出会い
主な登場人物
ロナード…漆黒の髪に紫色の双眸が特徴的な、傭兵業を生業として居た魔術師の青年。 落ち着いた雰囲気の、実年齢よりも大人びて見える美青年。 一七歳。
エルトシャン…オルゲン将軍の甥で、新設された組織『ケルベロス』のリーダー。 愛想が良く、柔和な物腰な好青年。 王国内で指折りの剣の使い手。 二一歳。
アルシェラ…ルオン王国の将軍オルゲンの娘。 カタリナ王女の命を受け、新設される組織に渋々加わっているが……。 一六歳。
オルゲン将軍…ルオン王国のカタリナ王女の腹心で、『ルオンの双璧』と称される、幾多の戦場で活躍をして来た老将軍。 魔物退治専門の組織『ケルベロス』を、カタリナ王女と共に立ち上げた人物。
レックス…オルゲン侯爵家に仕えて居た騎士見習いの青年。 正義感が強く、喧嘩っ早い所がある。 一七歳。
カタリナ王女…ルオン王国の王女。 病床にある父王に代わり、数年前から政を行っているのだが、宰相ベオルフ一派の所為で、思う様に政策が出来ずにおり、王位を脅かされている。 自身は文武に長けた美女。 二二歳。
サムート…クラレス公国に住む、烏族の長の妹サラサに仕える、烏族の青年。 ロナードの事を気に掛けている主の為にルオンとクラレスを行き来している。 人当たりの良い、物腰の柔らかい青年。
メイ…オルゲン侯爵家に仕えている騎士見習いの少女。 レックスとは幼馴染。 ボウガンの名手。 十七歳。
北半球のほぼ中央に位置する、世界最大の大陸『ランティアナ』。
この大陸の南西に、『ルオン王国』と言う国がある。
この国は、南半球の国々との海上交易の拠点として、古くから交易で栄えて来た国であり、屈強な竜騎士団を擁する、軍事大国でもあった。
しかし一五年程前、南半球の東にある、『アルバスタ』大陸全土を統治する、『エレンツ帝国』の侵略を受け、焦土と化した。
その後、ランティアナ大陸の西側諸国の連合軍により、帝国軍を辛うじて撤退させる事に成功し、戦火で焼け落ちた都市は復興が成されはしたが……。
その裏で地方では、先の戦いの徴兵の際、多くの若者を戦で失い、僅かに残っていた若者たちも、この数年の不作の所為で生活が困窮し、田畑を手放し、職を求め、都市部へと出て行った為、地方の労力不足に拍車が掛る悪循環に陥っていた。
それに加え、エレンツ帝国が本土から持ち込み、放ったと言われる凶暴な魔物が群れを成し、小さな村や町を襲い、耕した田畑を踏み荒らし、精魂込めて育てた家畜を盗み、村人を惨殺し、破壊の限りを尽くすと言う被害も深刻さを増していた。
都市部では、仕事を求める者や、魔物から逃げて来た者が詰め掛け、人が溢れ、慢性的な住宅不足、雇用不足に陥り、都市の外れには大規模な貧民街まで現れ、そこが犯罪者の温床となり、治安が悪化している……。
他にも、問題が山積している中、ルオン国王が病床に臥せってしまう。
娘であるカタリナ王女が、国王の代理を務め政に携わる様になると、予てから王位を狙っている、宰相ベオルフの一派と王女一派との王位争いが水面下で激しさを増し、ルオン王国は混迷の一途を辿っていた。
そんな中、カタリナ王女は、年を追う毎に酷くなる魔物の被害に懸念を示し、人々の安全と生活を守る為、魔物退治専門の組織、『ケルベロス』の創立を決意する。
王女の腹心であるオルゲン将軍も賛同し、創立の準備は着々と進められていた。
ルオンの街の中央に、威圧的な黒塗りの巨大な|建物がある。
それが、ルオンの王族が住まうルオン王宮である。
エレンツ帝国軍の侵略を受けた際、ルオンの街は多大な被害を受け、ルオン王宮も焼け落ちてしまい、再建されたのが、優美さなど全く感じさせぬ、要塞の様な王宮が作られた。
現在、病床に有る国王に代わり、国政を行っているのは、二二歳になる国王の一人娘カタリナ・フォン・イリーナ・ルオン王女である。
カタリナ王女は、太陽の日差しの様な、癖の無い見事な金色の長髪と、ルオンの海を想わせる深い紺碧色の双眸、肌の色は陶器の様に白く滑らかなで、女性にしては背が高く、武芸を嗜む事もあり、スラリ引き締まった体付きの、眉目秀麗な美女である。
しかしながら、その美しい容姿とは違い、非常にプライドが高く、勝ち気で、女ながらに武芸にもけており、他者に甘える事が出来ない、気難しい性格であるが故、適齢期を過ぎても結婚の『け』の字どころか、恋人すらいない。
おまけに、美しいドレスを身に纏い、煌めく宝石を付けて着飾る事が嫌いで、貴族の子弟たちがする様な格好を好む為、女性らしい、柔らかな雰囲気などは微塵も無く、抜身の刃の様に鋭く、硬質で冷たく、近づき難い印象を他者に与える事が多い。
その日、カタリナ王女は、腹心あるオルゲン将軍の娘アルシェラを『お茶会』と称して、王宮の自室に呼び付けていた。
アルシェラは、太陽の光を受けて煌めく小川を想わせる見事な長い銀髪に、磨き上げた琥珀の様な大きな瞳を有し、色白で中肉中背、年は一五歳のまだあどけなさが残る少女である。
アルシェラは、カタリナ王女の様に美人と言う訳では無く、大きな瞳が印象的な、小顔でとても可愛らしい顔立ちをしている。
ただ、ゴシックロリータファッションが大好きで、大きなリボンを頭に付けたり、フリルがふんだんにあしらわれた、かなりイタイ格好をしている為、実年齢よりも幼い印を周囲に与えている。
天下のオルゲン将軍の一人娘と言う事で、周囲からは甘やかされて育った所為で、かなり我儘で、同年代の貴族の子女たちとは違い、貴族の若者たちが嗜む様な、狩りや乗馬、模擬戦などを観戦する事が大好きな、じゃじゃ馬娘である。
カタリナ王女の部屋は、三階建の王宮の最上階にあり、部屋の出入り口には、重厚な樫で出来た大きな扉があり、その前には厳つい顔をした騎士たちが、入り口の左右に立っている。
「殿下に本日、お茶のお誘いを受けて参りましたぁ。 アルシェラ・フォン・オルゲンですぅ」
扉の前にいた、厳つい顔をした兵士たちを前に、おずおずとした口調で彼女は言った。
「お伺いしております。 殿下は中でお待ちです。 どうぞ」
兵士はそう言うと、左右から重厚な扉を開いた。
アルシェラは扉が開いてしまうのを待って、部屋の中へと足を踏み入れた。
部屋の中は落ち着いた雰囲気で、置かれている調度品は、どれも繊細な彫刻が施され、いたる所に銀細工があしらわれ、何度も丁寧に磨き上げられ、光沢を放っている。
床には、如何にも高そうな分厚い、複雑な模様の赤い絨毯が隙間なく敷かれている。
部屋の中央には、大理石で出て来たテーブルが置かれ、座り心地の良さそうな本革のソファーが、テーブルを囲む様に配置されており、白いテーブルクロスが敷かれたテーブルの上には、お茶会を楽しむ為の焼き菓子が置かれたトレイ、美しいデザインのティカップが置かれており、部屋の中は、甘いお菓子の香りで満たされていた。
