彼/Childhood’s End
目が覚めたのは、倒れ込んだはずの冷たく硬い床。
……ではなく。暖かく柔らかい、手入れの行き届いたベッドの中だった。
茫漠とした意識の中、以前も似たような事態に陥ったことを思い出す。
刺し違える覚悟でカインに特攻し、臓物をぶちまけて寝込んだのは、もう一ヶ月以上も前のことだ。あれだけ忘れるはずがないと思っていた記憶も薄れてきているのだから、蓋し時間というのは恐ろしいものである。
身の安全を度外視した行動を取り、結果として多くの人間に多くの迷惑をかけた。全てがうまく終わったからよかったものの、一歩どころか半歩でも間違えたらあの世まで直行だ。
二度目にも関わらず同じようなことになっているあたり、どうやら全く成長していないらしい。枕元で眠りこけていた姉になんと言われるか、想像しただけでも胃が締め付けられるというものだ。
だが。今のこの状況には、前回と明確に異なる点がある。
終わっていないのだ。まだ、何も。
事件の黒幕も、星皇祭の決勝も、水無坂の結末も。何ひとつとして、エンドマークをつけるには至っていない。
俺には与えられた責務がある。最後まで滞りなく、やり遂げなければならない仕事がある。
課せられた仕事の期間は、「星皇祭の期間中」だ。未だ終わっていないものを、勝手に放り出すなど以ての外だろう。
であれば。それが終わるまで、この身体を休ませてやるわけにはいかない。
「……何を、しに来たんですか」
「見りゃわかるだろ? 楽しい楽しい雑談だよ。お茶請けもあるとなお嬉しいんだがな」
間に合った。
心中に生じた安堵を塗り潰し、ひりつく喉から精一杯の虚勢を捻り出す。
奇跡のようなその光景を前にして、しかし不敵に唇の端を釣り上げる。ようやくスタートラインに立ったというのに、ここで情けない顔を晒してなるものか。
亀にも劣る速度で、壁伝いに這うことすらやっとの状態で。それでも、ギリギリで交渉のテーブルに辿り着いた。
賭けは既に始まっている。戦うために必要なものはたったふたつ、無理を無理のまま押し通すハッタリと、それを可能にするクソ度胸だけだ。
「ふざけないでください。……第一、今の貴方の状態で、動いていいはずがない」
「分かってるなら話は早い。俺もこう見えて限界だからな。手短に済むなら万々歳だ」
驚愕。反発。その他諸々の感情が入り混じり、揺れる声の中にマーブル模様を描く。
ここ最近の水無坂はやたらと表情豊かだが、にしても今回のは特級品だ。この顔を拝めただけでも、無理を押して来た甲斐があったというものだろう。
彼女の言う通り、今の俺は立っていられるだけでも奇跡に近い。あるいは生きていることさえ、黒幕側にとっては想定外なのではないかと思うほどだ。
腕、動かない。脚、動かない。思考回路には絶え間ないノイズが走り、五感は悉くがスクラップ同然の有様だ。
息を吐き出すたび、魂の何割かが削られているのではないかと錯覚する。一瞬でも意識を手放してしまえば、そのまま二度と戻ってこなくなるのは疑いようもない。
……ああ、それだけだ。
何も問題などない。職務の遂行に、一切の支障は出ないのだから。
「悪いが、止めさせてもらうぞ。あんたに今動かれたら困るんでな」
「これから試合の人間に、動くなと言う方がおかしな話でしょう。貴方が抜けたぶんの警備も、きちんと穴埋めは成されています。スタジアムまでの僅かな距離で、警護されている人間を襲うような杜撰な犯人ならば、ここまで貴方たちが苦しめられているわけはないでしょう?」
捲したてるような早口は、露見してしまった揺らぎを押しとどめたいが故か。
本心を覆い隠すようにして、装われた言葉が幾重にも折り重なる。硬直したその声が、殊更に頑なな調子を伴って耳朶を打つ。
糊塗と弥縫の中心点、その核心を成しているもの。それは、水無坂という人間の意地に他ならない。
「これから試合、か。俺の認識が正しければ、晴れ舞台のはずなんだが……どうも、そんなわけにはいかないらしいな」
……そう。いわばこれは、虚勢の張り合いとでも呼ぶべきものだ。
お互いの状況がどうなっているかなど、今更確認するまでもない。そんなものは百も承知の上で、俺たちは向かい合っている。
思考を、口調を、身振りを、死に物狂いで振り絞れ。使えるものを使い尽くして、水無坂が纏う虚勢を引き剥がせ。
昨日言えなかった「答え」を、ここで。そのために、俺は今この場所にいる。
「……何の、話を」
「さあ? ただの直感だ。だがな、これから晴れ舞台で試合に臨むつもりの人間は、少なくともそんな顔はしない」
