3-4/プロフェッショナル
職務怠慢は大罪です。
「……っ……痛……」
……ああ、しまった。
頭が痛い。おまけに肩も、腰も。
椅子で寝落ちなんてよくあることだけど、クーラーまでつけているとなれば話は別だ。たった数時間の仮眠とはいえ、身体に悪いことは言うまでもない。
やっぱり、大人しくベッドで寝ておくべきだった。大仕事のあとに作業なんてしようとするから、こんなザマになってしまうのだ。
己の状態が反映されたものが夢なのだとしたら、今まで僕が見ていた夢はさぞおどろおどろしいものだったのだろう。精神状態は言わずもがな、肉体までここまで酷い状況に置かれているのだから、それも至極当然かもしれないんだけど。
「……はぁ……水」
変な時間に起きてしまった上、二度寝する眠気すらも飛んでしまった。自分の部屋が一番寝付けにくいだなんて、全くもって洒落にもなっていない。
ほとんど空っぽの冷蔵庫を開け放ち、買い置きしてある天然水を喉奥に流し込む。美味しいとも不味いとも思わないけど、おかげで目はバッチリ覚めた。
……まあ、もっとも。
夢見が良かったことなんて、ここ数年で数えられるくらいしかないんだけど。
夢の内容は覚えていないけど、どうせまたいつもの「思い出」のうちどれかだろう。仮に夢日記でもつけようものなら、ものの数日でネタ被りが発生するくらいには貧困なレパートリーだ。
ここまで夢見が悪いのが常態化してくると、もはや無意識下でも心構えができるようになってくる。夢には己の状態が云々、などという大口も叩けるのも、自分の劣悪なコンディションを完璧に理解しているからに他ならない。
「……はは」
なんだ。軽口を叩ける元気くらいは残っているんじゃないか。
上滑りする思考を前にして、これまた空虚な言葉を走らせる。ここまで空っぽな言葉だと、一周回って楽しくなってくるんだから不思議なものだ。
仕事の続きをしようとしたのも、椅子で寝たのも、結果だけ見れば決して悪い選択肢ではないんだろう。下手にベッドで深い眠りに落ちようものなら、朝までずっとうなされていたことは疑いようもない。
恐らくは今日の経験すら、鮮度抜群の悪夢として僕を苦しめていたはずだ。予想なんて生易しいものじゃなく、分かりきった未来だと断言できる。
「はは、は……」
ああ、そうだ。
僕は今日、久々に——人を、殺した。
穏やかな気持ちで眠りにつけるなんて、そんなこと土台あるはずがない。仕事の続き、なんて言葉で繕ったところで、結局は混じりっけのない逃避行動でしかないんだから。
いくら眠気が飛んだからといって、時間としては深夜もいいところだ。ベッドで横になっていれば、きっといつかは眠気が訪れるんだろう。それが何よりも恐ろしいからこそ、こうして机に再び向き合っている。
「——」
再起動したパソコンの光が、寝起きの目に突き刺さる。映し出される情報は、対外秘などという言葉では到底片付けられそうにない。
星皇学院に所属する生徒たち、一人ひとりの個別的なプロフィール。氏名から適合率、趣味嗜好や関係の保ち方まで——自分で言うのもなんだけど、3桁の個人情報を収集&管理しているなんて、そんじょそこらのストーカーよりも余程ヤバい自信がある。
……そして。その内のひとつが、本日をもって処理済みになった。
大宮亜里亜。星皇学院第二本部所属、高等部二年生。勘違いしそうになるけど、この名前でれっきとした男性だ。
その名前にどんな意味が込められていたのか、そこまで調査したわけじゃない。ただこの名前は、間違いなく彼が堕ちた狂気の一因になっている。
彼が能力に目覚めたのは、高校に上がったばかりの頃。覚醒それ自体に命の危機を伴うような事件性はなく、発見され次第速やかに保護された。両親も協力的……というよりも無関心と言っていいレベルであり、保護にありがちなトラブルは皆無だったらしい。