「来たかアルシェラ」
奥の一人掛けのソファーに足を組んで座っていた、美しい金髪を有した、貴族の子弟たちがする服装の若い女性が、部屋に入って来たアルシェラにそう声を掛けて来た。
彼女こそが、この部屋の主であるカタリナ王女である。
父オルゲン将軍と一緒に彼女の私室に来た事は何度かあるが、この様に一人で訪れるのは初めてかも知れない。
何かあれば、庇い立てしてくれる父が居ないので、アルシェラは何時も以上に緊張していた。
「本日はお招き頂き、有難うございますぅ。 殿下ぁ」
アルシェラは、着ていたドレスの裾を掴み、深々と頭を垂れながら、カタリナ王女に挨拶をすると、
「堅苦しい挨拶は良い。 まあ、座れ」
カタリナ王女は苦笑いを浮かべながら、アルシェラにそう言って、ソファーに座る様に勧めると、彼女は軽く会釈をすると、テーブルを挟んでカタリナ王女の向かいのソファーに腰を下ろした。
「今日はぁ、何のご用件ですかぁ?」
アルシェラは、カタリナ王女に無邪気に問い掛ける。
「アルシェラ。 オルゲンと私が、新しい組織の創設を行っている事は知っているだろう?」
カタリナ王女は、真剣な面持ちで、アルシェラに問い掛ける。
「えっ、あ、はぁい。 詳しくは知りませんケドぉ……」
アルシェラは、戸惑いの表情を浮かべつつ、カタリナ王女にそう答えた。
(つーか、興味ないしぃ)
アルシェラは、心の中でそう呟くと、紅茶が注がれたカップを口に運ぶ。
「その組織のリーダーをエルトシャンにする事にした」
カタリナ王女は、真剣な面持ちでアルシェラに言うと、
「そうなんですねぇ」
アルシェラは、どうでも良さそうな口調で答えると、
「他人事の様に言うが、これで良い結果を出せば、いよいよオルゲン家の家督をエルトシャンに取られるぞ。 お前はそれでも良いのか?」
カタリナ王女は思い切り眉を顰め、真剣な面持ちでアルシェラに問い掛ける。
「それはぁ……嫌ですけどぉ……」
アルシェラは、戸惑いの表情を浮かべながら答える。
「そう思うのなら、お前もその組織で手柄を立てろ。 それが出来なけければ、オルゲンが勧める相手と結婚する他なくなるぞ」
カタリナ王女は、真剣な表情と重々しい口調で語る。
カタリナ王女の言葉を聞いて、アルシェラは思わず顔を青くする。
(そんなの冗談じゃないわよ! アタシは好きな人と添い遂げるって決めてんだから、勝手に相手を決められて堪るかっつ~の!)
アルシェラは、ワナワナとテーブルの下で拳を震わせながら、心の中でそう呟く。
「お前にもチャンスをやる。 エルトシャンの下でお前も手柄を立ててみせろ。 そうすればオルゲンや私は勿論、周囲の者もお前の事を認めざる得なくなる」
カタリナ王女は、真剣な面持ちで語る。
(そんな簡単に言わないで! アンタじゃ無いのよ!)
アルシェラは、ゲンナリした表情を浮かべ、心の中で叫ぶ。
「アタシはぁ。 カタリナ様の様に文に長けている訳ではないのでぇ……それはちょっと厳しいかなぁって思いますぅ」
アルシェラは困惑を隠せない様子で、おずおずとそう答えると、
「まだ何もしとらんだろうが!」
カタリナ王女は、アルシェラの物言いが気に入らなかったのか、声を荒らげて言い返す。
「それはぁ……そうですけどぉ……」
カタリナ王女に凄まれ、アルシェラはビクビクし、口籠らせながら答える。
「そうやって直ぐに、『アタシには無理です』と言うのは、お前の悪い癖だ。 やってみなければ、分からぬではないか」
カタリナ王女は自分を落ち着かせる為、一口、紅茶を飲んで『ふう。』と溜息を付いてから、真剣な面持ちで言った。
「でもぉ……」
アルシェラは、自信なさそうな表情を浮かべ言うと、カタリナ王女は溜息を付き、
「お前はあと三年もすれば成人なのだぞ? お前自身の将来の為にも、今やらなくて、何時するんだ?」
落ち着き払った口調で、アルシェラにそう説くと、
「だったらぁ。 成してから頑張りますぅ」
だが、アルシェラは『迷惑以外の何ものでも無い』と言った様子で、縋る様に上目遣いをしながら、消え入りそうな声でカタリナ王女に言った。
アルシェラの何処までも後ろ向きで、やる気の無い態度に、カタリナ王女は呆れ、
「それでは遅いと、言っているのだ!」
バンと勢い良くテーブルを両手で叩いてから、強い口調で、ビクッと身を強張らせたアルシェラを叱りつけた。
「えっ、でもぉ……。 心の準備と言うかぁ……」
アルシェラはそれでも、嫌そうな様子で、ゴニョゴニョとその様な事を呟いているので、カタリナ王女はイラッとして、勢い良く立ち上がり、
「諄いぞ! この話は既に、お前の父であるオルゲンとも付いている! 諦めろ!」
強い口調でアルシェラに言うと、彼女の迫力に圧され、アルシェラは身を縮こまらせつつ、
「そんなぁ……。 お父様も了承してるなんてぇ……。 エルトと競争とか無理ですよぉ」
困り果てた様子で、呟く。
「そう言う事だ。 承諾してくれたオルゲンの顔に泥を塗らぬ様、せいぜい励む事だな」
カタリナ王女は、両腕を自分の胸の前に組み、ソファーに腰を下ろしながら、冷たくアルシェラにそう言い放った。
「そ、そんなぁ……。 無理ですよぉ。 絶対ぃ」
アルシェラは愕然とした表情を浮かべ、力なく呟いた。
「話は以上だ。 下がって良いぞ」
カタリナ王女は、淡々とした口調でそう言うと、アルシェラの退席を促す様に、片手で追い払う様な仕草をする。
カタリナ王女の態度を見て、アルシェラは仕方なくソファーから立ち上がり、部屋を後にしたのだが、彼女のその心中は実に複雑であった。
(マジ最悪。 何でアタシがそんな面倒臭さい事、やんなきゃなんないワケ? 有り得ないし。 アタシはオルゲン侯爵令嬢よ? こんなの絶対に可笑しいわよ)
アルシェラは不満に満ちた表情を浮かべ、心の中で呟く。
時を同じくして、ルオン王国から見て東、大陸を南北に縦断する、世界最高峰の山々が連なるランティアナ大山脈を隔ててある、ルオン王国の自治領地クラレス公国内に、『烏族』と呼ばれる、烏の羽を背に生やした人種たちの里があり、そこへ一人の若者が、とある人物の迎えに来ていた。
烏族の里は、人間たちの侵入を阻む様に、ランティアナ大山脈の中腹辺りの、切り立った崖の上の台地にあり、山脈から突き出た巨岩を刳り抜いて作られた、族長一族の住まいである、巨大な居城が里を訪れた者たちの目を惹く。
彼等は、人間たちが用いる言語とは異なる言葉を喋り、非常に優れた機織り技術を持っており、ここで生み出される織物を主軸に、古くから人間たちと交易を行い、財を成し、生活して来た為、排他的な他の亜人たちとは違い、比較的、人間に友好的な種族だ。
ここに訪れたのは、ルオン王国の将軍でカタリナ王女の腹心でもある、オルゲン侯爵の甥のエルトシャン・フォン・バルフレアだ。
