは悔しそうな顔をしつつ、そう言いながら、まるで酔っぱらいの様に千鳥足になりながら、後ろへ二、三歩退いた後、ドタッと地面の上に力なく倒れ込んだ。
「アンタがさっき言った言葉、そっくりそのまま返すよ」
猫の耳を生やした女性は、力なく地面の上に倒れたロナードを静かに見下ろしつつ、不敵な笑みを浮かべながら言った。
「ロナードっ!」
それを見たレックスが、剣を手に駆け寄ろうとすると、猫の耳を生やした女性は、手に持っていた折り畳み式のナイフの刃を返すと、倒れているロナードを踏み付け、
「おっと! これ以上近付くんじゃないよ! でないと、この子の首を掻っ切るよ?」
駆け寄ろうとしたレックスに向かって、そう凄んだ。
「卑怯だぞ!」
猫の耳を生やした女性に凄まれ、レックスは苦々しい表情を浮かべつつも、それ以上近付く事は出来なかった。
「とは言え、この綺麗な坊やと遊んでた間に、将軍には逃げられちまったからねぇ……」
猫の耳を生やした女性は、ロナードを踏み付けたまま、彼を見下ろしながら呟くと、自分の周囲に居た兵士たちに向かって、
「アンタたち! この坊やの命が惜しければ、逃げた将軍を呼んで来な!」
そう叫んだ。
「その様な要求、受け入れられるモノか!」
「そうだ! 我々はオルゲン侯爵様の兵だ。 例え、その方が侯爵家の客人とは言えど、主の命と天秤に掛ける訳が無かろう!」
兵士たちは表情を険しくし、強い口調で口々に、猫の耳を生やした女性に言い返すと、
「ふうん。 じゃあ、今ここでアタシがこの子を殺したら、アンタたち全員纏めてクビ確定だよねぇ? 将軍の大事なお客人を見殺しにしたんだからさぁ。 流石に『済みませんでした』じゃ済まないだろ? 明日から全員揃って無職って訳だ」
猫の耳を生やした女性は身を屈めると、ロナードの首筋にナイフを突き付け、不敵な笑みを浮かべながら兵士たちに言った。
猫の耳を生やした女性に、痛い所を突かれ、オルゲン侯爵家の兵士たち揃ってはたじろぎ、返答を窮する。
「馬鹿な兵士を持つと大変だねぇ……。 お気の毒様。」
自分に対して、何も言い返せなくなった、オルゲン家の兵士たちを見て、猫の耳を生やした女性は、苦笑いを浮かべながら、忌々し気な顔をし、拳を握り絞めているレックスに意地悪く言った。
どうして良い物かと、レックスも兵士たちも手を拱いていると突然、倒れているロナードを中心に、緑色に光る魔法陣が浮かび上がった。
「なっ、何だい……」
猫の耳を生やした女性は、身の危険を感じたのか、そう言って慌てて魔法陣の中から飛び出そうとした。
だが、魔法陣の周囲には、目には見えない空気の壁の様なモノがあって、彼女はそれに阻まれて、その弾みで思い切り後ろにスッ転んだ。
やがて、緑色の魔法陣の中から、掌程の大きさの緑色に光る何かが無数に現れた。
それは、幼い少女の様な笑い声を上げながら、猫の耳を生やした女性の周りを飛び回っている。
「な、何だよコレ! 鬱陶しいね!」
猫の耳を生やした女性はそう言いながら、自分の周囲に飛ぶ、緑色に光る小さな生き物たちを手で追い払おうとする。
やがて、何処からか、甘い花の香りが漂って来て、その香りを嗅いでいると、何だか急激に眠たくなって来た……。
周囲に居た兵士たちは眠気に負けて、ウトウトし始める者までいる。
レックスは、強烈な眠気に見舞われつつも、必死でロナードの周囲を囲む様に現れた魔法陣の中で起きている事を見届けようと、重い瞼に負けぬ様、必死に目を凝らす。
ロナードを仕留めようとしていた猫の耳を生やした女性も、ここで眠ってしまっては、捕まってしまう事は重々理解しているので、眠らぬ様に必死に堪えている。
だがやがて、力が抜けた様にカクンと膝から崩れ落ちると、そのままその場に崩れる様に倒れた。
時間にして、ものの五分ほどだった。
すると、緑色に光っていた魔法陣が消え、その中を飛んでいた、緑色に光る小さな何かが一斉に飛び出して来た。
フワッと、眠気を誘う甘い香りを微かに伴いつつ、戸惑って居るレックス達の合間を風の様にすり抜けて行った……。
その際、レックスの耳に『今ノ内ニ掴マエテ』と、少女の声で囁くのが聞こえ、強いミントの香りがして、睡魔に負けそうになっていた彼の目は一気に覚めた。
「コイツを捕まてくれ!」
ハッとしたレックスは、慌てて側に居た兵士たちに向かって、猫の耳を生やした女性を指差しながら叫んだ。
彼等もレックスの声に弾かれた様にハッとすると、縄を片手にオルゲン将軍を襲撃しようとした猫の耳を生やした女性の下へと駆け出した。
彼女は兵士たちが自分たちに近付いて来た事も気付かない程、深く眠ってしまっており、兵士たちに両手を後ろ手にされ、逃げられぬ様に縄でグルグル巻きにされた。
「ロナード! ロナード。 おい! しっかりしろ!」
レックスはそう言いながら、猫の耳を生やした女性の所為で、眠ってしまったロナードを揺すり起こそうとするが、彼もまた死んだ様に眠ってしまっている。
このままにしておく訳にもいかないので、レックスは徐に、眠ってしまっているロナードを抱き上げようとするが、眠って全身の力が抜けている所為か、思いの外重たかった。
そうこうしている内に、先に屋敷へ緊急事態知らせる為に戻って居た兵士が、応援の兵士と馬車を引き連れてやって来た。
既に馬車には、先に逃がしたオルゲン将軍とアルシェラ、そしてエルトシャンが乗って居た。
「もしかして、やられたの?」
事情を知らないエルトシャンが、ロナードがグッタリしているのを見て、焦りの表情を浮かべながら、勢い良く馬車から降りて来た。
「いいや。 相手の卑怯な手口で眠らされたんだ」
レックスは、眠っているロナードを抱き抱えたまま、落ち着き払った口調で、自分たちに駆け寄って来たエルトシャンに答えると、
「良かった。 グッタリしているから焦ったよ」
エルトシャンはそう言うと、ホッと胸を撫で下ろした。
「早く、乗せなさい」
心配して降りて来たオルゲン将軍も、穏やかな口調でレックスにそう言うと、彼に抱えられ、死んだ様に眠って居るロナードの下へ歩み寄り、
「こんなに冷え切って……。 風邪をひいてはいかん。 誰か毛布を」
オルゲン将軍は、すっかり冷えて血の気の失せている、ロナードの頬についた泥を手の甲で優しく拭いながら、近くに居た兵士たちに言った。
直ぐに女性の兵士が、急いで毛布を手に駆け寄って来ると、それを受け取ったオルゲン将軍は自ら、ロナードの体を毛布で優しく包んだ。
「風邪をひかぬと良いが……」
オルゲン将軍は、ロナードを見つめながら、心配そうな表情を浮かべ、そう呟いた。
「まだ、近くに仲間が居るかも知れません。 急いでこの場から離れましょう」
エルトシャンは、真剣な面持ちでオルゲン将軍に言うと、
「そうだな」
オルゲン将軍も頷きながら、返した。