0-03/泡沫夢幻
前回のあらすじ
へぇ、デートかよ
『さて。ここに呼ばれた理由はわかるな?』
『もちろん。……そもそも、僕が頼んだ件なんだから、忘れるわけない』
『そりゃそうだが、それでもしっかり締めとくべきなんだよ、こういうのはな。それが立場と責任ってヤツだ』
いつになく神妙な調子で、坂本さんがそう口にする。対する「僕」は表情こそ硬いものの、イマイチピンとこない顔をしたままだ。
まぁ。それも、仕方がないと言えば当然なんだろう。
何がやりたいかなんて、これ以上ないくらいに明確だと。そう考えていた「僕」にとって、こんな問答をすること自体が無意味だったんだから。
二つの事件、二人の終わりを見て、己の意志は完全に固まった。それをわざわざ問い直したところで、得られるものなんか何もない——我ながら馬鹿なことを考えていたものだし、きっと坂本さんはそれを見抜いていた。
『お前は今この瞬間から、日本星皇軍の人間になる。ただの庇護者だった今までとは訳が違う、れっきとした「仕事」をするってことだ。当然、そこに伴う責任も重圧も、これまでとは比にならんくらいに重い』
『自覚を持てってこと? それなら——』
『だとしても、だ。どれだけ覚悟しているつもりでも、現実は必ずそれを超えてくる。だから、そもそものスイッチを入れたのが誰なのか、きちんと理解しておかなきゃならん』
経年劣化した記録映像のごとく、思考の間をノイズが走り抜ける。
『本来なら、新兵にはこのへんの感覚をしっかり叩き込むんだが——お前は色々と、事情が特殊にすぎる。だから、改めてこれだけは明言しておく。日本星皇軍大佐、坂本慎一としてだ』
虫食いでも起きていそうなノイズが示すのは、時間の経過というつまらない事実ではなく。
どれだけの時間が経ち、どれだけの紆余曲折を経ようとも。その記憶がずっと重要であり続けるということの、この上なく明快な証左だった。
『みだりに命を奪うことも、勝手に命を散らすことも許さん。お前の能力は他人の生き死にを左右できるが、だからこそ己自身を含めた生殺与奪の権利は一切無いと思え。お前が能力の全てを使うときは、俺が判断を下したときだけだ。いいな?』
幼少から僕の面倒を見てくれていた、自堕落で適当な「坂本さん」はそこには居ない。
日本星皇軍第二本部の最高責任者、「坂本慎一大佐」としての顔。それまで見たことのなかった瞳が、「僕」を正面から見据えていた。
その身から放たれる空気の一切が、強力な圧を持ったものへと形を変える。剥き身の刀身のごときそれに、思わず後退りそうになってしまう。
『……それ、今までとだいたい同じじゃない? 能力の制限が変わるわけでもあるまいし』
『それをより強固にするためのものってことだ。組織人になった以上、独断でぽこじゃか能力を吸われても困るだろ? 命令に忠実な駒を作るってのも、上役の重要な仕事ってな』
『……よくできた皮肉だね』
押しつぶすような空気に耐えきれず、思わず軽口を叩く「僕」。それに対してふっと口元を緩めた坂本さんの真意など、わざわざ語るまでもない。
『そんだけ減らず口が叩けりゃ上等だ。——んじゃ、まずはこれからいくか』
『え……うわ、ちょっと』
その声とともに飛んでくるのは、正体不明の分厚い何かだ。
文字通り投げ渡されたそれは、しかしサイズ的には眼前を覆い隠して余りある。眼前に直撃しかけたそれをどうにか受け止めた「僕」は、今度こそたたらを踏んで後ずさってしまう。
『……なに、これ?』
『お前の経歴だ。中学一年の魚見恭平です、今日はたくさん人間を処理しました——なんて、間違っても公的な記録につけられるわけがないだろ? それっぽいプロフールを用意するのも、こっちの仕事のうちってことだ』
軽く本一冊はありそうな厚みのそれには、特級の情報がこれでもかと言わんばかりにファイリングされている。
立場から職務内容、あろうことか過去の経歴まで。どこからどう見ても疑う余地のない、完全な日本星皇軍のいち隊員——精巧に作り上げられた真っ赤な嘘が、さも当然と言わんばかりに公的なプロフィールとして並べ立てられていた。
