2-30/フェーズ4:矜持
7月29日。個人戦の決勝が始まるまで、あと——。
息を吸う。吐く。
もう一度。平常心を失わないよう、強く、強く。
震える空気はその存在を控えめに主張するものの、留まり続けることは決してない。形すらも曖昧なまま、立ち込める緊張の中に消えていく。
目を閉じれば、無数の感情が渦巻いている。
過ぎたことへの後悔。この先に待ち受けるものへの不安。それらは鋭利な刃のように、思考を間断なく責め立てる。
………でも。何よりも許せないのは、言うまでもなく己自身の不甲斐なさだ。
いくら思考を巡らせようと、起きた事実が覆るはずもない。
それでも考えずにはいられないのは、そこに果てしない悔恨が付きまとうがゆえのこと。
あの時。僕が、襲撃者の存在に気づけてさえいれば。
想起される光景は、何度思い返したもわからない。もう1日が経とうとしているのだから、この記憶がテープならとっくに擦り切れているだろう。
「…………」
いざという時は、その身を挺してでも選手を守る。いかにアルバイトとはいえ、それが僕たちに課された役目のはずだ。
その警備員が、あろうことか同じ警備員に庇われ、自分は無傷でのうのうとしているなんて——言い訳の余地なく、あまりに無様が過ぎている。
怠慢。紛れもない、僕自身の怠慢が、この状況を作り出してしまった。
「……っ」
わかっている。こんなもの、都合のいい感傷だ。
自己嫌悪という名の悦に浸って、やるべきことから逃げているだけ。そんな暇があるなら、少しでも成すべきことを成さねばならない。
唇を噛み締めても、拳を握りしめても。何をどうしようと、終わったことは変えようもないのだから。
「だから——」
だから、せめて。これから起こることだけは、必ず止めてみせる。
個人戦の決勝が始まるまで、残された猶予はあと一時間弱。それはとりもなおさず、犯人の予告した時間が近づいていることをも意味するものだ。
俊が予想し、また危惧した通り、水無坂さんは獅子奮迅の闘いぶりで決勝に駒を進めている。どれだけメンタルが乱れていても、そこを言い訳にせずに結果を出すのは彼女らしいけど……今回に限っては、それがプラスの方向に働いているとは言い切れないのが辛いところでもある。
……もっとも。特例処置で護衛に引き抜いた人間が昨日の今日で倒れたとあっては、さすがの彼女も衝撃を受けずにはいられなかったらしい。
試合直後に息急き切って医務室に飛び込んできたことからしても、その驚愕は本物だと断言できる。彼女があそこまでの焦りを見せたのなんて、僕の知る限りじゃ初めてと言っていい。
俊が受けた傷、それ自体は軽微と呼んでいい程度のものだ。医療班の手にかかればものの数分で治療してしまうであろう、言ってしまえば虫に刺されたような傷に過ぎない。
でも。たったそれだけなら、彼があれほど必死に僕を庇うはずがない。
俊に突き刺さった暗器、その先端に付加されていたのは、医療班でも治療が難しいほどの毒。それも『星の力』に由来した産物なのか、能力を使用した解毒行為に対しても高い耐性を有している隙のなさだ。
これまでに確認されているどのような能力産の毒とも違うのか、未だ有効な治療法は見つけられていない。幸いなことに即死するような代物ではないらしいけど、予断を許さない状況が続いていることは誰の目にも明らかだ。
十二宮か、それに比肩しうる強大な能力か。いずれにせよ、これだけの毒を作り出すのは、最低でも十二宮クラスの実力がなければ不可能だろう。やり方次第では、こちらを一人で殲滅できるほどの戦力であることは疑いようもない。
……しかし。しかし、だ。
単純な話。それほどの人材が手駒のうちにいるのであれば、黒幕は躊躇せずにその強みを行使していたはずだ。
毒と透明化のふたつで簡単にパーフェクトゲームを達成できるのに、わざわざ出し渋る理由がない。犯人が今の今まで毒による攻撃を仕掛けてこなかったことを鑑みるに、この手札を切るのは向こうからしても相当の決断だったんだろう。
使える回数に明確な限りがあるか、あるいは使い切りアイテムのような形で外部から与えられたのか。何れにせよ、一発限りの隠し玉であった可能性が非常に高い。
どのような交渉術を駆使したのかはさておくとして、黒幕は強力無比な武器を手に入れた。最後の切り札、虎の子である毒を、彼は計画の邪魔者である僕を排除するために使用し——しかし、俊というこれまた予想外の存在によって阻まれてしまった。筋立てとしてはこんなところか。
下手人は例の透明化、恐らくはカメレオン座あたりの能力者。その場に何も残っていなかったことから考えても、犯行に用いられた道具が神器であることは明白だ。