彼は、この大陸に住む人間たちに良く見られる、少し癖のある明るい茶色の髪、目尻が下がった明るい緑色の双眸、少し日に焼けた薄い赤銅色の肌を有している。
背はこの大陸に住む男性の平均的な背丈で、ガッチリとしているが無駄な筋肉が付いておらず、シャープな体付きの、女性ウケの良さそうな柔和な顔立ちをした青年だ。
彼が通訳を伴い烏族の里を訪れるのは初めてでは無く、この半年の間、彼の伯父であるオルゲン将軍やカタリナ王女の書簡を手に仕事の合間を縫って、足蹴無く通っていた。
特産品である織物を買い付けに来る商人でもないのに、何度も何度も里へ訪れる彼に対して、里の烏族たちは、『何をしに来ているのだろうか』と、不思議そうに彼の事を何時も見ている。
エルトシャンが初めてこの里に訪れた時は、自分たち人間とは異なる容姿と、自分たち人間と異なる言語を喋る烏族に戸惑い、異世界に放り込まれた感覚であったが、今は、自分を物珍しそうに見る彼等の視線にもすっかり慣れ、慣れた足取りで一族の長が住まう居城へ向かうと、何時もの様に、まず先に、この里の長である烏王への挨拶を済ませ、目的の人物に会う為、居城の奥にある中庭へと足を運んだ。
中庭は、どうやって作られたか分からないが、岩の天井がドーム型に刳りかれ、居城内で唯一、日差しは勿論、風雨が入る構造になっており、堅い岩盤の上に何処からか土を運び込み、草木を植えた、見事な庭園があり、標高の高い岩盤の上にあり、草木が生えにくい里で数少ない、緑が生い茂っている場所でもある。
エルトシャンが会いたい相手は、この場所が気に入っている様で、この里へ訪れた時は大抵、ここに居る事が多い。
小鳥たちが囀り、吹き込んでくる風が優しく草木を揺らす中、石で作られた白いベンチの上にその人物は腰を下ろし、暖かな日差しを身に受けながら、静かに本を読んでいた。
その傍らには、何時もの様に背中に大きな烏の翼を生やした、黒に近い青紫色の髪を後ろで一つに束ねた、濃い緑色の双眸に、ごく薄い赤銅色の肌、スラリと背が高く、黒のチェニックの上から黒色のサーコートに同色のズボン、黒色のブーツと言う出で立ち、見た目は、二十代前半と思われる、温和そうな雰囲気の烏族の青年が、静かに佇んでいた。
彼は、エルトシャンが来た事に気付くと、徐にベンチに座り本を読んでいた人物に向かって、
「若様。 エルトシャン様です」
穏やかな口調でそう声を掛けると、その人物はゆっくりと本から顔を上げ、エルトシャンの方へと目を向けた。
少し長めの、癖の無いサラリとした、闇夜(を想わせる深い漆黒の髪、背丈は、一八〇センチはあると思われる長身で、スラリとした細身で、白のシャツの上に黒い春物のロングコートと黒色のジーンズと言う出で立ち、エルトシャンよりも年少の青年。
大陸の南部に位置する、ルオン王国に住まう者は強い日差しを受ける為、日焼けをして、肌の色は赤銅色なのだが、この若者は日焼けなど無縁そうな、ごく薄い赤銅色の肌で、鼻筋がスッと通った、オペラ座に出て来る女優の様に眉目秀麗だ。
何より、アメジストを丹念に磨き込んだ様な深い紫色の双眸がとても印象的で、髪の色やその出で立ちの所為かは分からないが、とても落ち着いた雰囲気で、実年齢よりも大人びて見える。
初めて彼と面会した時、その容姿に加えて、その辺の人間とは異なる、不思議な空気を纏った彼を前に、エルトシャンは圧倒され、言葉を失い、暫く彼に見惚れてしまった程だ。
この世界では、髪の色や瞳の色などが黒に近い程魔力が強いとされ、実際、嘗て世界の半分以上を支配していた、亜人たちの国『魔法帝国』の皇帝一族や主だった貴族は皆、黒髪であったと言われている。
ただ、この大陸では『魔法帝国』の末期に各地で反乱を起こした、魔力を持たない人間たちの末裔が人口の八割以上を占めているため、当時の亜人たちによる弾圧や差別を彷彿させてしまうのか、黒髪は忌み嫌われている。
それにも関わらず、彼が髪の色を変えずにいるのは、彼なりの拘りや、誇りがあるのだろう。
(相変わらず、ニコリともしてくれないなぁ……)
エルトシャンは心の中でそう呟くと、ニッコリと笑みを浮かべ、彼に向って頭を垂れた。
「……本当に来たな」
彼は、その綺麗な容姿とは異なり、かなり険のある物言いをする青年で、彼のウンザリした様子を見て、エルトシャンは思わず苦笑いを浮かべ、
「勿論だよ。 ウチに来てくれる約束でしょ?」
彼にそう答えると、彼は何処か諦めた様子で軽く溜息を付くと、手にしていた分厚い本をゆっくりと閉じ、ベンチの上に置くと、
「迎えなど来なくても、一人で行けるのに」
嫌そうな表情を浮かべ、エルトシャンにそう言い返した。
彼自身が言う様に、一人で列車に乗り、ルオン王国まで来る事は出来るだろうが、本当に彼が伯父との約束を守ってくれると言う保証は何処にも無いし、彼の護衛(多分、要らないだろうが)の意味合いも込めて、念の為にエルトシャンが迎えに来た訳だ。
「呼んでおいて迎えに行かないなんて、そんな失礼な事は出来ないよ」
エルトシャンは、目の前の相手があからさまに嫌そうにしているのを見て、苦笑いを浮かべたまま、彼に言い返す。
「ラシャからは何か、言われなかったか?」
漆黒の髪の青年は、渋々と言った様子で、座っていた石のベンチから立ち上がり、エルトシャンに問い掛けた。
『ラシャ』と言うのは、この烏族の里を統治している長(王)の名で、烏族の王なので『烏王』と世間では呼ばれており、里の者たちも『烏王』の事を『長』または『王』と言っており、名で呼ぶ事は殆ど無い。
なのでエルトシャンも、この漆黒の髪の青年に会うまでは、『烏王』の名前は知らなかった。
「いいや。 特には何も。 何度も御目通しをして、烏王さまのご意向は伺っているからね。 敢えて言わなきゃならない事なんて無かったんだと思うよ」
エルトシャンは、落ち着き払った口調で、漆黒の髪の青年の問い掛けにそう答えた。
「そうか。 では行こうか」
彼は、エルトシャンに言うと、ベンチの上に置いて居た分厚い本を手に取る。
「うん」
エルトシャンは穏やかな口調で、返事をした。
「若様……」
漆黒の髪の青年の側にいた烏族の青年が、複雑な表情を浮かべ彼を見る。
「お前にも世話になったな。 サムート」
漆黒の髪の青年は、少し寂しそうな表情を浮かべつつ、彼に声を掛けると、
「いえ若様。 ルオンまでは私も同行致します。 ですので、そのお言葉はまだ少し、早いように思われます」
『サムート』と呼ばれた烏族の青年は、真剣な面持ちでそう答えると、漆黒の髪の青年は一瞬、面食らった様な表情を浮かべてから、やがて物凄く嫌そうな顔をして、
「聞いてないぞ」
「今、申し上げました」
サムートは淡々とした口調でそう返し、ニッコリと笑みを浮かべると、漆黒の髪の青年は、片手を自分の額に添え、ゲンナリとした表情を浮かべ、