己の居場所に固執することもなく、突如として放り込まれた新しい環境に戸惑うわけでもなく。持ち前の寡黙な性格もあってか、彼はただ淡々と、こちらの世界を受容した。
……かに、見えた。
彼の性格が先天的なものなのか、抑圧の結果そうなった後天的なものなのかはわからない。
でも、ひとつだけ言えることは。「何も言い返さない」彼は、いじめの対象としてこれ以上ないくらいに適役だった、ということだ。
小学校低学年の頃から、星皇軍に保護されて学院に移籍するまで、彼は継続的ないじめを受け続けていた。その発端のひとつが彼の特徴的な名前にあることなんて、わざわざ明言するまでもない。
仮に。その人生が平凡なままだったら、彼は被虐者のまま学園生活を終えていたんだろう。それが正しいかどうかはさておくとして、この予想はきっと大それたものではないはずだ。
負け犬根性が染み付く、なんて言葉はあんまり使いたくないけど、虐げられた人間が自力で這い上がることは困難を極める。外部からの何かが起爆剤として機能してもなお、本人の意志抜きに立ち上がることなどできるはずもない。
——だから。そうなったことには間違いなく、彼の強い意志があったのだ。
星皇学院の移籍に伴う、関係者との実質的な断絶。そして何より、「星の力」という異能の発現。
被虐者という軛から解放された彼は、常人とは違う能力と環境を手に入れた。一変した世界を前に、彼は己の意志で、次の道を選び取った。
“復讐”。それが、彼が掴んだ答えだった。
今まで己を虐げてきた者たちを、必ず自分と同じ場所にまで叩き落とす。人智を超えた力を手にした被害者は、昏い情念とともに加害者へと身を転じた。
それは、確固たる覚悟からくる不退転の精神ではなく。
乱暴な例え方をするのならば、制御の利かない暴走特急と言ったほうが何倍も適切だろう。
鋼の信念と、冷徹な行動に基づいた計画的な復讐であれば、ここまで面倒なことにはならなかったと断言できる。むしろ、何度そうであってくれたのならと考えたかわからない。
その手の人間は大抵、強靭な精神で己を律している。復讐を成すためならば幾らでも機を待つことができる、そんな化け物が復讐心に飲まれて己を見失うわけがない。
彼にあったのは、ただただ復讐を成さんとする強い意志だけ。ドロドロとした激情が迸るまま、報復という唯一の目的に向かって脇目も振らずに走り続けた。
それが正常な精神状態だとは、たとえ冗談でも言うことなどできやしない。のめり込めばのめり込むほどに、その精神は人から外れたものへと堕ちていく。
たったひとつの考えに支配され、彼は際限なく力に溺れていった。己自身を制御できていないことにすらも気づかず、ただただ能力に侵食され、結果として適合率は歯止めもなく上昇した。
「要注意個体」。能力の暴走傾向が見られる生徒に、軍がつけるナンバリングのようなものだ。
端的に言うなれば、それはブラックリストと表現するのが何よりも近しい。星屑化のケースも想定し、継続的な監視を続ける対象として、彼の名前が挙げられるようになった。
もちろん星皇軍としても、状況を指を咥えて見ていたわけじゃない。学院内部から星屑が発生する可能性を想定していないはずもないし、その時のための訓練も積んでいる。
……身も蓋もない言い方をすれば、どこまでも「在り来たり」な状況だったのだ。
いくら手厚く保護したとしても、星皇軍という環境に適応できない人間は一定数存在する。そういった層に対応するために、学院専属のカウンセラーも配備されているし、定期的な適合率の検査も行われている。
復讐に囚われた生徒だって、何も今回が初めてじゃない。程度の差はあれ、唐突に超常の力が手に入ってしまえば、目に物見せてやろうとするのは十二分に考えられることだ。
自分のための復讐、他人のための復讐。どんな理由であれ、獣へと落ちればみな同じ。
僕が処理した限りでも、過去に似たような事例は存在していた。カウンセリングだって一朝一夕の話じゃないし、ノウハウは確実に蓄積されているはずだ。