狙いを外した瞬間、深追いもせずに潔く撤退する判断は、敵ながらあっぱれな手際だと賞賛するしかない。恐らくは黒幕の意向なのだろうけど、狙いを外しても逆上しない判断力は間違いなく本物だ。
……でも。撤退を決め込んだことは、逆に言えばそれ以上の隠し玉がないことを自ら暴露したようにも取れる。
このまま強襲しても、決定打を与えられない。彼我の戦力差を理解しているからこそ、彼は撤退という選択肢を選び取ったのだから。
手駒と切り札を失った今、追い詰められているのは黒幕の側も同じなはずだ。
今日、この機を逃さずに決着を付けなければ、いつ破滅的な行動にシフトしないとも限らない。失うものがない人間の恐ろしさを見誤れば、痛恨の最後っ屁を貰うことになる。
「……これで終わらせないと」
刻一刻と進む時間を前に、揺蕩う思考が彼方へと飛ぶ。
昏睡状態にこそ陥っているものの、俊の容態自体は意外にも安定している。バイタルに大きな乱れもなく、夢を見ているのかと思うほどだ。
僕が見舞いに行った時には、葵さんが沈痛な表情で枕元に佇んでいた。気丈に振る舞ってはいたけど、都合4回目の弟の危機に対して、あれだけ外聞を取り繕えているのは奇跡と言っていい。
合わせられる顔も、かけられる言葉も。あの人に対して、今の僕は何ひとつ持ち合わせていない。
葵さんのために——そして何よりも、僕を庇った俊に報いるために。僕が為すべきは、与えられたこの役目を必ずやり遂げることだけだ。
「話はつけてきた。ま、なかなかどうして様になってる作戦じゃない? 少なくとも、人員を動かすだけの価値は十二分にある」
「間違ってはいない、はず。……致命的な読み違いをしてる可能性もあるし、そう上手くいくとは限らないけど」
「その時は俺の首が飛ぶだけさ。自分で立てた作戦、自分が信じなきゃ始まるものも始まらないでしょ。雨宮ちゃんに顔向けするためにもね」
珍しく中折れ帽を被っていない鬼島さんが、諭すようにそう口にする。
「作戦」。ここまでの情報を統合し、仮説と推論を重ねた末にたどり着いたそれは、僕が今できる全てを結集させたものだ。
「……分かってるよ。必ず」
決行までは残り数十分。人員の配置も、やるべき事柄も、全ては頭に叩き込んだ。
上手くハマれば——いや、十中八九、黒幕を炙り出せる自信がある。悪辣な犯人の尻尾を捕まえるために、これ以上に見込みのある方法はないと言ってもいい。
……ただ。
思考に居座り続けるのは、それでも拭いきれない黒い点。それは僕がカバーしきれなかった、この作戦における穴そのものだ。
たったひとつ。
この作戦にはひとつだけ、いまだに攻略できていない問題点が——
「……え?」
その時。
胸元で振動した携帯は、間違いなく偶然の産物だ。
タイミングも、裏に存在するその意図も。あちらが勝手に行動を起こしただけだと、少しでも考えれば自ずと理解できる。
都合のいい感情であることなど理解の上だ。顔向けできない、と言ったはずの人間を相手にして、舌の根も乾かぬうちに期待をかけるなんてこと、普通なら許されるはずもない。
いつ倒れてもおかしくない、どころか起きていることすら奇跡の人間。そんな彼を相手に、一方的に望みを抱くなどもってのほかだ。
「どうした?」
それでも。
最後のピースが、その名前を見ただけで綺麗に嵌まり込む。
「……何も。でも、これでもう大丈夫」
信頼か、信用か。
今この瞬間、僕が抱いたその感情は、きっとそういう類のものだ。
彼に伝えようものなら、きっと胡乱げな顔をして受け流されてしまうだろう。根拠としてして振りかざすにはあまりにも不十分な、曖昧で脆弱なものに過ぎない。
無機質な液晶の表示は、何の感情も宿してはいない。ただ端的に、その電話の主だけを告げている。
だから。柄でもないけど、僕も端的に返すことにしよう。
どんな状況、どんな環境に置かれていたとしても。彼はきっと、為すべきことを成し遂げるはずだから。
「——了解。こっちは任された」
# # #
腰を上げる。本戦まではあと一時間、用意するにはまだ早すぎる時間だ。
例の犯人が出した犯行予告は、またしても正午きっかりを指していた。何をするつもりかは知らないが、おかげで警備員の人たちの緊張は前にも増して高まっている。
ピリついたこの空気の中を抜け出そうとすれば、今度こそ叱責は免れないだろう。事と次第によっては、それ以上に大事になるかもしれない。
……いや。
いいや。だとしても、構うものか。
一瞬揺れた心を、形のない大きな腕が強引に押さえつける。
身体を拘束し、今にも握り潰さんとする巨大な掌。それは紛れもなく、己自身が積み上げてきた在り方そのものだ。
こんなものを突きつけられて、お前は見過ごしておけるのか?