「ラシャは何時まで、俺の事を子ども扱いする気だ」
「長は貴方の事が可愛くて、仕方がないのですよ」
サムートは、苦笑混じりに漆黒の髪の青年に言った。
「それが迷惑だと言っているんだ」
漆黒の髪の青年は、物凄く嫌そうな表情を浮かべ言うと、特大の溜息を付いた。
「兎に角、若様が嫌でも長の命令ですので、御一緒致します。 そのつもりでいて下さい」
嫌そうにして居る漆黒(の髪の青年に向かって、サムートは淡々とした口調で彼に言った。
「……勝手にしろ。」
彼は、軽く溜息を付いてから、何処か諦めた様子で、サムートに返した。
(やっと、彼をルオンへ連れて行く事が出来る……。)
エルトシャンは、感慨深い表情を浮かべ、心の中で呟いた。
初めて、この漆黒の髪の青年に会う為、烏族たちの里へ向かった時、里へ立ち入る事すら許されなかった。
その為、何日も近くの森の中で寝まりをり返し、見張りの烏族たちに対し、根気強く交渉を続ける事をエルトシャンは余儀なくされた。
その後、運良く、烏族たちの織物を買い付けに来た商人が、エルトシャンの事情を聞い、烏族たちに話を通してくれたお蔭で、何とか里へ入る事が許された。
仲介を買って出てくれた商人には、彼の伯父であるオルゲン将軍から、お礼の金が贈られたであろうし、仲介を買って出た商人自身も、それを当てにしていた節もあったが、兎に角、当初の予定からは大幅に遅れてしまったが、烏族の里に入る事は出来た。
だが残念ながら、何日待ってもエルトシャンは、目的の相手に会う事は出来ず、騎士としての務めもあるので仕方なく、伯父であるオルゲン将軍とカタリナ王女の親書を、世話係のサムートに託し、一旦、ルオン王国へ戻り、事情を伯父に報告した。
その後も、三回、四回と里へ足を運んだが、里の中には入れても、頑として居城には入れて貰えなかった。
前もって聞いていた話では、エルトシャンの伯父であるオルゲン将軍と烏王は旧知の仲で、それ程、関係は悪くないと聞かされていた。
聞いていた事とは随分と違う反応を示す烏族たちに、エルトシャンはかなり困惑し、自分に何か落ち度があったのではないかと思っていた。
だが、それは杞憂であった事を、エルトシャンは後で知る事となる。
彼が居城に立ち入る事が出来なかったのは、彼に落ち度があった訳でも、烏王がオルゲン将軍の事を嫌っていた訳でも無く、会おうとしていた相手が、とても人とは会える様な情況では無かったのだ。
今、エルトシャンの目の前に居る、この黒髪の青年『ロナード』は一年ほど前まで、烏王たち烏族とも疎遠で、マイル王国やカナン王国などと言った、クラレス公国から見て北西にある国々を転々としながら、一人で傭兵として逞しく生きていたのだと言う。
ただ、傭兵と言う己の実力が全ての血も涙も無い、騙し合い、殺合う事が日常茶飯事の非常にシビア過ぎる世界は、彼の心を確実に蝕み続けた。
やがて彼は心が病んでしまい、今までの自分の行いを悔いて、自殺未遂をしてしまったのだ。
事態を重く見た烏王は直ぐに、部下に命じて彼を里へ連れて来させ、自分の居城で療養させていた所に、エルトシャンはやって来たのだった。
鬱病を患っていたロナードは、周囲にすっかり心を閉ざしてしまい、食事もあまり取らず、貸し与えられた部屋に引き籠り、昼間は誰と話す訳でも無く、ただ抜け殻の様にベッドの上に腰かけたまま、そこに居るだけで、夜は悪夢に魘され、眠れぬ日々を過ごしていたと言う。
何がそこまで彼を追い詰めたのか、エルトシャンには分からないが、とても辛い日々を過ごしていたのだと言う事だけは、エルトシャンにも理解出来た。
そんな、生きる目的を見失い、どん底の中にいた彼を救ったのは、烏王の妹『サラサ』の献身的な看護と、エルトシャンが届けたオルゲン将軍の手紙のお蔭なのだと、サムートはエルトシャンに嬉しそうに語った。
エルトシャンは、オルゲン将軍がロナードに宛てて、どの様な事を書いたのかは知らないが、彼は何度か将軍との手紙のやり取りをしていく中で、自分の人生の方向性を見付けた様であった。
「ける……何だって?」
一八〇センチ近い長身で、ガッチリとした、筋肉質な体付き、ちょっと目尻が吊り上った青色の双眸、短く切られた青色の短髪、両耳には金色のリングピアス、良く日に焼けた赤銅色の肌を有した、年の頃は一六、七歳と思われる、オルゲン侯爵家の兵士たちが着る、胸元に白い糸で、盾を背に剣と槍が交わった紋章が刺繍された、紺色のサーコートに身を包んだ青年が、テーブルを挟んで向かいに座っている相手に問い返す。
「だから! ケルベロスだってば!」
肩までの長さに切り揃えた、癖のある茶色の髪を左右に分けて結び、団栗の様に大きな緑色の双眸を有した、あまり高くない団子鼻、鼻の周囲に雀斑のある、オルゲン家の兵士たちが身に付けるサーコートを着た、美人では無いのだが、愛嬌のある小柄な少女が、口を尖らせながら彼にそう言い返す。
「んで、その組織が何だって言うんだよ?」
ちょっと目尻が吊り上った青色の短髪の青年は、五月蠅そうな顔をして、右の小指で自分の耳の穴を穿りながら、彼女に更に問い掛ける。
「アンタ、先輩たちから何も聞いてないの?」
癖のある茶色の髪を左右に分けて結んでいる少女は、呆れた顔をして彼に言い返した。
「あん? その組織がなんなんだよ?」
ちょっと目尻が吊り上った青色の短髪の青年は、ムッとした表情を浮かべ、目の前の癖のある茶色の髪を左右に分けて結んでいる少女に問い掛けると、彼女は真剣な面持ちで、
「エルトシャン様、その新しく出来る組織の責任者に、王女さまから直々に任命(されたって話よ?」
「なっ……。 マジか!」
彼女の話を聞いて、ちょっと目尻が吊り上った青色の短髪の青年は、驚きのあまり大声を張り上げそう叫んだ。
彼の叫び声を聞いて、近くで食事を取っていた兵士たちが驚いて、一斉に彼の方へと目を向ける。
だが、叫んだ人物が、ちょっと目尻が吊り上った青色の短髪の青年だと分かると、『何だレックスか』『人騒がせな奴だ』などと兵士たちは言って、直ぐに何事も無かったのか様に食事を再開した。
「マジもマジよ。 この話を知らないの、アンタだけなんじゃなかって位、お屋敷の人たちの間では、この話題で持ちっ切りよ?」
癖(のある茶色の髪を左右に分けて結んでいる少女は、ちょっと目尻が吊り上った青色の短髪の青年『レックス』にそう言うと、意地の悪い笑みを浮かべ、馬鹿にする。
「すげぇな」
レックスは素直に、感嘆の言葉を口にした。
「先輩たちから聞いた話だと、今よりずっと給料も良いみたいだし、何より、王女さま直轄の組織だから、エリートコース確定だよ? アンタも試験、受けてみたら?」
髪を左右に分けて結んでいる少女は、キラキラと目を輝かせながら、レックスに言った。
「んなトントン拍子に出世出来りゃあ、オレやオメェもとっくの昔に、騎士見習いじゃなくなってんだろ」