話すことはおろか、立つことさえもままならない。壁に身を預けていなければ、身体はとっくにバランスを失って崩れ落ちている。
自分が脈絡のある思考の元に動いているのか、それとも突拍子もない発言をしているのか。それすらも朦朧とした世界に消えゆくまま、ただ気力だけでもって立ち続ける。
「結果を出すために、あんたはここまでやってきたんだろう。ずっと積み上げてきたものを、こんなつまらない相手のために捨ててやるつもりか?」
「昨日も言ったはずです。私は——」
「ああ、知ってる。だからこそだ」
力ない反発を途中で遮り、なおも喉奥から言葉を引きずり出す。
水無坂の行動理念と、その奥底で燻っている彼女の核。それを知った今だからこそ、彼女の行動をある程度読むことも可能になる。
いくら水無坂とはいえ、決勝を控えた身でそう易々と動けるはずがない。完全にフリーだった一昨日はともかく、今日この時間にノープランで動こうとするほど、正常な判断力を失っているわけではないはずだ。
犯行予告時間は正午、決勝戦の開始時刻と重なっている。犯行の具体的な場所や標的も一切書かれていない上、向こうが前回のようなわかりやすい行動を取るとも考え辛い。
運勝負といえば聞こえはいいが、その実賭けとして成立してすらいない。能動的に動いて犯人を見つけられる確率など、文字通り鼻で笑われる程度のものだ。
勝負の席に着いた時点で、水無坂の負けは決定してしまっている。犯人の捜索に時間を空費し、決勝に間に合わず不戦敗になる……そんな下らないシナリオ通りに動くほど、水無坂という女は甘くない。
だが。それだけの条件下にあって、水無坂は尚も動き出した。
だとすれば——その理由は、考え得る限りたったひとつ。俺が把握していない、未知の要因が絡んでいるからに他ならない。
それは、何の根拠もない「仮定」ではない。これまでの情報をすべて使った、紛れもない「確信」だ。
決勝戦に出場できないこと。それは彼女の追い求める「結果」、そのすべてを自らドブに捨てる行為に等しい。
……となれば。最低でもそれに見合うだけの餌を、犯人がぶら下げていることになる。
考えろ。必要なのは発想の逆転だ。
水無坂が乗ってくるであろう条件を、乗らざるを得ないほどの条件を逆算しろ。それを突き止めることが、この場における第一歩だ。
100パーセントの罠であることを大前提とした上で、それでも彼女を揺らがせるだけの大層な釣り餌。現にそれが存在しているからこそ、水無坂はこうして動こうとしているはずなのだから。
「犯人から案内状でも受け取ったか? 二人だけで勝負をつけるための決闘場を用意します、とか、そんなことでも書いてあったりしてな」
「…………っ」
なるほど。当たるとも遠からず、か。
何事か言おうとして、しかし言葉にできないような水無坂の反応。咄嗟の反応が遅れたその顔に、この方法で間違いはないと再認識する。
人を弄び、劇場型犯罪の真似事をしている黒幕。そんな人間にとって、水無坂は極上の玩具として映るはずだ。
歪んだ正義感と使命感を振りかざし、悪を糾弾せんと燃えている。愉快犯を封殺する最も適した反応が無視だというなら、自分の行動に逐一反応を返してくれる彼女は、最高のファンだと言っても過言ではない。
二度目の犯行予告に注目が集まったところで、水無坂だけに個別のメッセージを送る。決着をつけるためだの何だのと適当な理由をつけ、場所と時間を秘密裏に指定すれば、黒幕は簡単に彼女を釣り出すことができるというわけだ。
もちろん。水無坂自身も、そんなことは承知の上だろう。
犯人の掌の上で踊らされていることも、その誘いに乗ることの危険性も。その全てを理解した上で、それでも——それでも、彼女は必ず動く。
犯人の居場所が、仮初にでも分かっている以上。彼女にとって、動く以外に選択肢などないのだから。
その判断は、彼女の根幹から生まれ落ちたもの。
一度でも、それを否定してしまったら。水無坂という存在は、きっとその姿を保てない。
「……だったら、どうするんですか」
「止める、ってさっき言っただろ? そうでもなきゃ、瀕死の人間がこんなことしてる理由なんか見当たらない」
震える声を前にして、消えそうな意識の灯火に薪を焚べ続ける。
ここが正念場だ、血を吐いてでも口を開け。肉体と精神に鞭を叩き込み、飛びかけた意識をぶん殴って引き戻す。
「関係、ないでしょう。貴方にそこまでされる謂れも、縁もありません。私と貴方はただの他人です。何の関係性もない赤の他人に賭けられるほど、貴方の命は安いのですか」
「……関係、ね」
相対するのは、至極尤もと呼べる問いかけ。
震えさえも帯びた声が、鈍い頭に突き刺さる。