『これから先、仕事に関連する情報はすべてこっちで処理してもらう。日頃の連絡から情報の管理まで、ひとつの漏れもないように徹底しろ。そのために必要な場所やら端末やら、そのへんは必要に応じて用立ててやる』
『……ここ、生徒の観察記録を提出しろってあるけど。必要なの、これ? 下手したら総本部まで行くタイプの書類でしょ。目をつけられる原因になるんじゃない?』
『生徒の個人情報を渡してる以上、きちんと仕事しましたって証明が必要なんだよ。どのみち要注意生徒については個別で対策を組むことになるし、別途で対外秘の資料も作ってもらう。要は先方に漏らしても困らない、当たり障りのないもんを用意しとけってことだな』
あっけらかんとそう抜かす坂本さんは、全くもって悪びれている様子もない。
今に始まった事ではないけど、坂本さんは総本部に対しての隠し事が余りにも多い。僕のこともそうだし、それ以外のことに関しても……まるで協調という言葉そのものが、頭からすっぽりと抜け落ちているかのようだ。
それは例えるのなら、敵の存在を四六時中警戒しているかのような。何処にいるかは分からなくても、敵がいることそのものは確信していると——そう言い切れるだけの振る舞いを、この人はずっと続けていた。
『他に質問は? なけりゃ次の話題に行くが』
『……ひとつ。と言っても、大したものじゃないんだけど』
なんでもこい、と言わんばかりに、腕を組んで顎をしゃくる坂本さん。
視線だけで先を促すその所作は、数年前から変わっていない。夢の中で懐かしさを覚える、という奇妙な体験をしているうちに、「僕」の口から次なる言葉が飛び出す。
『いちのせ……いぶき? でいいんだよね、これ。坂本さんが考えたにしちゃ、随分といいセンスの名前だけど』
『……何を聞いてくるかと思えば。どうせならもうちょっとマシな疑問を持て』
一ノ瀬一楓——「僕」がこれから被ることになる、もうひとつの仮面の名前。
その出自に疑問を持てば、坂本さんは虚を突かれたような顔をする。
細く長い溜息と、なんとも言えない渋い表情。坂本さんがそんな反応を返すときは、決まって裡に何かの思惑を抱え込んでいるときだ。
『……名前はともかく、苗字は前任者から拝借した。ゲン担ぎってわけじゃないが、そっちの方がそれらしいだろ?』
『前任者……って、何の? この仕事?』
『アホ抜かせ。こんな特殊事例がそうそうあってたまるか』
鼻を鳴らす坂本さんが、今度こそ心の底から呆れ返ったような声を出す。
『お前の能力が色々と特例だって話は、今まで散々してきただろ。そもそも、お前より前の代でこれを持っていた人間は——』
『たったひとり、だっけ。……じゃあ、前任者って』
『そういうことだ。初代へびつかい座の一ノ瀬さんにあやかれるんだぞ? どうだ、光栄だろ?』
『いや、知らないし……そもそも一ノ瀬さんて誰よ。面識あるの?』
何を当然なことを、という顔をする坂本さんと、その正面で呆れた反応を返す「僕」。
それまでとは逆転した構図にあって、しかし坂本さんは顎に手をやって考え込むそぶりを見せる。意外な反応に驚いているうちに、その口からはまたも予想外の言葉が飛び出していた。
『面識といえば——まあ、そうだな。とびきりの美人だったぞ? 多少ズレた点もないわけじゃなかったが、それを差っ引いても十二分なレベルだ』
『へぇ……響さんとどっちが美人?』
『……お前、俺の命を危険に晒して楽しいか?』
中学生らしい突っ走った質問に、坂本さんが顔を引きつらせる。
今思うと我ながら怖いもの知らずだと思うけど、そこはそれ、若気の至りというやつだ。そもそも、前任者が女性だという驚きで頭がいっぱいだったのだから、仕方ないといえば仕方がない。
『ま、故人の話をしたって仕方ない。それよか二つ目の話だ、丁度タイミングもいいことだしな』
またしても重大な情報を、さも何でもないことのようにさらりと流して。
おもむろに席から立ち上がり、ごそごそと棚の中を漁り始める坂本さん。司令室とは思えぬ威厳のなさに閉口する「僕」と僕の前で、彼は探し当てたそれを机上に置く。