それでも、全てを救えるわけではない。あえて言葉にするのなら、たったそれだけのこと。
比率としては中等部以下のほうが多いけど、なにぶん高等部は生徒の絶対数が比べ物にならないほど多い。毎年数人、壊れる生徒は確実に存在している。
どれだけ完璧なメンタルケアを行なったとしても、引き戻せる確率は良くて5割。残りはそのまま、星屑化まで一直線の道を辿るしかない。
「手遅れ」と判断されたが最後、取られる手段はカウンセリングから害虫駆除へと切り替えられる。必要であれば隔離措置も取られ、鎮静剤という名の薬物投与が繰り返され、それでも止められなければ処分される運命だ。
大宮亜里亜は、どれだけ手を尽くしても戻って来られなかった。
そして、その処理を請け負ったのが僕だった。
なんてことはない、たったそれだけの話だ。
「んぐっ……はぁ……」
どれだけ水をがぶがぶと飲んでも、淀んだ思考が振り払われることはない。
目が冴えるような冷たさとは裏腹に、どろりとした生暖かい感情が澱のように積み重なる。
何故一介の学生でしかないお前が、こんな大それたことをしているのか。もし雨宮俊あたりにこの話をぶちまければ、彼は烱々とした眼光でそう訊いてくるかもしれない。
……もし、そう問われたのであれば。仮にこの仕事が公になれば、飛ばされるであろう首は一桁じゃ済まないだろうけど——それでも何かの間違いで、僕の所業が表に出てしまったのだとしたら。
その時は、僕はこう答える以外にないだろう。
もちろん。僕が一介の学生ではないからだ、と。
一ノ瀬一楓。それが、今の僕の名前だった。
より正確に言うなれば、この「仕事」をしている時の……僕が諜報員として活動するにあたっての、坂本大佐から与えられた立場付きの偽名、といったところだろうか。
学生である「魚見恭平」のまま痕跡を残そうものなら、文字通り一瞬で足がつく。第二本部の上層部はみんな僕のことを理解しているし、なんならこの仕事を始める前から知己ではあったけど……そうじゃない外部の人間、例えば総本部の人間に怪しまれようものなら、どうなるか分かったものじゃない。
居住区にあるこの仮住まいも、ここに集められたデータも、諸々の連絡事項すら。外に出せないようなものはすべて、この名義で取り扱っている。星皇軍にも籍のある、れっきとしたいち将校だ。
パソコンだけじゃなく、一ノ瀬のスマホにだって、特級のマル秘データが山盛りになっている。特尉だったか特佐だったかは忘れたけど、ログだけ見れば間違いなくエリート諜報員の仕事内容だろう。
「……エリート、か」
あまりにも似合わない称号に、口から乾ききった笑いが漏れる。
魚見恭平として生徒たちと触れ合い、集めた情報を一ノ瀬一楓として管理する。エリートと評価できる点があるとすれば、辛うじてでもこの二重生活を維持できている点だけくらいのものだ。
もっとも。その生活だって、言ってしまえば慣れが大半を占めている。
中学一年生の頃から数えて、もうかれこれ三年ほど。それだけの期間やり続ければ、自ずと力加減も分かってくる。
誰かの話を聞き出すために、別の誰かと関係性を育む。要注意人物が分かったら、その人間と直に交流を持って、その内面がどう不安定なのかを分析していく——毎日が、ゲームでいう親愛度稼ぎのような行動の繰り返し。
浅く広く、時に深く。生徒全員の情報を集めるためには、どこかひとつのグループに固執していてはならない。カースト関係に縛られず、人間関係の間を漂う雲になる必要がある。
幸いなことに、僕にはその適性があったらしい。男子とくだらない話をするのも、女子の井戸端会議に付き合うのも、労せずにこなせるようになった。
相手が求めているものを、相手が求めたタイミングで出せばいいだけ。たったそれだけのことで、当たり障りのない人間関係を築くことができる。どれだけ警戒心が強くても、適切なコミュニケーションを出力していけば、氷を溶かすのはそう難しくはない。