レックスは呆れた顔をして、髪を左右に分けて結んでいる少女に言い返す。
「それはそうかも知れないけど、受けるだけ受けてみたら? アンタ、剣の腕だけはこの屋敷じゃ誰も敵わないじゃん」
髪を左右に分けて結んでいる少女は、物凄く楽天的に語る。
「んまぁなぁ」
レックスは、満更でも無い様子で答える。
「受けるだけならタダじゃん」
髪を左右に分けて結んでいる少女はニッコリと笑みを浮かべて言うと、懐から一枚の用紙を取り出して、テーブルの上に置いた。
「って、用意が良いな。 オメェ……」
それを見たレックスは、ちょっと呆れ気味に、髪を左右に分けて結んでいる少女に言った。
「年齢や業種、国籍を問わずってあるし、申し込んでみようよ」
髪を左右に分けて結んでいる少女は、戸惑っているレックスに目を輝かせながら言うと、
「んまぁ……。 受けるだけならタダだし?」
彼は、髪を左右に分けて結んでいる少女に煽てられ、ちょっとその気になっている様で、ゴニョゴニョと口籠らせつつ言った。
「そうそう」
髪を左右に分けて結んでいる少女は、ニコニコと笑みを浮かべ、そう言って何度も頷いて見せる。
「んで、試験って何すんだ? 模擬戦でもして、優勝すれば良いのか?」
すっかり乗せられたレックスは、髪を左右に分けて結んでいる少女に問い掛ける。
「ここに書いている限りでは、ルオン高原で一週間、魔物退治をして、合格に必要な数だけタグを集める、実戦を兼ねたサバイバルをするらしいわよ」
髪を左右に分けて結んでいる少女は、一通り用紙に書かれている内容に目を通してから、レックスに説明すると、
「なっ……なにぃ―――っ! この試験の主催者、頭可笑しいんじゃねぇのか? ルオン高原って言やあ、魔物たちの住処じゃねぇかよ! んな所に一週間も居て、生き残れる奴なんていねぇぞ!」
レックスは驚きのあまりバンとテーブルを叩き、身を乗り出し、大声を上げながら、髪を左右に分けて結んでいる少女に向かって言った。
「でも、そう書いてあるもん」
髪を左右に分けて結んでいる少女は、レックスが大声で叫ぶので、自分の両耳を手で塞ぎながら、五月蠅そうな顔をして彼に言い返すので、彼は思わず彼女から、その用紙を半ば奪い取る様にして手に取り、自身の目で内容を確認する。
「マジか……。 こんなん受ける奴とか居るのかよ……。 誰も来ねぇんじゃねぇのか?」
用紙の内容を確認し、髪を左右に分けて結んでいる少女が、嘘など言っていない事が分かった途端、ゲンナリとした表情を浮かべ、力なく椅子に座りながら呟いた。
「だったら、参加しただけで合格じゃないの? 現場へ行った者勝ちって事でしょ?」
髪を左右に分けて結んでいる少女は、ふとそう言うと、それを聞いたレックスはビクッと反応し、
「おお!。 確かにそうだな!。 流石だぜ。 メイ」
嬉々とした表情を浮かべ、身を乗り出し、そう言い出した。
(つまりこれは、度胸試しって事か)
レックスは、心の中でそう呟く。
「行くだけ行ってみたらどう? もしかすると、単なる度胸試しかも知れないよ? 行っただけで合格出来るなら、ラッキーじゃない?」
髪を左右に分けて結んでいる少女『メイ』も、嬉々とした表情を浮かべ、声を弾ませてそう返し、単純な彼を煽った。
「そうだな♪。 いっちょ参加してみるか!」
実に楽観的な思考の彼は、自分の都合の良い様に解釈し、実に軽い気持ちで、試験の参加を口にした。
「頑張ってね~。レックス」
メイは、ヒラヒラと片手を振り、ヘラヘラと笑いながら言った。
(うふふふ。 この調子で色んな人達を参加させれば、紹介料ガッポリじゃん。 頭良い♥。 アタシ)
メイは、一人でニヤニヤと笑いながら、心の中で呟いた。
「長らくのご乗車、お疲れ様でした。 間もなく当列車は、終点のルオン駅に到着致します。 繰り返します。 間もなく当列車は、終点のルオンに到着致します」
車両の両側に座席が整然と並び、様々な容姿の人々が座っている中、中年の車掌が中央の通路をゆっくりと歩きながら、乗客たちにそう告げ行く。
車掌が通り過ぎると、それまで静かに座席に座っていた乗客たちが、一斉に荷物を纏めようと、慌ただしく動き始めた。
「は――。 やっと、ルオンに着くね」
慌ただしく荷物を纏める乗客たちを尻目に、エルトシャンは、自分と向かい合った座席に座っていた、連れの二人にそう声を掛けた。
エルトシャンの斜め前に座っていたロナードは、列車に揺られている事に加え、窓から差し込んで来る早春の暖かな日差しを受け、小一時間ほど前から睡魔に負け、車窓の淵に肘を付ける様に頬杖をつく格好で、随分と気持ち良さそうな顔をして、夢の世界へ旅立ってしまっている。
出来る事ならば、もう少し眠らせてやりたい所だが、そうもいかないなとエルトシャンが思っていると、ロナードの隣に座っていたサムートが、優しく彼の肩を揺らし、
「若様。 起きて下さい」
穏やかな口調で、眠って居たロナードに声を掛けながら起こす。
「ん……」
彼は微かに眉を顰めつつ呟くと、静かに目を開けた。
「もう直ぐ、到着するそうですよ」
サムートは、穏やかな口調でロナードに声を掛けるが、彼はまだ眠いのか、暫くの間、窓を挟んで眼前に大小様々な建物が、林の様に立ち並んでいる街の風景をボンヤリと眺めていた。
「ルオンへは、どの位振りなの?」
エルトシャンは、やっと住み慣れた故郷のルオンへ帰って来られた事に安堵しつつ、穏(やかな口調で、車窓から外を眺めているロナードに問い掛けた。
「幼い頃、何度か来た事があるらしいが、その記憶が無いし、仕事でも来た事が無い」
ロナードは、頬杖を着いたまま、ぼんやりと外の景色を眺めながら、エルトシャンの問い掛けに、そう答えた。
「そうなんだ。 じゃあ、殆ど初めてと言う事だね?」
それを聞いたエルトシャンは、穏やかな口調で言うと、ロナードは頷きながら、
「そうだな」
と返すと、サムートが気恥ずかしそうな表情を浮かべつつ、
「恥ずかしながら、実は私も始めて来ました」
エルトシャンにそう告げると、彼はホッとした様な顔をして、
「迎えに行って正解だったね。 ルオンは、大陸でも指折りの大きな街だし、日中、大通りは特に人通りも激しいから、二人だけでは迷子になっていたかも知れないよ」
二人に向かって言った。
「野郎二人が街中で、両手に大荷物を抱えて迷子とか、冗談抜きで笑えないな」
エルトシャンの言葉を聞いたロナードは、苦笑いを浮かべながら言うと、サムートも頷きながら、
「そうですね。 エルトシャン様がいて下さって助かりました」
素直に、迎えに来てくれたエルトシャンに礼を述べた。
「予め、連絡は入れておいたから迎えの馬車が来ている筈だよ。 着いて直ぐに降りると、駅の構内が混み合って身動きが取れなくなるから、他の人が降りてしまってから、降りた方が良いね」