関係、と言われれば確かにそうだ。友情、利害関係、貸し借り、どの言葉もこの関係性にはふさわしくない。
俺の命を助けたことなど、彼女からすれば物の数にも入っていない。あるいは、それを貸しと呼ぶことは、彼女の誇りが許さないのか。
誰かの命を助ければ、その行動が評価されるかもしれない——そんな打算で助けた相手に、借りなどという名目で手を差し伸べてもらいたくはない。水無坂のことだ、どうせそんなことを考えているのだろう。
……ああ、本当に。面倒臭いことこの上ない、極め付けの自分勝手さだ。
「生憎だが、関係ならある」
ずっと、水無坂という人間に振り回されてきた。
その自分勝手さに、傲慢なほどの意地に。文句のひとつも通り越して、いい加減に辟易する頃合いだ。
「俺はあんたの専属警備だ。この大会が終わるまでは、な。そういう話だったはずだ」
だから。
最後くらい、俺の勝手を押し通させてもらう。
完全な我儘と、100パーセントの私利私欲で。
俺は今から、水無坂という人間の根幹を——
——否定する。
「信頼しろとは言わない。ただ、信用しろ」
喉が焼け付こうが、意識が飛びかけようが。
為すべきことを成すために、そんなものは言い訳にもならない。
「交換条件だ。あんたは俺の実力を見込んで、専属警備なんてことをやらせたんだろう? だったら、その判断を信用しろ。必ず、それに見合うだけの『結果』を出してやる」
必要だと言うのなら、いくらでも火に焚べてやる。
今この瞬間、彼女の前に立ち続けられるのならば。俺の身体のひとつやふたつ、対価としていくらでも持っていけばいい。
「俺もあんたを信じる。あんたの努力を——結果を出すためにあんたが重ねてきた、その『努力』を信用する」
どれだけ苦しんで、どれだけ絶望したか。そんなことが、本人以外に分かるはずもない。
両親から課せられた軛も、そこに付随する歪な執着も。およそ親という存在に覚えがない俺にとっては、まるで理解できないものだ。
だが。その絶望の中で、彼女が積み上げてきたものなら知っている。
彼女にとって、その動機がどれだけ唾棄すべきものだとしても。
死に物狂いで積み上げられた、嘘偽りのない努力。執念と言ってもいいほどのその過程が、蔑ろにされていいはずがない。
「っ……そんな、ことに。何の、意味があるのですか——そんなものを信じても、何も得られるものは存在しないんです」
その言葉は、およそ水無坂という人間の喉から発せられたとは思えないほど。
不規則に揺れる声が、切れ切れに伝わる思いの丈が。追い詰められた少女の心を、これ以上ないほど克明に曝け出す。
「いくら努力を称えたところで、実績に繋がらないものなど何の価値もありません。違いますか」
疑う余地など何処にもなく、魂の根底から放たれた言葉。
消えることのない呪縛は、もはや水無坂という存在そのものだ。生き方を規定し、人格を染め上げてしまうほどに、彼女の中に根深く息衝いている。
「——だったら、俺が価値を与えてやる」
だから。
この言葉は、きっと残酷なものなのだろう。
俺の言葉に、水無坂が確かに目を見開く。揺れる視界にちらつく表情が、そこに宿る感情の正体を描き出す。
「あんたの努力には価値がある。……少なくとも、俺にとってはな。そうでもなけりゃ、信用なんてするはずがない」
『結果』ではなく『過程』に目を向ける。その行為は、彼女の指針とはおよそ相反するものだ。
ずっと結果だけを求められ、今もなお必死に応えようとしている。そのために生き、それ以外の選択肢などない彼女に対して、俺は今これ以上ないNoを突きつけている。
どのような形であれ、どのように取り繕った言葉であれ。唯一にして最大の、彼女の存在意義——それを、真っ向から否定していることに違いはないのだから。
その上で、それでも。
それでも、だ。
「……その『結果』が、望ましいものにたどり着けなかったとしても?」
「それが望ましいかどうかは、あんた自身が決めることだ。今までの積み重ねを言い換えただけのものに、元より良いも悪いもない。……ただ、それを無価値にはしたくない」
無駄にしたくない。無価値にさせたくない。そんなもの、所詮は俺の勝手なエゴでしかない。
他人の行動に価値をつけるなど、この上なく身勝手で傲慢だ。己の尺度で「良いもの」を断じること、「良い結果」を求めること、そこにどれほどの違いがあるかと問われたら、きっと答えに詰まってしまう。
……それでも。彼女の選択を、判断を、努力を。
傷だらけで走り続けてきたその証左を、どうか。
気紛れで、浅はかで。もしかしたら明日の朝には後悔しているような、そんな感傷だとしても——。