ひょうきんであると同時に、この上なく分かりやすいお調子者。誰とでも話すことができる、「魚見恭平」という仮面。
生徒全員にそのイメージが行き渡るまで、そう長い時間はかからなかった。
生徒たちを騙し、人間関係を手玉にとって遊んでいる。見方を変えれば、そう言われても仕方ない事をしている自覚はある。
でも。それに関して、申し訳なく思う気持ちはない。
仕事の時に引き締めていた意識が、いつの間にか「一ノ瀬一楓」の仮面として成立したように。「魚見恭平」という在り方も、僕にとっては紛れもない本物なのだから。
だから——己の行動に負い目があるとすれば、それは。
堕ちていく彼らに手を差し伸べるはずの「魚見恭平」が、結局は何もなし得ていないことへの怒りに他ならない。
「っ……」
薄っぺらい笑顔を貼り付けて情報収集に努め、個人ごとの適切な接し方を見つけ出す。そんな苦行じみたことをやっている理由は、もちろん人助けのためだ。
見える見えないに関わらず、この学院にいる人間はみな精神的に危ういものを抱えている。それを表に出せない人間ほど、深みに嵌って落ちていってしまう。
いくらプロの集まりとはいえ、生徒にとってカウンセラーはあくまで教師側の人間だ。物理的にも精神的にも、踏み込めない一線があることは言うまでもない。
放課後や休日に何をやっているかなんて、およそカバーしきることなど不可能だ。そもそも、本当にカウンセリングが必要な人間ほど、そういったものを避けて通る傾向にある。
……でも。もし、学生側の人間が、知り合いとして関係性を持てるのであれば?
なんでも話せる人間になれるほど、人心掌握に長けているつもりはない。それでも、一人でもそこに寄り添う人間がいるのだとしたら、それで変わる何かだってあるかもしれない。
「もしかしたら」で済ませられるほど、小さな可能性ではなかった。でも、冷静にコストとリスクを勘案してみれば、リターンに期待できるかなんて明白だ。
すべてを救えるわけではない。そんなこと当然で、中学生にだってわかる。
星皇軍という大きな網が取りこぼしたものを、僕という個人が拾い上げることができる……なんて。どれほど傲慢で、自分勝手な理屈なことだろうか。
「……それでも」
それでも。カウンセラーという立場からは、どうしても踏み込めない壁があると思った。
学生という、対等な立場にいる僕だからこそ出来ることがあるかもしれないと。土田佳蘭の最期を覆えせるものならと、身勝手にもそう考えた。
「仕事」なんて。格好つけて言ってはいるけど、元を辿れば僕のわがままだ。
学生をここまで踏み込んだ立場に立たせるなんて、いくら僕が特殊でも許されるはずがない。処理に協力するという確約と、坂本さんの鶴の一声があって初めて許されている、言うなれば特A級のお目こぼしだ。
坂本さんに無理を言って、学生の身分にいながらこんな立場まで用意してもらった。より近い距離から対話を重ねることができれば、星皇軍でも掬い上げられなかった人間を変えることが出来ると、そう信じて「魚見恭平」は彼らに干渉し続けてきた。
——でも。何よりも、真の意味でタチが悪かったことは。
僕の中に宿る能力が、特例と言えるだけの力を持っていたことかもしれない。
「……へび座、ね」
大宮亜里亜の能力に何も感じるところがなかったと言えば、それは紛れもない嘘になる。
へび座——いつだったかに己の能力をそう説明したのは、雨宮俊に向けてだったか。口からの出まかせのつもりが、気づけば嘘から出た実になってしまったのだから、事実は現実というより何とやらだ。
魚見恭平の、一ノ瀬一楓の宿した能力。当然のことながら、それが単なる『星の力』であるはずもない。
へびつかい座。公的記録の存在しない、十三番目の十二宮。
とんでもない厄ネタこそ、僕の持っている力の正体だった。