エルトシャン落ち着き払った口調で、連れの二人にそう説明すると、
「分かりました」
サムートがそう答えている間に、列車はどんどん街の中を進み、何処か車窓が開けているのか、微かに潮の香りが車内に漂い、遠くから船の汽笛の音が聞こえて来る。
三人を乗せた列車はやがて、少しずつ速度を落とし始め、赤い屋根に茶色いレンガ造りの、大きな時計台が付いた建物の中へと吸い込まれ、この列車の到着を待つ、多くの人たちがいるホームに到着した。
ホームで列車の到着を待っていた人の多さにも驚きだが、到着した列車の中から、何処にこれ程の人が乗っていたのかと思うくらいに、ゾロゾロと蟻の行列の様に人がホームへ出て行くのを見て、ロナードとサムートは驚いた。
彼等の前の通路通り過ぎて行く乗客たちは実に様々で、一人では抱えきれない程、多くの荷物を車掌に手伝って貰いながら、荷物を引き摺る様にして出て行く腰の曲がった白髪の老婆、荷物らしい荷物も持たず、ポケットに両手を突っ込み、身一つで通り過ぎて行く若者、小さな子供と逸れぬ様、自分たちの前に子供を歩かせ、両手に大きな荷物抱えた若い夫婦。
そう言った人たちが、次から次へとロナード達の前の通路を切れ目なく、通り過ぎて行く。
一〇分くらい待っただろうか……。
人の流れが一段落したので、ロナードとサムートはエルトシャンに促され、頭の上にある網を張っただけの荷物置きの上から、大きなトランクを幾つか下ろし、三人で手分けをしてそれを持ち、ゆっくりとした足取りで、久しぶりに揺れない地面の上に降り立った。
「ああ……。 揺れないって良いですね」
ロナードの後ろから来ていたサムートが、何処かホッとした様な顔をして呟いた。
実はサムートは、列車に乗るのは今回が初めてで、クラレスの駅から列車に乗り込む際、彼は物凄く不安そうな表情を浮かべていた。
何度も列車に乗った事があるロナードは、何時もは澄まし顔のサムートが、そんな表情を浮かべている事が可笑しくて、思わず笑ってしまいそうになったのだが、自分の事を心配して、同行してくれる優しい彼を笑うのは失礼だと思い、笑う事を必死に堪えたのだ。
列車に乗ってからもソワソワして、不安そうに辺りをキョロキョロと見回し、とても落ち着かない様であったし、夜、寝台車両へ移り、列車に備え付けられている簡素な造りの二段ベッドで横になった時も、ベッドがあまり大きくない事に加え、マットが堅い上、揺れるのも落ち着かない様で、なかなか眠れなかった様だった。
流石に二日目からは、前日の緊張と寝不足も手伝って、ぐっすりと眠った様ではあったが……。
何にしても、初めての体験ばかりで、今はまだロナードを送り届けていないので気を張っているのだろうが、見た目以上に疲れているに違いない。
三人は、列車に乗り込もうとする人の流れに押し戻されぬ様にしながら、改札口を通り、駅の外に出た。
駅を出て直ぐに、白い石造りの大きな噴水が目に飛び込んで来て、その周囲に置かれている木のベンチには、迎(えを待つ人や、迎えに来た人たちなどが座り、ベンチとベンチの間には、そう言った人たちを相手に靴磨きや、ちょっとした小物を敷物の上に並べて売ろうとしている人がいて、駅舎の前には、簡単な軽食が食べられる屋台なども並び、客を呼び込む声などで賑わっていた。
赤レンガで美しく舗装された道、通り沿いにひしめく様に立ち並ぶ店、様々な格好をした、様々な容姿の人たちが通りに溢れ、その間を縫う様にして、馬車が行き交っている。
クラレス公国の首都であるマケドニアの街も、古くから大陸の東西交易の中継地として栄えているとても大きな街で、こう言った光景はルオンと大差なかった。
決定的にクラレスと違うのは、ルオンは港街で、遠くから船の汽笛の音が聞こえる事と、新鮮な魚介類が店に並んでいるからか、磯の香りが何処からか漂って来る点だ。
そして、船乗りたちが船の積み荷や、倉庫内で保管されている荷物を、鼠から守る為に連れて来たのがいついたのか、兎に角、街の至る所に猫の姿を目にする。
しかも、漁師が捕った魚のお零れを食べているのか、どの猫も丸々と太っていて、人間が近付いても逃げようとしない。
それどころか、自ら通りを行き交う人間に擦り寄って、餌の催促をする強者までいる。
「長が居たら、思い切り眉を顰められていたでしょうね」
サムートがクスクスと笑いながら、ロナードに言うと、彼も可笑しそうに笑いながら、
「違いない」
サムートにそう答えた。
烏族の長ラシャは、子供の頃に大きな猫に変化する能力を持つ、『猫人族』の子供たちに虐められ、自慢の羽を毟られたと言う苦い過去があり、それ以来、猫を見ると、その時の屈辱を思い出すらしく、猫が嫌いなのだ。
そんなやり取りを二人がしていると、黒塗りの大きな立派な馬車がやって来て、エルトシャンに促され二人はその馬車に乗り込み、エルトシャンの伯父が住まう、オルゲン侯爵の屋敷へ向かった。
オルゲン家の家紋が入った、黒塗りの立派な馬車が入り口の門を通り、屋敷の入り口の前に横付けされ、長く何処かへ行っていた、この屋敷の主であるオルゲン将軍の甥のエルトシャンが降りて来たのを、レックスはメイと共に見ていると、エルトシャンに続いて降りて来た見知らぬ人物を見て、彼等は戸惑った。
二人はてっきり、屋敷の主であるオルゲン|将軍か、将軍の娘のアルシェラが降りて来るとばかり思っていたのに、降りて来たのは、スラリと背の高い黒髪の人物と、背の高いエルトシャンとそう背丈の変わらぬ、黒に近い青紫色の髪を後ろで一つに束ねた、若い男だった。
「誰だ?」
レックスは思わず、見知らぬ異国人風の二人を見て、徐に側にいたメイに問い掛けるが、
「さあ」
彼女も小首を傾げながら、そう返して来た。
「まあ。 黒髪なんて……」
「何て不吉なのかしら……」
近くに居た侍女たちは一様に眉を顰め、小声でその様な事を呟いている。
好奇心が旺盛なレックスは、エルトシャンが連れて来たのが誰なのか気になり、
「エルトシャン様。 この何日か見掛けて無かったですけど、何処に行ってたんですか?」
と声を掛け、エルトシャンの下へと駆け寄り、彼が連れて来た相手の情報を得ようと試みた。
父の代で子爵の地位を賜っているものの騎士見習いのレックスが、上位貴族で騎士、しかも主の甥であるエルトシャンに対し、この様な砕けた物言いをするのは、とても失礼な事なのだが、彼は気にする様子も無く、
「レックス」
エルトシャンは自分に駆け寄り、声を掛けて来た彼を見て呟いてから、
「丁度良かった。 君、この人の護衛を頼めるかな?」
徐にそう言って来たので、レックスは思いがけぬ事に驚き、
「へっ?」
と、間抜けな声を上げながら、エルトシャンの後ろに静かに佇んでいた、背の高い黒髪の人物の方へと目を向けた。
(コイツ、女か?)