——否。断じて否だ。こんなもの、許しておけるはずがない。
それが、個人を狙った卑劣な罠だったとしても?
——それでも。どうしても、看過できない。場外で策謀を巡らせるような、そんな卑劣なやり方は、絶対に。
それは、自問自答ですらない。分かりきっている問題を、もう一度自答しているだけのもの。
だって。それを認めてしまったら、あとはもう、何もなくなってしまう。
正面だけを向いて、ひたすらに足掻いて。覆ることなどないと知っていても、前へ前へと進むしかなかった。
何もかもを取り落として、それでもせめてと、必死に持ち続けてきた誇り。それすらも、捨て去ってしまうことになるのだから。
「…………」
口元が歪むのは、滑り落ちてきた思考があまりにも滑稽だったからだ。
「誇り」。……誇り、などと。
今になってまだ、そんな浅ましいことを考えているなんて。
誇りがあるから、捨てるわけにはいかない。此の期に及んでなお、そんな言い訳を重ねる自分自身に、いい加減に嫌気が差す。
捨てるわけにはいかない、のではない。捨てられないから、この他の在り方を知らないから——こうしなければ、自分が自分であることの証明すらできなくなってしまうから。
誇りなどという言葉に縋って、消えかかっている何かを繋ぎ止めているだけ。認めたくない、という子供じみた理由で、もはや自分の中にしか存在しない虚像を後生大事にしまい込んでいるだけだ。
醜くて、愚かで、浅はかで。その事実すらも直視できずに、ひたすらに過ちを積み重ねる。
これ以上ないほどに、どうしようもなく救えない。矮小な「私」という存在こそ、この己を形作る全てだった。
だから、いかないと。
呟いた言葉が、誰に聞こえるともなく消えていく。
何が待っているとしても、己自身の「誇り」のために。ここで背を向けることなど、初めからできはしないのだ。
11時10分。そろそろ、頃合いだ。
彼が倒れたことで、専属警備の人員は抜けた穴を埋めるように変更されている。決して軽んじているわけではないが、適切に動けば撒くこともそう難しくはないはずだ。
「実力に信頼がおける」と太鼓判を押した人間が、翌日にはこの重体になることなど、さすがに想像のしようがなかった。魚見くんを庇って重傷を負ったあたり、その見立て自体は間違っていなかったのだろう。
……彼はきっと、こうすることを望んでいないはずだ。昨日の眼を見れば、それくらいのことは容易に理解できる。
自分の根幹に関わる話を誰かにすることなど、終ぞ考えたこともなかったはずだ。それなのに、気付けばあんな話をしてしまっていた。
昨日、どうしてあんな話を彼にしてしまったのか。どうして、彼はあんな顔をしていたのか。
その回答を出すことが——その解答を、聞くことが。
きっと、怖い。
「……っ」
後ろ髪を引かれるような感覚を、しかし強引に振り解く。理由も資格も持ち合わせていない人間が、そんなものに囚われていいはずがない。
靴紐を固く結び、冷たいドアノブへと手を掛ける。
今の心境と相反するかのように、不自然なほどに軽いそれ。一歩を踏み出そうとしたまさにそのタイミングで、しかし身体は外側に引っ張られていた。
「——!」
扉に体重を預けたその瞬間に、外にいた誰かが扉を開けようとしたのだと。
瞬時にそこまで判断し、身を強張らせて臨戦態勢に移る。
そして。
「……よお、元気そうで何よりだ」
開け放たれた扉の、その向こう。
——「彼」が。
いつ崩れ落ちてもおかしくないはずの、満身創痍の雨宮俊が。
不敵な笑みを浮かべて、ただ一人で立っていた。
長い長い紆余曲折、全てはこの瞬間のために。
次回は明日、23時ごろ投稿予定です。諸事情あって立て込んでいるため、一日後ろ倒しになるかもしれませんが、寛大な目でお許しいただければと思います。
感想、評価等、いただけると励みになります。よろしくお願いします。