星皇軍に蓄積された膨大なデータの中でも、僕以前にこの能力を持っていたと認められるのはたった一人だけ。しかもその記録さえ、軍のごく一部以外には存在すら知られていない。
上層部のみに伝えられている、文字通りの最重要機密。総本部のお偉いさんを含めても、知っているのは10人いるかどうか——と言えば、事の重大さが多少は伝わるだろうか。
当然すぎる話だけど、僕の能力についてのあらゆるデータは、カモフラージュという名の詐称が行われている。総本部に提出する資料でさえ、そちらの偽データが使われている手の込みっぷりだ。
これまでの工作からも分かる通り、坂本さんは総本部にも僕の存在を隠し通したいらしい。どんな因縁があるのかは知らないけど、基本的に利得そっちのけの坂本さんがそんなことをするのだから、「当代のへびつかい座」の重要性は推して知るべきだ。
言うまでもなく。機密保持の観点から見れば、僕の行動はとても褒められたものじゃない。
影を潜めて大人しくするどころか、仕事などと宣い、プロがやるべき仕事に首を突っ込んでいる。現状は首尾よくこなせているものの、尻尾のひとつでも出そうものなら瞬く間に吊し上げられてしまうだろう。
仮に僕の存在が露見すれば、坂本さんが手厳しい批難を浴びることは言うまでもない。第二本部と総本部との冷戦が始まる可能性だって、とても無視できるものではないはずだ。
それでも——僕がこうして、わがままを突き通せている理由。
それはひとえに、この能力が規格外のものであるからだ。
複数の『星の力』の行使。必要に応じて様々に形を変える神器。利便性という意味でなら、これだけでも十二宮の格に相応しいと言える。
でも、そんなものはことごとく、この能力の表層からこぼれ落ちたものに過ぎない。
へびつかい座の能力、その真髄——それは、『星の力』の強制的な剥奪。
大掛かりな準備も、法外なマナ消費を要求されるわけでもない。たった一回、掌で触れるだけで、相手の生命ごと『星の力』そのものを抜き取ってしまう。
いくら強大であろうと、星刻者である限りは逆らえない絶対的な力。冗談のようなこの能力こそが、僕が自由行動を許されている最大の理由だった。
「——はぁ」
極論を言ってしまえば、握手するだけで相手を殺すことができる。我がことながら、随分とインチキ臭い能力もあったものだと思う。
僕が能力にかけている厳重な制限も、元を正せばこの機能を意図的に封印するためのものだ。常時この能力を解放していようものなら、僕は一生人間と触れ合えなくなってしまう。
もちろん、触れなければ発動しない以上、絶対的に相性が悪い相手というものは存在する。完全に星屑になってしまえば能力を抜き取ることもできないし、見かけほど万能というわけでもない。
……そもそも。厳密に言えば、僕が抜き取っているものは能力そのものじゃない。
あまりに能力が特殊過ぎて、まるで何もわかっていないけど……100パーセント僕の感覚で語るのなら、臓器を抜き出していると表現した方がまだ近しいはずだ。
能力を使うための生命力を生成し、貯蓄するという人間の機能。物理的なものか、もっと超常的なものかはわからないけど、きっとそのための器官が人体には存在する。
「器」と。あえて名付けるとするならば、そういう表現になるだろうか。
もっと雑な例えをすれば、コップやワイングラスのようなものだ。一人ひとりによって形と色が違う、自然に水が湧いてくるコップだと考えれば良い。そしてこの場合、湧いてくる水はマナに該当する。
そして——この「器」こそが、『星の力』の本質なのだとしたら。
それを奪い取った僕が、他人の能力を使用できていることにも筋は通る。
生命力の完全な枯渇が死亡と同義であることは、この世界に身を置く人間なら誰でも知っている基礎知識だ。であれば、マナの発生源を抜き取られた人間が、命を保つことなどできるはずもない。
