1−8/その裏側、その内側
少し視点を変えて。
「寒っ」
予想外に冷え込む空気を紛らわせるため、あえて大きめの声でひとりごちる。
上着の襟首を引き寄せながら、ひとり夜の道を歩く。ふと顔を上げれば、雲ひとつない星空がそこにあった。そのまま視線を移動させ、居並ぶ寮のうち一室で目を止める。
先程まで自分がいたその部屋の住人は、未だにせこせこと動いているようだった。その様子を遠目に見ながら、ポケットをまさぐって携帯を探し出す。
機種はアルカディア社製、当然最新式のスマートフォンだ。電話帳にズラリと並ぶ宛先から、目的の番号を探し出す。
途切れない発信音を待つこと数十秒、件の相手はようやく電話口に立ったらしい。どうにも覇気のない声に苦笑しながら言葉を紡ぐ。
「それで? 今日はどれだけ絞られたのよ」
『一時間。その後つきっきりで執務室にカンヅメだ。今になってようやく開放された』
「いいじゃん、響さんみたいな美人と二人きりだなんて。男冥利に尽きるってもんだよ」
『冗談でもよしてくれ……冥利より先に精魂が尽きそうだ。それで、用件は』
軽い冗談も返ってこないところを見るに、どうやら今日は本気で絞られたらしい。もちろん、それはそれとしてサボってたのは事実だし、僕が擁護することでもないんだけど。
「言われた通り、俊にアレを届けてきたよ。ついでに夕飯も食べてきた」
『おー、ご苦労ご苦労。わざわざ手間かけさせて悪いな。お前も明日から学校だろ?』
「別にいいよ、坂本さんの人使いが荒いのは今に始まったわけじゃないし。学校だって今までの知り合いもいることだし、たいして変わらないでしょ」
あくまで知り合いだけどね。口に出そうとした言葉が、夜の闇に溶けて消えていく。
『そう言うなよ。こっちじゃ明日がお前にとって初めての高校生活だろ? もっとこう、心がぴょんぴょんしたりポイポイしたりするもんじゃないのか』
「しないね、全く」
『なんだつまらん。もっと夢を持て夢を』
電話口に向けて即答すれば、いまいち的外れなボヤきが返ってくる。たっぷり絞られたはずなのに、そのあたりの気力はまだ残っているらしい。
そもそも、この流れで僕の方が悪者扱いされるのも微妙に納得がいかない。いい歳こいてその方面に夢中な坂本さんがおかしいだけだ。外の世界に出るたびにグッズ買い込んでくるの、そろそろ軍の威信に関わるからやめて欲しい。
『——恭平』
「別に謝ることじゃないよ。結果的に一ヶ月で戻ってこれたんだから、なにも問題なし。でしょ?」
電話越しでも伝わってくる、僅かな逡巡の気配。変わりかけた空気を抑え込み、機先を制するようにして言葉を打ち返す。
何を言いかけたのか、それくらいは手に取るようにわかる。いかな僕といえど、伊達に坂本さんと年単位で関わりを持ち続けているわけじゃない。
その上で。その上で、だ。
「命令したのは坂本さんでも、最終的な決定権は僕にあったんだし。首尾はなんやかんやで上手く収まった、って言っていいんじゃない?……葵さんには、また改めて頭を下げなきゃならないけど」
『……ああ。葵には、俺からまた色々と話しておく。これから先、あの子も身の振り方を考えるだろうからな』
僕の言葉を引き継ぐようにして、坂本さんが口を開く。
今しがたの揺れなど、錯覚ではないかとすら思わせるように。打ち消すかのごとく一呼吸置いて放たれたその言葉は、いつも通りの強さを内包したものに戻っていた。
『ま、何でもいいが、遅刻はしないようにしろよ。せっかく通えるようになったのに、初日から悪目立ちとか話にもならんぞ』
「わかってるよ。あ、それと夕飯代は坂本さんにツケてあるから。じゃ、おやすみー」
「——は? おい、待」
うん。何が言いたいかはだいたいわかるしいいや。
平常運転に戻ったタイミングを見計らい、メインディッシュの爆弾を投げつける。坂本さんの反応を最後まで聞くことなく、先手を打って電話を切った。
これが知れたら、坂本さんはまず間違いなく響さんに問い詰められるだろう。大変なことになるのは確定だけど、まあそこはそれ、今まで雑に扱われたことへのちょっとした意趣返しだ。
「……よし」
心なしか冷たい息、それをひとつ吐いて思考を切り替える。
