3-11/報酬
なんてことはない、ときどき交錯する夏休みのお話。その最終話です。
「……あっつ……」
突き刺さる日差し。いっそ痛みすら感じる暑さに、たまらず目を細めて息を吐き出す。
外を歩く以上、不意に誰かと顔を合わせる可能性がないとは言い切れない。そういうこともあって、なるべくきちんとした「魚見恭平」でいようとは思っているんだけど……こうも暑いと、それもボロが出てしまいそうで心配になる。
ちょうど一時を過ぎて、今が盛りと言わんばかりに照り映える太陽。片手で庇を作っても、疲労が蓄積した身体には文字通り焼け石に水だ。
「はぁ……」
鬼島さんに付き添ってもらった訓練が終わったのは、かれこれ一時間ほど前のことか。結局あの後ノンストップで戦い続けるハメになったのだから、坂本さんのことを言えないくらいにはあの人もスパルタだ。
なるべく死なないようにしつつ、一撃で漁夫の利をかっさらう戦法に間違いはない。それをより実戦に近いやり方で確認できたのは、間違いのない収穫ではあるんだけど……。
「……痛っ」
まぁ、言うまでもなく。最終的に鬼島さんカスタムのNPC×3を相手にするとか、体力も精神もごっそり持ってかれるのは言うまでもないわけで。
元々のコンディションからして最低値に近いのに、そんな無法がまかり通るわけもない。軍部棟を後にし、のろのろと地下街に立ち入る僕の姿は、端から見れば重病患者のように見えたことだろう。
本来なら即座にベッドにダイブするべき身体に鞭打っても、それで不調が回復するわけもない。真夏の炎天はこれ幸いとばかりに、不用意に踏み込んだ僕の体力を削り取っていく。
——分かってる。この上なく無意味で、無価値な行動だってことくらい、百どころか千も承知の上だ。
貴重な休日の残り半日を、むざむざと目的もない徘徊で潰す。それはひとえに、じっとしていられない衝動に駆り立てられたからに他ならない。
誰かに会って本格的に情報を引き出すのなら、事前に適当な約束でも取り付けている。井戸端会議からこぼれ話を拾い集めるにしても、それに適した場所くらい知っているつもりだ。
……そう。言ってしまえば、これは自分への八つ当たりに過ぎない。
己の無力感を、力の及ばなさを、大宮亜里亜の一件でまた思い知った。誰に会うこともないと知っていながら、それでも誰かとすれ違うことを期待している、そんな矛盾した感情に流されているからこそ地下街にいる。
結局、僕は誰も救えない。第二本部そのものを巻き込んだ、くだらない独り善がりに過ぎないのだと——
足を止めれば、その事実に追いつかれるような気がして。
否定することもできず、ただ日差しに焼かれるだけ。何度一時凌ぎを繰り返したところで、その感情は必ず意識の深層に絡み付いてくる。
「——っ」
はぁ、と。道の真ん中だと言うのに、気付けば特大のため息を吐き出していた。
ここ数日、独りになるとこんなことばかり考えている。この堂々巡りの思考だって、何回繰り返しているか分かったものじゃない。
このままではこれからの仕事どころか、日常生活にまで影響が出かねない。ただでさえ半人前の人間だというのに、こんなことをやっていたら己の身まで滅ぼすことになる。
どうにかしたいと考えても、さりとてどうすることもできず。
ただ逡巡する思考だけが、風車のごとくからからと空回りし続けて——
「………………ぁ」
そして、その時。
誰に誘われたわけでも、何かに導かれるわけでもなく。
気付けば、そこにたどり着いていた。
「——クラニア」
街角に位置する小さな喫茶店は、しかしその規模に反するような盛況ぶりを見せている。にも関わらず隠れ家的な雰囲気があるのは、落ち着いた佇まいを店構えの中に宿しているがゆえのことか。
日曜の昼間となれば、ひょっとしなくても何かの情報は拾えるかもしれない。そうでなくとも、優先度の高い知り合いが二人も働いているのだから、様子見をしておくのは間違ってはいないはずだ。
己の行動が適切か。より効率のいい、失敗しないやり方を選択できているか。頭の中で半ば無意識に算盤を弾き、行動を起こす前に損得勘定をする。