未成年が出す例え話ではないけど、僕の能力はワインセラーに近しい。「器」と中に入ったものを保管し、時折外に出して使用する。他の能力と比べてみても、その構造は根本からして異なっている。
「……ほんと、便利な能力だよね」
嘯く己の声は、面白いほどに弱々しく震えていて。
だからこそ、なお一層気分が悪くなってくる。
ただ触れるだけで、星刻者を無力化できる。それがどれほど便利な代物であるかは、ここまでの暴走星刻者に対する星皇軍の努力を見ればわかるはずだ。
隔離も沈静化も必要ない。何より、彼らが星屑になりきるその前に、人間として終わらせてやれる。僕が星皇軍の人間だったら、都合のいい話すぎて信じないくらいだ。
僕が今、この「仕事」をしているのも。その根本はお互いにとって、この能力が有用だったからというだけのこと。
手遅れになった学生を、僕の能力で穏便かつ迅速に終了する。その協力を約束した上で、僕は好き放題行動することが許されている。
今回の大宮亜里亜の件だってそうだ。星屑化まで秒読みの人間を表側の世界に解き放つなんて、本来なら許されるはずもない。
僕の能力と、必ず処理するという確約。そのふたつがあって、ようやく事実上の黙認を貰えたというだけ。
彼が復讐を達成すれば、何か心境の変化があると思った。もう手遅れだと、誰よりも僕自身が理解していながら、それでも奇跡が起こる可能性に賭けた。
あるはずのない奇跡に期待する——なんて。仕事人として、あまりにもあり得べからざる行為だ。
協力者としての立場と責任を問われたって、何も言い返すことはできない。坂本さんは何も咎めることはなかったけど、それだけのことをした自覚くらいはある。
「……何も——」
結局、僕は何もなし得ていない。
ぐしゃりと握りつぶしたペットボトルが、いびつな感触を掌に伝える。
堕ちていく人間を問答無用で掬い上げる、なれるものならそんな存在になりたかった。
でも。残念なことに、僕にはどうやら荷が勝ちすぎているらしい。
核心に一歩踏み込んで、心の障壁を暗雲もろとも吹き飛ばす。この人がいればもう大丈夫だと、根拠がなくても思わせるだけの力がある——彼らが再び飛び立つために、本当に必要なのはきっとそういう部類の人間だ。
そして。自分の心をさらけ出せない臆病者に、その一歩を踏み出せる勇気があるかと問われれば。
彼らと真に対等であろうと思うのなら、友人と呼べるだけの人間を構築するべきだ。「友人」ではなく「知り合い」のまま、自分だけが安全圏にいようとするなんて、そもそも釣り合いが取れていない。
「………………っ」
……それは、何度繰り返したかも分からない問い。
そしてそのたび、同じ結論へと行き当たる。
もし、友人と呼べるだけの人間関係を作ってしまったら——僕はきっと、彼らに絆されてしまう。
目の前で星屑に変わりゆく人間を目にしてもなお、僕はきっと「友人」を殺せない。最後の最後で躊躇して、その結果取り返しのつかないことになる。
それが、どれだけ愚かな選択と理解していても。僕には到底、正しい選択はできっこない。
叶うのならば、ロボットのような人間になりたかった。冷徹に、鋼の精神で仕事を完遂する暗殺者は、英雄と表現するに相応しい人間のはずだから。
僕にはできない。世界を救う英雄には、どう頑張ってもなれやしないのだ。
……あぁ。本当に。
僕は、とても弱い。
目の前にいる存在が、もはや人でない害獣だと。そう割り切ることは、魚見恭平には不可能だった。
悩み苦しむのが、人間の証だというのであれば——彼はきっと、誰よりも人間らしい主人公なのでしょう。
やたらめったら重たい空気ですが、次回はもう一方の主人公に視点が戻ります。相方が悩んでるのも気にせずヒロインとイチャコラする男、多分人の心がないんじゃないでしょうか。
次回は来週日曜日、23時ごろ投稿予定です。変更等あれば都度お知らせいたします。
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