今、この瞬間だけは。何よりも自分勝手に、そう願うのだ。
「…………貴方のその状態で、まともに歩けるとは思えませんが」
「舐めてもらっちゃ困るな。俺がここまでどんなテンションで来たと思ってる? 野暮用がひとつ増えようが誤差みたいなもんだ」
小粋なジョークを飛ばそうとするものの、思いの外強情な表情筋はまともに動こうともしない。
こんな時くらい空気を読んで欲しいものだが、どうも主人に似て怠け癖がついているらしい。ぎこちない笑顔のひとつも返せず、唇の端を無様に釣り上げる。
「——ふふ」
「……あん?」
「いえ。……貴方でも、そんな冗談を言うことがあるのですね」
「お前は俺の何を見てきたんだ……」
こちとら八割が欺瞞と冗談で構成されてる人間だぞ。身体は欺瞞で出来ている、言葉にするとやたらとかっこいいから困る。ちなみに残りの二割はお砂糖か不思議な何かの二択だ。
珍しく——本当に珍しく。水無坂が頰を綻ばせ、柔らかい笑みをこちらに向ける。
あまりにも予想外なその姿を、どう形容していいのかもわからない。
美しい、などと陳腐な表現をすれば、それこそ当人に鼻で笑われてしまうだろう。
……ああ、それでも。
どうしてか。まったく同時に、確信を抱くことができた。
目の前の笑顔が——これこそが。紛れもなく、俺が見たかったものなのだと。
「話は終わりですか? では、私はこれで。試合の準備をしなければいけませんから」
「……おい」
感傷に浸る俺を差し置いて、水無坂は何事もなかったかのようにくるりと背を向ける。
照れのひとつでも見れせば可愛げもあるだろうに、もうとっくに平常営業だ。サービスの時間は終わりだとばかりに、引っ込んだ笑顔は二度と出てくることはない。
「専属警備の仕事を果たすのでしょう? あれだけ啖呵を切ったのですから、それに相応しい行動をしていただかないと。もちろん、今になって怖気付いたというのなら話は別ですが」
呆気にとられる俺を尻目に、水無坂は当然のごとく椅子に腰掛ける。
何やらペンを走らせる彼女の姿の何処にも、先程までの弱々しい影は見当たらない。通常運転もそれはそれで可愛らしく見えてくるあたり、間違いなく俺も相当に手遅れだ。
「犯人から指示された場所と時間です。行っても何もない、という肩透かしの可能性は否定できませんが……今の貴方であれば、そちらの方がありがたいのでは?」
「吐かせ。精々が金銀飛車角落ちくらいの軽いハンデだ」
「では、何も問題ありませんね。ちなみに、約束の時間まであと10分もありませんが」
「っ、この……」
こいつ、本当に最後まで……前言撤回、何も可愛らしくなどない。
咄嗟に何か言い返そうとするものの、今となってはその時間すら惜しいレベルだ。いや、自己管理能力がない俺が一番悪いんですけどね?
一向に従わない身体を引き摺り、強引に扉の前から足を反転させる。これだけの作業すら思うようにいかないあたり、目的地に到達できない可能性も与太では済まなくなってきた。
ボス戦前にこれだけのデバフ撒いてくる敵、ゲームにしたら確実にキレられること間違いなしだ。動くことにいくらか慣れてきたフシはあるものの、それでも体力的に相当厳しいことは疑いようもない。
「……信用、しましたから。二言は聞きませんよ」
「こっちの台詞だ。すぐに終わらせてやるよ」
背中を小突く声に、振り返らないまま言葉を返す。我が事ながら、随分とフラグ臭い別れもあったものだ。
俺には俺の、水無坂には水無坂の。お互いにやるべきことなど解りきっている。
一丁前にどうたらこうたらと喚き散らしたのだから、その責務はきちんと背負わなければならない。いくらハンデがあろうと、水無坂の前では死んでも弱音など吐いてやらんことに決めている。
俺は水無坂を信用する。それ以外に考えるべきことなど、何ひとつたりとも必要ないのだから。
「試合、観ててください」
「おう」
さあ、決着の時だ。
長い長い犯人との鬼ごっこに、今日でケリをつけるとしよう。
その言葉を紡いだ彼の心のうちに、何があったのか。
その言葉を聞き届けた彼女が、何を思ったのか。
正確なことは、きっと最後までわからないのかもしれません。
でも、きっと。
それは紛れもなく、彼女にとっての「答え」でした。
皆様のおかげで、この物語の最初の目標に至ることができました。
ここまで読んでいただいた貴方に、心よりの感謝を。
次回は可能であれば明日、23時ごろ投稿予定です。間に合わない場合は月曜23時に投稿いたします。
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