完璧な成功を収めることができずとも、失敗しなければそれで良い。どこまでも後ろ向きな己の性質は、一朝一夕で治るようなものでもない。
これまでも、これからも。魚見恭平という人間の本質が、そう簡単に変わることなどない。そう断言してしまえるほどに、この思考は僕の根幹に染み付いている。
「いらっしゃいま——あれ、恭平? 来るなんて珍しいね」
……だから。
考える前に踏み出していた、なんて行動は、僕からすれば気まぐれどころの話じゃない。
「……近くまで来たから、ちょっと気が向いて。サンドイッチ、そろそろ出来立てが食べたくなったからさ」
「ああ、そういえば言ってたもんね。ちょっと待ってて、これだけ終わったら案内するから」
「や、そこまで急いでもらわなくても大丈夫なんだけど——」
ふんふんと目の前で頷く香純は、丁度席のひとつを片付けていたところだったらしい。席はあるかと視線で問えば、軽い頷きが返ってくる。
「大丈夫、私もこれ終わったら休憩だから。休憩前の仕事くらい、気合い入れて頑張らなくちゃ、ってこと」
手際よく後始末をする彼女に、それらしく見えるような苦笑を返す。
三人座っていたと思しきその席は、しかし揃いも揃って飲み物しか頼んでいないらしい。よっぽどの倹約家か、それとも密談の類でもあったのか——まあ、座っていたのが仮に学生ばかりだとするのなら、それもなんとなくは納得できる。
「よし、と……じゃ、こっちへ。奥の方になるけど、いい?」
「もちろん」
小さな店にしてはやたら奥まった位置にある、二人掛け用の小さな席。香純に案内されたその席は、以前俊が零していた「密談スペース」とでも言うべき場所だった。
「はい、それじゃご注文をどうぞ」
「コーヒー……と、タマゴサンドひとつ。あ、ガムシロも」
「おっけー。じゃ、ちょっと待っててね」
店員と客として、あるいは「友人」として。どちらにも偏らない中途半端な対応を経て、彼女が店の奥へと消えていく。
「…………はぁ……」
息を吐き、ぐるりと周囲を見回す。今更のように冷房の存在を認識すれば、ようやく不自然な緊張が少しほぐれた気がした。
密談スペースなどと言うだけあって、環境の良さはなかなか捨てたものでもない。店内のちょうど良い騒がしさも相まって、声を抑えずとも込み入った話ができる作りになっている。ここにお世話になっている人間は、きっと片手の数では効かないはずだ。
「————」
らしくもない気紛れを起こして、ここに足を運んだ理由。そのうちの何割かは、彼女の存在が脳裏にチラついたからだと——そう誰かに指摘されてとしても、否定することはできないだろう。
降谷香純。彼女が現在の彼女たり得ているのは、言ってしまえば奇跡のようなものなのだから。
一年ほど前、中学3年の夏にこちらへと足を踏み入れた彼女。その時の状態と今の彼女とを同一視できる人間なんて、片手の数ほどもいないに違いない。
大規模な自動車事故に巻き込まれ、家族の中で生き残ったのは彼女ひとり。より正しくは、宿主を殺させまいとする『星の力』の発露——能力の強制的な覚醒が、彼女が死ぬことを許さなかったのだ。
偶然ではなく、必然の結果として生き残ってしまった。程度の差異はあれど、皆一様に死線をさまよった経験のある中等部の人間たちからすれば、そんなことはありふれた体験に過ぎないのかもしれない。
けれど。女子中学生ひとりが背負いこむには、その事実はあまりにも重すぎた。
環境に適合できず、心をゆっくりと壊していく人間を幾人か見てきた。失敗するたびに己の無力さを呪うからこそ、次は必ず救ってみせると、無力な誓いを繰り返し立ててきた。
転入してくる彼女の情報を見て、漠然と抱いた嫌な予感。実際に顔を合わせたとき、その予感は一瞬で確信に変わった。
力ないその瞳に宿っていた、深い絶望の色——それは、いつか見たそれと寸分も違わない。
土田佳蘭を彷彿とさせるその目は、当時の僕に危機感を抱かせるには十二分だった。
崩れゆく心を繋ぎ止めるため、幾度も挑戦を繰り返した。対話を繰り返し、情報を他部署と共有し、彼女を彼女のまま留めておくために全力を尽くした。