レックスは、そんな事を思いながら、マジマジと背の高い黒髪の人物を観察する。
(いや、そんなに見なくても……。 かなり失礼だよ。 レックス)
レックスの様子を見て、エルトシャンは苦笑いを浮かべながら、心の中で呟いた。
背丈は、レックスより少し相手の方が高いだろうか。
しかしながら体付きは、普段、筋肉ムキムキの武骨な野郎たちを見ている所為か、レックスには、華奢に思えた。
実際、レックスの方が相手よりも二回りは、横幅がある様に思えるし、腕もレックスの半分位の太さしか無さそうだ。
(女……だよな?。 背ぇ高けぇけど)
レックスがそう思ってしまう程、とても綺麗な顔立ちをしており、特に印象的だったのが、紫水晶を丹念に磨き込んだ様な深い紫色の双眸で、あまりに綺麗な紫なので、レックスは暫くの間、見惚れてしまっていた。
だが、不意に相手と目が合うと、レックスは気恥ずかしくなって慌てて目を逸らした。
「エルトシャン様。 こちらの方は?」
背の高いエルトシャンとそう背丈の変わらぬ、黒に近い青紫色の髪を後ろで一つに束ねた若い男が、現れたレックスを見て、徐にエルトシャンに問い掛けた。
「騎士見習いをしているレックスだよ。 剣の腕は確かだから一応、護衛に付けるよ。 まあ、使い走りでも何でも、気軽に使って」
エルトシャンは落ち着いた口調で、レックスの事を紹介すると、
「そうですか。 宜しくお願いします」
背の高いエルトシャンとそう背丈の変わらぬ、黒に近い青紫色の髪を後ろで一つに束ねた、若い男は愛想良く笑みを浮かべ、穏やかな口調でレックスにそう言うと、軽く頭を垂れた。
(ふむ……。 先程の物言いと言い、あまり賢そうには思えませんが……)
サムートは、心の中で呟きながら、戸惑っている様子のレックスを見る。
一方の背の高い黒髪の人物の方は、これと言った表情を浮かべず、ただ静かにレックスの事を見ていただけであった。
(何だよ。 愛想悪りぃな。 コイツ。)
背の高い黒髪の人物の方の態度を見て、レックスはムッとした表情を浮かべ、心の中で呟いた。
「レックス。 こちらは、クラレス公国のクレーエ伯爵の身内のロナード殿だよ。 こちらは従者のサムート」
エルトシャンは落ち着き払った口調で、二人の客人の事を紹介する。
(クレーエ伯爵……。 クレーエなんて聞いた事ねぇけど、まあ、お貴族様って事か)
レックスは、背の高い黒髪の人物を見ながら、心の中で呟く。
「伯父上の大事なお客様だから、くれぐれも失礼の無い様にね。 間違っても、喧嘩を売ったりしないでよ?」
エルトシャンは真剣な面持ちで、レックスに言うと、
「分かってますよ」
レックスは、ムッとした表情を浮かべ、エルトシャンに言い返す。
「伯父上はまだ、王宮から戻られていないらしい。 夕方には戻られる予定なだから、それまでの間、用意した部屋で寛いでて」
エルトシャンは、出迎えた執事に何やら耳打ちされた後、愛想良く笑みを浮かべながら、ロナードたちに向かって言った。
「ご案内します」
執事がロナードにそう言うと、二人は黙って彼に付いて行くので、エルトシャンから彼等の護衛を言い渡されたレックスは、慌てて彼等の後を付いて行く。
二階に上がり、突き当りの奥の部屋に彼等は通されると、
「何か御用が有りましたら、お呼び下さい」
執事はそう言うと、従者のサムートに呼鈴を手渡し、軽く会釈をして、部屋を後にした。
「随分と立派なお部屋を用意して下さいましたね。 若様」
サムートは、部屋の中を見回しながら、ロナードに声を掛ける。
「ああ」
ロナードは、素っ気ない口調で短くそう答えると、徐に、部屋の中央に置かれたテーブルの周囲に配置されていた、二人掛けのソファーに身を投げ出す様にして腰を下ろした。
(何だよコイツ。 野郎かよ!)
ロナードが発した声を聞いて、レックスは心の中で呟くと、思わず彼の方へと目を向けた。
レックスは内心、不思議な空気を纏った、異国人風の美人な彼に、ドキドキしていたのだ。
だが、相手が男だと分かった途端、レックスの胸の高鳴りは一瞬で止まった。
「若様。 お茶を淹れましょうか?」
サムートは、テーブルの隣にティセットを発見し、穏やかな口調で、ロナードに問い掛ける。
「頼む」
彼はそう言いながら、座ったままの格好で、上半身だけをソファーの上に横にした。
「疲れた……」
彼は、そう言いながら、ブーツを履いたままソファーの上に仰向けになる。
(行儀悪りぃな)
ロナードの行動を見たレックスは、心の中で呟いた。
「それはそうでしょう。 何日も列車に揺られていたのですから」
サムートは、紅茶を淹れる準備をしながら、苦笑混じりに言い返した。
「会食とか……あるよな?」
ロナードは、ボンヤリと天井を眺めつつ、サムートに問い掛ける。
「さあ。 どうでしょうか」
サムートは、紅茶の茶葉が入った白い陶磁器の蓋を開け、中身を確認しながら言った。
「面倒だ。 このまま眠りたい」
ロナードは、両手で自分の顔を覆いながら、疲れた様子で呟く。
「そう言う訳にはいかないですよ。 先方は若様と会える事を、心待ちになさっていたのですから」
サムートは、苦笑いを浮かべ、ティカップにお湯を注ぎながら、そう返した。
「爺さんと会って何を話せと言うんだ? 昔話をされても俺は何も覚えて無いぞ」
ロナードは、嫌そうな表情を浮かべながら言うと、はあと溜息を付いた。
レックスは、主君であるオルゲン将軍を『爺さん』と言われ、ムッとし、思わずロナードを睨む。
「本当にお疲れの様ですね。 このところ本ばかり読まれて、あまり体を動かさなかったからですよ。 明日からでも、ここの兵士たちと一緒に剣の稽古でもなされてはどうですか?」
サムートは、お湯が入ったティポットに紅茶の茶葉をスプーンで掬って入れながら、穏やかな口調でそう提案する。
「俺の相手が務まる奴が居るのならな」
ロナードは、あからさまに怠そうに言い返す。
(どんだけ自分の腕に自信があんだよ。 コイツ)
レックスは、ムッとした表情を浮かべ、心の中で呟いた。
「若様。 その様な態度を取られては、エルトシャン様やオルゲン将軍を困らせるだけですよ」
サムートは、困った様な表情を浮かべながら、彼に言い返した。
「分かっている」
ロナードは、溜め息混じりに言い返す。
そんな二人のやり取りをレックスは、入り口の扉近くの壁際に立ち、黙って聞いていると、不意にサムートが振り返って来て、
「レックス殿……でしたね?」
穏やかな口調でそう声を掛けて来た。
「えっ。 あ、お、はい……。」
レックスは急に声を掛けられ、慌(てて返事をすると、
「ふふふ。 面白い返事をなさいますね」
レックスの反応が面白かったのか、サムートはクスクスと笑いながら言った。
「ちがっ……。これは別に……。」
レックスはそう言われて、忽ち恥ずかしくなり、顔を赤らめ、口調を強めて否定する。
「そう畏まらなくても良いですよ。 貴方も適当に寛いで下さい。 そう畏まられては、こちらも寛げませんので」
サムートは、相変わらず可笑しそうにクスクスと笑いながら、レックスに言った。
「えっ。 あ、お、おう」
レックスは思いがけぬ言葉に戸惑いつつも、素直に揃えていた足を少し広げ、両腕を背後に回して組み、楽な姿勢を取った。
「ここの兵士は、そんな妙な返事をするのか?」
ロナードも可笑しそうに笑いながら、レックスにそう言って来たので、彼は思わずムッとして、
「んな訳ねぇだろ!。 オメェ馬鹿じゃねぇのか?」
思い切り強い口調で怒鳴り返した。
すると、背後で扉が開く音がして……。
「僕はさっき、『大事なお客様』と言った筈だよね? レックス」
エルシャンは部屋に入って来るなり、レックスにそう言うた。
笑みを浮かべいるが、その目は決して笑っておらず、額に青筋を浮かべ、表情筋を引き攣らせている。
「あばばっ……。 そ、それは……」
レックスはエルトシャンの表情を見て、顔を青くして思わずそう呟くと、二、三歩後退りをする。
確かにレックスは剣術に於いて、この屋敷の兵士の中では負け知らずだ。
ただし……主の甥で、治安部隊の副団長をしているエルトシャンには、勝った事は一度も無い。
「御免ね。 アホで。 嫌なら別の者に替えようか?」
エルトシャンは、苦笑いを浮かべながら、ロナード達に謝ってから、そう問い掛けた。
「構わない」
ロナードは、ゆっくりと身を起こしながら、エルトシャンに答えた。
「そう。 君が良いなら、良いんだけど」
エルトシャンは、苦笑いを浮かべながら言った。
「それで、何か御用ですか?」
サムートは静かにティカップに紅茶を注ぎながら、エルトシャンに問い掛けた。
「今から、例の組織へ書類を提出に行くんだけど、幾つか確認しておきたい事があって……」
エルトシャンは、手にしていた大きな封筒に入った用紙を取り出しながら言った。
「何か、不備でもあったのか?」
ロナードは、戸惑いの表情を浮かべつつ、エルトシャンに問い掛けつつ身を起こす。
「いや、そう言う訳では無くて、今後の生活場所や試験を受けるかなど、そう言った事だよ」
エルトシャンは落ち着き払った口調で客人の二人にそうげると、二人は戸惑いの表情を浮かべつつ、互いの顔を見合わせる。
「試験……ですか?」
サムートが戸惑いの表情を浮かべたまま言うと、
「うん。 一応、君は伯父上の推薦となるから、無理に受ける必要は無いんだけど……腕試しにどうかと、伯父上たちが……ね」
エルトシャンは、苦笑いを浮かべながらロナードに言う。
(それは、若様の力量を試そうとしている……と言う事だろうか)
サムートは、難しそうな表情を浮かべながら、心の中で呟くと徐にロナードの方へ目を向ける。
「要は、期待に沿えると言う事を試験に参加して、しっかりと示せと言う事だろう?」
ロナードは、面倒臭そうに溜息を付いてから、エルトシャンに言うと、
「そう……とも捉える事は出来るけど、多分、そこまで深い意味は無いと思うよ。 君が本調子では無い事は伯父上たちも知っているし。 勘を取り戻す為にどうかと言う意味じゃないかな」
エルトシャンは思いがけぬロナードの返答に、苦笑いを浮かべながら答えた。
(コイツ、随分と性格が捻くれてんな)
レックスは、捻くれた捉え方をしたロナードに対して、その様な事を思いながら、彼の方へと目を向ける。
「まあ、暇潰しにはなるか。 それで試験は何をしたら良いんだ?」
ロナードは、オルゲン将軍の真意など大して興味が無い様で、直ぐにエルトシャンに別の事を問い掛けた。
「ルオン高原で一週間の間に魔物を倒して、決められた数のタグを回収して、定められた場所に最終日に集合する……と言うモノだよ。 君なら簡単でしょ?」
エルトシャンは、用紙を見ながら、簡潔に問い掛けに答えると、
「ふぅん」
彼は、どうでも良さそうな様子で一言、そう言っただけだった。
(『ふぅん』ってコイツ、ルオン高原がどういう所か分かってんのか?)