『これから仕事するにあたって、制限のオンオフを瞬間的に求められる場面も出てくるだろう。意識の切り替えだけじゃどうしても追っつかん場面が、な。そのための便利アイテムをプレゼントだ——ま、門出祝いみたいなもんだと思えばいい』
たいそうな言葉とともに開かれる、やたらと高級感の溢れる小さな箱。「僕」の前に差し出されるそれは、一目見ただけでお高いと分かるものだ。
……もっとも。高級そうだということ以外に推測できることなど、文字通りまるでないんだけど。
『……なにこれ』
『便利アイテムだっての。お前が能力をより制御しやすいように、滝川が改造した特別品だ。元は由緒正しい高級品だからな、衝撃やら防塵やらの耐性もバッチリだぞ』
『いや、そういうことを聞きたいわけじゃなくて』
あらん限りのドヤ顔とともにお出しされた、謎の高級時計(改造済み)。それを前にした「僕」の表情は、いっそ面白いくらいの困惑に満ちている。
だいたい、お洒落に毛ほどの興味も示さないはずの坂本さんが、何故にこんな高級品を持っているのか。この時は完全に聞きそびれてしまったけど、考えてみれば不可解極まりない。贈答品のつもりにしたって、あまりにも度が過ぎている。
『そもそも……制御って言うけど、特殊機能とかあるの、これ? 滝川さんがなんかつけたとか?』
『いんや。滝川がやったのは、この……あー、竜頭? これの効きを良くしただけだ。ほら、めっちゃバチって押し込めて気持ちいいだろ? なんなら一日触ってたいくらいだろ?』
『なにそれ……そもそも時計ですらないんだけど』
そう言いつつ時計を弄る坂本さんの手つきは、とても高級品に対するそれとは思えない。
竜頭を押し込むのが目的なら、針は止まっているのが基本形ということになる。それはもはや時計ではなく、ただのゴツいアクセサリーだ。斜に構えた中学生なら確かに喜びそうだけど、残念ながら僕はその道のものじゃない。
……まぁ。竜頭の感触については、納得できなくもないけれど。
こうして三年使っても壊れていないのだから、事実として品質の面では紛れもない本物だ。この押し込む感覚、何度やっても癖になるのだから恐ろしい。
『繰り返すことになるが、これはお前の能力を制御しやすくするためのもんだ。お前が今頭の中でやってる能力のオンオフを、この竜頭を使ってより明確化する。ここを押し込んだ瞬間に反射レベルで制限が外せるように、繰り返し訓練を重ねてみろ』
『わざわざ時計にした意味は?』
『いつも身につけるだろ? 起動もワンアクションでやりやすいしな。片手が塞がってる時は……まあ、どうにかしろ』
あまりにも投げっぱなしな回答に、閉口する中学一年生の僕。今の僕がこの話をされても、たぶん同じような顔になるはずだ。
能力の外部補助装置を用意するというやり口そのものは、何も珍しいものじゃない。咄嗟の制御をミスなく行うためには、むしろ理に適っているとすら言える。
坂本さんの名誉のために言っておけば、駒の有用性を高めるためにあたっては適切な判断だ。というか、なまじ理に適っているからこそ、投げやりなところが目立つというか……雑なのか丁寧なのか、頼むからどちらかに振り切れてほしい。
『本来ならお前が高校に上がったとき、進学祝いにでもと思ってたんだが——お前がこうなった以上、早めに渡しとくに越したことはない。武器はあって困るもんじゃないからな』
『……そもそもこの話、制限を強くするためのものなんじゃなかったっけ。こんなもの渡しちゃったら逆効果じゃない?』
『もちろん、俺の許可が必要なのは大前提だ。その上で、より明確かつ効率的にスイッチを切り替えることができるのなら、道具に頼らない手はないだろう? ゼロコンマ1秒の差で生死が分かれる、それが戦場ってもんだ』
それはそれ、これはこれだと。そう言わんばかりに、坂本さんがあっけらかんとした口調で言葉を紡ぐ。
命のやり取りをする場所に、お前は踏み込んでいる。「僕」を見つめる坂本さんの瞳は、言外にそう告げていた。