そうして、今年の3月。何の進展も得られないまま、僕は雨宮俊の監視任務という特命を受け、星皇学院を離れることになった。
いくら崩落を押し留めようとしたところで、支柱が折れていたら意味がない。彼女に必要だったのは現状維持ではなく、代わりになる支柱を探し出すことだったのだと——そんなことにすら、当時の僕は気がつかなかったのだ。
数ヶ月という猶予を与えられてなお、僕は彼女を救えなかった。およそふた月の任務を経て戻ってきた僕は、そこでようやく己の過ちと、彼女に訪れた救いを知ることになる。
5月15日。星屑との戦いを経て、雨宮俊がこちらで目を覚ましたあの日——気紛れに用意した、地下街での自由行動時間。
他でもないこの場所で、僕は彼女と顔を合わせていたのだから。
そこに居たのは、目を離した瞬間に消えてしまいそうな少女ではなく。
文字通り生きる意味を見つけた、「今の」降谷香純だった。
最初に抱いた驚きは、すぐさま喜びへと変わった。見違えるほど溌剌とし、瞳に色を取り戻した彼女を見て、喜ぶなと言う方が無理な話だろう。
誰かが。彼女にとっての英雄が、僕が知らなかった樋笠拓海が、僕の知らぬ間に彼女を救い上げていた。
僕が数ヶ月かけてもできなかったことを、先輩はほんの一月にも満たないうちに、いとも簡単にやってのけていた。
仮に先輩がいなかったら、彼女はどうなっていたのか。他の誰かに救い上げられたのかもしれないし、あるいは独りでに助かっていたのかもしれない。でも、そんな奇跡が起こる確率は、そうそう高いものではないはずだ。
いずれにせよ、確かなことがひとつ。
どのような結末であれ、魚見恭平がそこに介在する余地はない。
無意味な行為を繰り返し、ただ機会を浪費するだけの凡人。そんな人間に、誰かの救済を成すことなどできやしない。
分かりきっていた事実を、改めて突きつけられた——たったそれだけの、呆れ返るほどに単純な話だったのだ。
「…………」
行き場のない感情が、胸のうちでぐるぐると渦巻く。ため息に乗せて吐き出すには、煮詰まったそれはあまりにも重い。
誰かを恨むつもりなど、もとより更々ない。あるのはただ、どこまでも中途半端な悔恨だけ。
何もかもが中途半端で、だからこそ無くしたくないものを取り零す。決断はできないのに後悔だけは一丁前なんて、「軍人」の風上にも置けやしない。
そう。手を伸ばせなかったあの時と、結局は何ひとつとして変わっていない。
古傷を抉るように、無力感だけが己の内側を苛んでいく。
思考の中に生じたシミは、容易には拭い去れそうにないほどに薄汚れたものだ。カビのように根を張るそれを、今更になって除去することなどできるはずもない。
「——こんにちわ。ご一緒していい?」
……だから。
際限のないその思考を断ち切るには、外部からの衝撃が不可欠だった。
「……休憩じゃないの?」
「休憩だよ? 友達と一緒にお茶していいよ、って店長が。やー、太っ腹だよ本当に」
お待たせしましたー、という気の抜けた声とともに、コーヒーとタマゴサンドが目の前に並べられる。唐突な事態に戸惑う間も無く、香純はそのまま僕の対面に腰を下ろしていた。
その手に持ったカップは、店からのまかないということか。商品を運んできて、もののついでに客の前に腰を下ろす店員が許されるあたり、どこまでが仕事のラインなのかも疑わしくなってくる。
「食べていいよ? お客さんなんだから」
「……じゃあ。いただきます」
どうすべきか悩んだ末、促されるままにタマゴサンドに手を付ける。
訓練で疲れ果てていた身体は、どうやら想像以上に栄養を欲していたらしい。瞬く間に二口、三口と食べ進んでしまうあたり、腹の虫は正直ということなのか。
……でも。さすがにここで節操なくつまむほど、僕も常識知らずじゃない。
「……込み入った話とか、ある?」
「うーん、そこまで重いものでもないんだけど。……そういえばさ、お礼言ってなかったな、って思って」
こんな場所に案内したからには、それなりの話があるのではないか——と。言外にそう問いかければ、彼女は僅かな逡巡の末に口火を切った。
「……お礼?」