ロナードの反応を見て、レックスは心の中で呟いた。
「ルオン高原で一週間ですか……。 魔物の巣窟の様な場所でとは、若様は兎も角、他の方たちには随分とハードルが高いと思われますが」
一方のサムートは、苦々しい表情を浮かべながら、あまり気乗りしない様子で言った。
「魔物退治は常に生命の危険が伴うリスクの高い職務だから、魔物退治が出来る実力の無い者を採用する訳にはいかないんだよ。 此方は即戦力になる人材が欲しいからね」
エルトシャンは真剣な面持ちで、ロナードたちにそう説明すると、
「成程」
ロナードは、その説明で納得出来た様で呟いた。
「しかしこれでは、余程、腕に自信がある者か、高い給料に目が眩んだ愚か者しか、試験には来ないと思うのですが」
サムートは、戸惑いの表情を浮かべながら、そう指摘した。
「それで良いんだよ。 中途半端な気持ちの人が参加しても、此方も迷惑だから」
エルトシャンはその指摘に、落ち着き払った口調で説明を付け加えた。
「確かに貴族に召し抱えられ、お屋敷勤めをしたり、国軍の兵士をしているよりは、好待遇かも知れないが、だからと言って、仕事内容と報酬がマッチしているとは言い難いな」
ロナードは、淡々(たんたん)とした口調で言うと、
「そうですね。 一概に魔物退治と言っても、その内容はピンキリですから。 難易度に応じた報酬を与える必要があるのではないでしょうか」
サムートも、複雑な面持ちで言った。
「特に傭兵上がりは、報酬=自分への評価と見做す節がある。 此方が良いと思った相手でも、当人が思う様な評価が得られていないと感じた場合、遠慮なく組織から出て行ってしまうぞ」
ロナードは、真剣な面持ちでエルトシャンに言うと、
「その点については、今、提示している金額が月々の基本給だと思って。 仕事の内容次第で、若干|は増える事があると思うよ」
エルトシャンは落ち着き払った口調で、すぐさまそう答えた。
「それは言われないと、用紙を見ただけでは分からないと思うぞ」
エルトシャンの話を聞いたロナードは、思い切り眉を顰め、彼に言い返した。
「そうだよね。 追記しておくよ」
ロナードの指摘を受けて、エルトシャンは落ち着き払った口調で返した。
「如何にも王宮勤めの、お堅い連中が考えたと言った内容だな。 愛国心や忠誠心と言った精神論だけで、人が集まる訳が無いだろ」
ロナードは、王宮勤めの人間が好かないのか、嫌味混じりに言うと、
「だよねぇ……だから、宮廷勤めの連中は、こんなのしか作れないんだよ」
エルトシャンは肩を竦めながら、他人事の様にそう言った。。
「あなた方が集めようとしている人たちの多くは、生きる為に主を替え、諸国を渡り歩き、力とお金が全てと言う考えだと思います。 其方が求める様な愛国心や忠誠心など持ち合わせていない可能性が高いのではないでしょうか。 皆が皆、貴方の様な高い理想や義理を持っている訳では無いと言うのを、お忘れ無きよう」
サムートは、真剣な面持ちと重々しい口調でエルトシャンにそう説くと、
「僕は分かっているよ。 『僕は』ね。 けど、運営側もそうかと問われると、『それは分からない』としか言い様が無いよ」
エルトシャンは、苦笑いを浮かべたまま答える。
「アンタもなかなか難儀だな」
ロナードは軽く溜息を付き、エルトシャンに言うと、彼は苦笑いを浮かべる。
「そう言う所は、若様がフォローなさるべきですね」
サムートは穏やかな口調でそう言いながら、徐に紅茶が入ったティカップを、ロナードが座っている前のテーブルの上に置く。
「エルトシャンが体良くあしらわられているのに、宮廷なんたらとか言う肩書きばかりの、無駄にプライドの高い奴等が、俺の様な奴の話をまともに取り合うと思うか?」
彼の言葉に、ロナードは軽く溜息を付いてから、ゲンナリした表情を浮かべながら言った。
「それは、若様次第ではないでしょうか」
サムートは苦笑いを浮かべながら答えた。
「僕は君にそんな雑務をさせる気は無いけど……」
エルトシャンは、苦笑いを浮かべながらロナードに言うと、
「当然だ。 俺は、自分に与えられた仕事以上の事をする気はないぞ」
彼は何処か突き放す様な、淡々とした口調で、エルトシャンに言い返した。
(ケチ臭せぇ事言うなよ)
彼の言動に、レックスは呆れた表情を浮かべ、心の中でそう呟くと、サムートが、まるでレックスの心中を見透かしたかの様に、
「エルトシャン様。 真に取らないで下さい。 今はこの様な事を仰っていますが、いざ、目の前で本当に困っている人を見て、放って置く様な方ではありません」
エルトシャンにそう言ったのを聞いて、彼は一瞬、自分に言われている様な気がして、ドキッとした。
「そう言う余計な事は、言わなくて良い!」
ロナードは、五月蠅そうな表情を浮かべ、サムートに言った。
「そうですか?。 私は若様が『ケチ臭い、度量の小さい奴だ』と、エルトシャン様に思われては困ると思って、申し上げたのですが。」
だが彼は、悪かったとは思っていない様で、平然とロナードに言い返した。
「そういう所が余計だと言っている。 そう思いたければ思えば良い。 上辺だけで人を判断する奴は所詮、その程度の人間と言うだけの事だ」
彼の発言を聞いて、ロナードは何処かイラッとした様子で、強い口調で言った。
(つーか、こんな軟弱そうな奴が試験に参加するなら、やっぱメイが言う通り、そんなに厳しくねぇんじゃねぇのか?)
レックスは、自分よりも遥かに細身で、頼り無さそうな体付きのロナードを見て、心の中で呟いた。