『……そういえば、さっき言ってたけど。丁度いいタイミングって何よ』
『んぁ? ああ、さっきの前任者もこのやり方だったんだよ。上手いこと能力を制御できなくて、どうするか考えた末に取った解決法が時計ってわけだ。……というかまあ、それを教えたのも俺なんだがな』
『いや別にその情報はいらない……』
塩対応の「僕」を前にして、一瞬前までのドヤ顔が嘘のようにしょぼくれる坂本さん。
過去の自分自身ながら、やたらと厳しいコメントもあったものだと思う。もうちょっとくらい聞いてあげてもいいんじゃない? ほら、めっちゃ話したそうだったじゃん今……。
この時以降、たまに出てくるようになった「前任者」の話題。坂本さんがポロリと零すこともあれば、話の流れで僕が訊くこともある。
先代のへびつかい座である一ノ瀬さんと、若き日の坂本さん——その関係性は結局、今に至るまで聞き出せていない。
むやみに広めるべき話題ではなくとも、過度にタブー視しているわけでもない。あくまで世間話として消費し、それ以上の情報は与えないのが、坂本さんのスタンスだった。
……もちろん。興味本位でそのラインを踏み越えようとしたことも、決してないとは言い切れない。
唯一の同類が何を考え、何に苦しめられていたのか。いくら個人の秘密とはいえ、知りたくないといえば嘘になる。
——だから、なんだろう。
気づけば、過去の僕は。この時抱いた疑問を、そのまま口に出してしまっていた。
『まさかとは思うけど、この時計って——』
『な訳ないだろ、誰が故人のもんを渡すか。これは俺が使うつもりだったやつだ』
体面上は疑問の形をとっていたそれは、しかし最後まで言い終わることなく霧散する。
ただの否定と表現するには、いささかに強すぎる語気を伴って。
そこにあるのは、有無を言わせぬだけの迫力。見方によっては怒気とすらも思えてしまうほどの感情が、突きつけられた言葉の中に滲んでいた。
『……ま、そうだな。あながち関係がないとも言い切れんが——とにかく、これは彼女のもんじゃない。だいたい、どう見たって男物だろ? 中学生じゃひっくり返っても手が届かないようなモンをタダで貰えるんだから、つべこべ言わずに受け取っとけ』
『……まぁ。そう言うなら、ありがたく』
不手際を悟ったとしても、それはあまりに遅すぎる。
この時の僕に取れる手段は、こと此処に至ってはひとつしかなく。それを今更のように理解したからこそ、大人しく引っ込む以外の選択肢などなかったのだ。
『……それで、次は? まだ話があるんじゃないの?』
『そうだな——いや、今日はここまでだ。情報だけいっぺんに出しても、当人が理解してなきゃ意味がないからな。新しいねぐらの位置がその裏に書いてあるから、そこで読書にでも励むといい』
『読書ねぇ……そんなに軽く流せるものでもないと思うけど、この量』
『だから励め、って言ってんだ。しっかり設定を叩き込んどかなきゃ、明日からの仕事に対応できんだろう? 期待してるぞ、一ノ瀬特尉』
『特尉って……』
殊更に軽い調子で流れていく会話は、お互いに理解しているからこそのものだ。
まぁ、にしても……この分厚いファイル一冊の情報を、わずか1日で完全に理解しろ、などと。中学一年生に課すにはあまりに酷すぎる宿題に、分かっていても顔をしかめてしまう。
事実、ここからの数ヶ月間は、とても余裕とは言い難いようなものだった。思い返せばとんでもない苦心を重ねたものだと、懐古の言葉すらも零しそうになる。
星皇学院の学生、一介の生徒でしかない魚見恭平として。同時に星皇軍最重要機密、一ノ瀬一楓特尉として——今は慣れきってしまった二重生活は、この瞬間から始まったのだから。
両の手に荷物を抱えた「僕」は、これから坂本さんが用意してくれた仮住まいへと向かうんだろう。自分がとんでもないことを始めたと気付くのは、目の前にあるものが全て片付いてからのことだ。
使命感に燃えて、それでも覆せないものに打ちひしがれて。そんな未来が待っていることを、三年前の「僕」は知る由もない。
『——気張れよ、恭平』
