小薔薇が咲いた
約三時間に及ぶ残業を終えた坂下は、工場の制服から私服に着替え、唯一の荷物であるボディバッグを肩にかけて、ロッカールームのある建屋を出た。それから、敷地の出入り口を目指して歩く道すがら、何の気なしにスマホを取り出してみると、一件のメッセージを受信していることに、気がつく。
送り主は、同居人の和久田だ。
どうせ大した用ではないのだろう。そう思いながら、メッセージを開いてみると、そこには次のような一文が、認められていた。
『小薔薇が咲いた』
意味不明だった。
坂下は、思わず歩速を緩める。
薔薇なんて、和久田も坂下も育ててなどいないし、そもそも「小薔薇」などと言う品種が存在するとは思えない。加えて、和久田のような粗暴な男が薔薇に興味があるはずがなく、むしろ花より団子──あるいは、腹の足しになるのであれば花さえ食うような輩だ。いったいどこから薔薇が出て来たのか、坂下には見当もつかなかった。
しかし、とうとう歩行帯の内側で立ち止まりかけたところで、ようやくメッセージの意味を理解した。要するに、これは誤字なのだろう。
つまり、和久田の本当のメッセージは──
『小腹が空いた』
こうに違いない。
粗暴で、ガサツな彼らしい誤字だ。なんとなく可笑しくなった坂下は、思わず笑みを浮かべつつ──大の大人が、スマートフォンの画面を見下ろしながらニヤけているのだから、側からすればかなり奇妙な絵面だろう──、返事を送った。
『コンビニ寄ってくけど、何か買って来ようか?』
送信したあと、坂下は再び歩き出し、敷地の出入り口付近に設置された機械の前で立ち止まる。ボディバッグの外ポケットから取り出した社員証を機械にかざし、退勤の処理をしたところで、スマートフォンが震える。
社員証をしまい、守衛所で手持ち無沙汰そうにしていた五十柄みの警備員に挨拶をした坂下は、再びスマートフォンを取り出した。
社員用の通用口から外へ出、すぐ左に折れて駐輪場を目指しつつ、メッセージを確認する。
彼の予想は的中していた。同居人からの返事は、こうだ。
『ケーキ』
和久田は男のクセに甘党だった。いや、それは坂下にしてみても同じことだし、むしろ男の方が、甘い物好きが多いようにさえ思っていた。
とにかく、坂下はこの要望に応じることにする。元々、コンビニで買い食いをしていくつもりだった。
了解の旨を送信したところで、ちょうど駐輪場の片隅に駐めてあった原付きの元に辿り着いた。
坂下と和久田は、大学時代からの付き合いだった。学科は違ったのだが、同じ文芸サークルに入ったことで面識を得、以来、何故か妙にウマが合った。
そして、二人がルームシェアを始めたキッカケは、和久田の留年である。
無難に学科の講義をこなし、順当に単位を取得していた坂下と違い、和久田は授業をサボタージュすることが多々あったらしい。ストレートで卒業することの叶わなかった和久田は、親からの授業料の援助が受けられなくなったことを理由に、アッサリと大学を辞めてしまった。
のみならず、それまでの下宿先を引き払い、少しでも家賃を浮かすべく、坂下にルームシェアを持ちかけたのである。
坂下としては、正直なところ、他人と暮らすことには少なからず抵抗があったのだが……しかし、親友とも言うべき友人の頼みを無碍にするわけにもいかず、新しい住処が見つかるまでは、と言う約束で、この提案を許諾してしまった。
その結果、大学を出てから二年ばかり経過した今も、男二人での同居生活を続けているのである。
和久田には、多分にいいかげんなところがあったが、しかし同時に妙な魅力を有していることもまた、事実だった。どうしても、憎みきれない奴なのだ。
また、意外にも家事ができた──料理の腕前に関して言えば、坂下よりも上だろう──ので、思いの外共同生活の苦労は少なかった。
未だに定職に就かず、アルバイトを始めたり辞めたりを繰り返し、自堕落に過ごしていることに目を瞑れば、そこまで悪い同居人でもないだろう。家賃の支払いも──相当金回りの悪い時以外は──ちゃんと半額を、支払ってくれているし。