坂本さんにはああ言ったものの、新しい高校生活に全く期待していないといえば嘘になる。本来なら向こうで3年間を過ごすつもりだったし、それに不平を言おうとも思わなかった。
最後にもう一度、電気の消えた部屋を振り返る。部屋の主は既に眠りに落ちたのか、気配が動くようなこともない。
彼が抱え込んでいるものが何なのか、僕は断片すら正確に把握していない。だからこそ、これほど早くなるとは想像だにしていなかった。
「——あれ?」
そういえば、と。
シリアスな思考のど真ん中に迷い出るのは、至極どうでもいいひとつの事実。
歓迎会と銘打っておきながら、肝心な一言を言っていなかった気がする。わざわざご馳走まで用意しておいてこれとは、僕も坂本さんのことは言えない杜撰さだ。
……ええい、もう仕方がない。重要なのは気持ちだと言うし、元より僕の気が済むかどうかの問題だ。
色々と間違っている気はしないでもないけど、多少は大目に見てもらいたい。どうせこれからも関わりはあるんだし、今回ばかりは仕方なしだ。
と、いうわけで。気を取り直して。
——ここはひとつ。先達として、それっぽいことを言ってみることにしよう。
「——歓迎するよ、俊。ようこそ、僕らの世界へ」
# # #
『よお』
声が聞こえる。神経を的確に逆撫でするそれは、酷く不快な覚えがあるものだ。
『言っただろ? 逃げられやしないってな』
目の前に広がる世界は、しかし墨汁でも滲んだかのように不鮮明なまま出力される。
輪郭がぼやけ、境界線が溶け出していく。その中で唯一分かるのは、其処が建物内部の廊下であるということだけ。
病院か、はたまた何らかの研究機関か。だが、その施設がどんなものであったにせよ、その役目を果たすことは既にできなくなっていると考えて良い。
理由は簡単だ。其処に居たはずの人々は全員、俺の足元に転がっているのだから。
——より正確には、人々であったモノが。
見渡す限り一面に広がる血溜まりと、部位ごとに解体されて散乱する人体。辛うじて残っている顔のパーツには、一様に恐怖が刻み込まれている。
足元の真っ赤な水溜りに映り込むのは、その中心で立ち尽くす男の顔。鏡越しに飽きるほど見たはずのその顔は、何故かどうしようもないほどに歪んでいた。
「お前は、誰だ」
『見ればわかるだろ?お前と同じ視点で、同じものを見ることができる存在なんざひとつだけだ』
笑う。
嗤う。
壊れた機械のように、悪趣味な笑い袋のように。神経を掻き乱す声を上げて、鏡写しの『俺』は笑い続ける。
「ふざけるな。何が目的だ?」
『はあ? それは無いだろ。俺がお前である以上、隠し事なんて無意味にも程がある。お前は最初から、全部知ってる——知ってる上で、それを都合よく忘れてるだけだ』
沸騰するように血溜まりが爆ぜ、その中から現れた真っ赤な腕が俺の足を掴む。反応する暇すら与えられず、全身が深紅の沼へと引きずり込まれていく。
上下も左右も、眼に映るもの全てが混ざり合って融けきったマーブル色の空間。その中で、言い聞かせるように『俺』は囁く。
『お前がそう望んだから、お前はここに戻ってきた。ここでなら、お前の渇望を叶えることができる。お前の欲求を、飢餓を満たすことができる。全ては、お前が望んだことだ』
「……何を、言ってる」
『なに、直ぐに思い出すさ。どのみち、お前に用意された選択肢は一本だけだ。どれだけそこから外れようとしても、結果はひとつに収束する。結局、遅いか速いかの違いでしかない』
口を開こうとして、気付く。
反論も、悪罵も。思いつく限りの言葉を、目の前の『俺』に浴びせかけてやりたいはずなのに。身体は一切の命令を受け付けず、ただひたすらに漂流することしか許されていない。
余人には理解できない前衛芸術を彷彿とさせる、目眩がするような極彩色。悪趣味な空間に磔にされたまま、意識だけがひどくゆっくりと遠のいていく。
『——おかえり、俊』
夢か現か、それすらも曖昧な世界の中。
『俺』が口にした最後の一言は、嘲笑うように消えていった。
この物語は「雨宮俊の物語」であり、主人公は俊と魚見です。メインと並行して語られる裏側の視点も、どうか楽しんでいただければと思います。
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