立ち去りゆく「僕」の後ろ姿に、静かに告げられたその言葉。
この時は確かに、振り返って返事をしようとしていたはずだった。
今は、もう。
何を言おうとしていたか、その断片すら思い出せそうにない。
# # #
微睡む世界が、泡沫のごとき夢を見る。
意識と無意識の境界線。あるいは夢と別の夢、双方を繋ぐ橋のような場所。
刹那のうちに崩れ去る空間が、ぼやけたように煌めいている。
それは見るものすべてを魅了する、宝石のような輝きではなく。
例えるなら陽光のごとき、柔らかな光に満ち溢れていた。
おいで、と。声のする方向に身体を向ければ、ひとつの影が伸びている。
一本道の先、坂を登りきったそのてっぺんで。光を浴びるその人が、にこやかに手を振っていた。
『えらいね——よく、がんばった』
長い長い坂道の先で、僕を迎える誰かが笑う。
顔も、匂いも、背格好も。何ひとつとして、僕が知りうる人間の中に該当しない。逆光の中で微笑むその人のことを、僕は文字通り何も知らないはずだ。
そうだ。
……そのはず、なのに。
どうしてか、ひどく懐かしい気持ちになって。走り出した足を止められずに、気づけばその人のもとへと飛び込んでしまう。
『いっぱい、がんばったんだね。……わかるよ、もちろん』
柔らかな腕が、小さな僕を抱きとめる。
歯を食いしばったはずなのに、感情は隙間をすり抜けていく。堪えきれずに溢れ出した何かが、頬を伝って地面へと落ちた。
『キミのそばで、ずうっと見てきたから。つらいことも、くるしいことも、ずっと』
声が、言葉が。抱きしめられた身体の奥底に、ふわりと滲んで溶けていく。
なんの根拠もない気休めだと、そう理解しているはずだ。それをわかっていながら、それでもこうして甘えてしまうのだから、あまりにも都合がいいと言うほかにない。
とても綺麗で、居心地がよくて。ずっとここに留まっていたいと、そんなことを考えてしまいそうになる。
「…………っ」
でも。あいにくと、そんな甘えは許されない。
夢が過去の記録だと言うのなら、こんな記憶は僕の中にはない。きっとこれは、僕の心が作り出した幻想だ。
都合のいいものに縋って、理想の世界に逃げ込んで。それで得られるものなど、所詮はすべてが夢幻でしかない。
だから——ここがどれだけ完璧な世界だったとしても。
この坂の向こうで揺らめく現に、僕は戻らなければならないのだ。
『そっか……うん。キミは、すごいね』
悲しげに目を伏せるその人は、何を思っているのだろうか。
言葉を聞くたびに、あるはずのない郷愁が刺激される。胸を締め付ける感情の奔流は、しかし喉元に支えたきり動こうとしない。
『じゃあ、お話は次までおあずけかな。レディを待たせるからには、とびっきりのものを用意してくるんだぞ?』
一度だけ拭われた目元には、もう涙の跡は残っていない。
向日葵のような笑みと共に、僕を包んでいた温もりが離れていく。くるりと反転させられた視界に映るのは、その先に広がる下り坂だ。
『まったく、こんな道ばっかり選ぶんだから。……だれに似たのかなあ、ほんと』
……誰だろうね、本当に。
背後でから聞こえるその声に、心の中で小さく返事をする。含み笑いがほんの少し大きくなったのは、きっと気のせいなんかじゃないはずだ。
無限に溶けて消えるというのであれば、今この瞬間だって例外ではない。記憶に残ることもないまま、すぐに忘れてしまうのだろう。
次の夢に、次の現に。溺れ、迷って、底の見えない深みへと落ちていく。
『ふふ。……じゃあ、いってらっしゃい。私の——』
——それでも。この感触だけは、きっと忘れない。
……さぁ、行こう。きっと、すぐに次が来る。
どこまでも温かい掌が、勇気付けるように背中を押した。
ゆめまぼろし、されど。
次回、現在に時間が戻ります。回想と悔悟しかしていない主人公(裏)、ようやく動く。
次回は例によって来週日曜、夜に更新予定です。変更等あれば都度告知いたします。
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