「そ。恭平に色々してもらったのに、結局感謝もしてなかったなって。ほら、こういうのってさ、一回気付くと気になって仕方なくなるでしょ? 今まで何で平気な顔していられたんだろう、って——だから、その日のうちに恭平が来てくれてよかった」
カップに視線を落とす彼女を見れば、その言葉が冗談の類でないことくらいは容易に分かる。少なくとも、こうしてきちんとした席を持とうとするくらいには、考えがあっての行動だということだ。
「それは——」
彼女の言葉から察するに、今日のうちにちょっとした心境の変化があったのか。それがプラスなのか、それともマイナスの側面をはらんだものかはわからないけど、それなり以上に彼女に影響を与えていることくらいは理解できる。
「……いや。感謝なんて、僕には荷が重いよ」
そして、だからこそ。自分はそんなものに値する人間ではないと、なおのことそんな風に思えてしまう。
「お礼」——十中八九、僕がたった今まで考えていた話のことだろう。タイミングが良いのやら悪いのやら、あまりにドンピシャすぎて気の利いたコメントもできなくなる。
「僕は結局、大したことはできてないから。力不足というか、分不相応というか——ほんと、先輩が先輩でよかった」
何もなし得なかった。救いの一端すら見出せずに、ただ時間を浪費するだけ。そんな人間に罵倒こそあれ、感謝なんてふさわしいわけがない。
「違うよ、それ」
しかし。
堂々巡りのそんな思考は、他ならぬ彼女の言葉によって遮られる。
「確かに、先輩には本当にお世話になったけど……でも、それで他の全部が消えちゃうわけじゃないでしょ? 先輩だったらきっとそう言うし、わたしもそう思ってる」
心なしか震える声。しかしそれでも、そこには一本の芯が通っている。
「去年の夏から今まで、私が潰れなかったのは恭平のおかげ。話し相手になってくれたり、いろんなものを見せてくれたり……恭平は大したことじゃないって言うけど、もし一人だったら、先輩に会う前にわたしはわたしでいられなくなってた。だから、感謝させてほしい」
それは嘘偽りなく、彼女の本心から出た言葉で。
そしてそれだけに、僕に言い返すことなどできるはずもない。
「恭平はさ、たぶんいろんな人を助けてるんでしょ? わたしだけが特別ってわけじゃなくて、それこそ学院全体とか、もっとたくさんの人を」
「……どうして、そう思う?」
「んー、助けられた人間の勘かな? で、そんな助けられた人間から、ひとつ言いたいことがあります」
考え込むそぶりを見せたかと思えば、次の瞬間には頬を緩めてふっと微笑む。
何の根拠もない、完全なる当てずっぽう。それでも間違いはないと言わんばかりに、降谷香純は胸を張る。
「ありがとう。……きちんと届いてるから。うまく言えないけど、でも、もう大丈夫——だから、安心して」
真正面からぶつかるその声は、彼女が持つ紛れもない「強さ」そのものだ。
上手く言葉に出来ずとも、そこにあるものは嘘偽りのない真実だと。
そう信じられるだけの熱量が、その言葉に篭っていたから——
「……っ、はは」
「ちょっと、笑うことなくない? これでもわたしなりに頑張ったんだよ?」
「あぁ、ごめん——そういうわけじゃなくて、いや、そういうわけでもあるんだけど」
「じゃあダメじゃん……」
呆れたような顔で、それでもどこか嬉しそうに。はにかむ香純の表情を、記憶の根底に焼き付ける。
あぁ、そうだ。それでいい。
目に見える結果だけがすべてではない。なんて陳腐で、単純で、使い古された言葉だろう。
でも。たとえ気休めにしかならなくても、それは間違いなく今ここにあるものだ。
だったら、それも——案外悪いものではないのかもしれない、なんて。
そんなふうに、思うことができたのだから。
「ちょっとした気休め」でしかない。それでも、この時くらいは。
諸事情により、昨日投稿できませんでした。大変申し訳ありません。
次回は定刻通り、来週日曜夜に投稿いたします。第三部もあと一話、最後までお付き合いいただければ幸いです。
今回と次回、二話セットで読んでいただくと面白い……かも、しれません。
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