そんな学生気分の抜けきれていない友人の待つ家に、坂下が帰り着いたのは、まもなく午前零時になろうかと言う頃だった。この日の仕事は午後から夜にかけての勤務であり、そこに残業も加わった為、ここまで遅くなってしまったのだ。
「ただいま」
と、一応声をかけつつ、彼はコンビニのレジ袋を手に下げて、アパートの自室へと入った。
直後。
坂下が靴を脱ぐよりも先に、複数の破裂音が同時に鳴り響くと共に、視界の中で色とりどりのテープが舞い上がった。
「ワッ」と、思わず坂下は声を上げて後退る。ドアに後ろ手をついた──そして、顔を上げた先には、和久田の他、二人の友人の姿があった。
いずれも、手に何かを構えたまま、ニヤニヤと笑っている。
「な、なんだよ。──てか、お前らなんでいるんだよ!」
ドキドキと心臓が強く脈打つのを感じながら、坂下は問いかける。
すると、未だに可笑しそうに笑みを浮かべた和久田が、手にしていた物──クラッカーを掲げながら、意外な言葉を口にした。
「おい、ちゃんとケーキ買って来たか?」
「え? いや、まあ、買って来たけど……」
「そうか。ならよかった。──けど、俺は別にいらねえや。それ、お前が食えよな」
「は、はぁ?」
せっかく買って来てやったのに、何を言い出すのか──そもそも、「小腹が空いた」とわざわざメッセージを送って来たのは、そちらではないか。坂下は、そう言い返そうと思った。
しかし、言いかけた彼を遮るように、友人たちは声を揃え、
「誕生日、おめでとう」
坂下は、再び呆気に取られた。
そこへ追い討ちをかけるように、玄関のすぐ傍にあるトイレから現れた別の友人が、もう一発クラッカーを鳴らした為、坂下はまたしても飛び上がりそうになる。
ついでに、何故か和久田も声を上げて驚いていた。
「……も、もしかして」ようやく動悸が治って来たところで、坂下は尋ねる。「俺の誕生日、覚えていてくれたのか?」
「まあな。てか、当然だろ? 一緒に暮らしてんだから」
「……去年は何もなかったよな?」
「まあ、細けえこと気にすんなって。それより、早く飲み会始めようぜ」
それが一番の目的だったに違いない。和久田は酒好きであり、平時から何かにつけて、飲み会を開きたがった。
そもそも、誕生日を迎えた本人に、ケーキを買って来させている時点で、無茶苦茶な気もするが……。
言いたいことは多々あったものの、結局坂下はそれらを呑み込み、「羽目外しすぎんなよ」と嗜めながら、靴を脱いだ。
「いやぁ、しかし間に合ってよかったよなー」
乾杯の音頭などは省略し、勝手に缶ビールを呑み始めた和久田が、シミジミと言う。他の二人も、同意を示すように頷き──そして、彼らもまた、すでに呑み始めていた。
自分もテーブルに置いてあった缶ビールに手を伸ばしつつ、坂下は思わず呆れ笑いを零す。
「何言ってんだよ。まだ日付変わってないだろ? 俺の誕生日はまだこれからじゃねえか」
すると、友人たちは一斉に酒から口を話し、キョトンとした表情で彼を見返した。
「は? お前こそ何言ってんだ?」
和久田が言う。
「『誤字から始まるストーリー企画』の締め切りは、今日(二〇二一年五月二日)までじゃねえか。日付変わる前に書けてよかったよな、マジで」
「…………」
そのセリフを聞いた坂下は、様々な事情を察し、プルタブを開けた缶ビールを、いったんテーブルに置いた。
そして。
「……もしかして、間に合わせる為に、わざとあんな誤字を送って来たのか?」
「まあな。どうだ? 企画に参加するついでに、友達の誕生日も祝えるだなんて、一石二鳥だろ? 俺、マジで天才じゃね?」
そう言って、ヘラヘラと笑う同居人に対し、坂下は、
「お前もう出てけよ」
言い返したところで、日付が変わったのだった。
瑞月風花様、五周年おめでとうございます!
これさえ言えれば僕はもう満足です。