2-29/フェーズ3:コーヒーを一杯、それと
秘された過去は、誰のうちにも。
さて。
いやね? あの告白は確かに衝撃的でしたよ? ええ、もちろんですとも。
……ただ。どれだけ衝撃的だったからといって、それが仕事を投げ出す理由にはならないわけで。
水無坂の置かれた状況を聞いたはいいものの、さりとて今の俺に何ができるわけでもなく。
ろくに会話もできないまま、気まずい空気だけをひたすらに味わい続けること数時間。ひりつくような地獄の後、ようやく彼女にとっての本番——個人戦の予選が始まる時間に至ったのである。
いかな専属の警備員といえど、さすがに試合中は何ができるわけでもない。そも、試合の行われるスタジアム中心部にはまた別に警備隊の面々が詰めているため、俺なんぞが行っても邪魔になるだけだ。
俺が一介のアルバイターでしかないという事実、水無坂は完全に忘れ去っているのではなかろうか。この考え方でいけば、俺の能力を一番高く買っているのが他ならぬ彼女という図式になるのだから、これほど面白いこともない。
とにかく。試合を含めた小一時間ほどは、否が応でも手隙の時間帯になるのである。
……そして、だ。当然、空いた時間に別の仕事をするほど、俺が勤勉な人種というわけでもない。
朝から胃もたれするような会話を繰り広げた身としては、休憩の時間はあればあるほど良いのだ。仕事よりもよほどやる気になれるのだから、休憩しているだけで給料をもらいたいくらいなのである。
仕事は無ければ無いほどいい、ビバ職務放棄、サボタージュ万歳……等々。警備員にあるまじき信念を標榜しつつ、昨日もお世話になった休憩スペースへと足を運んだわけなのだが——
「うーわ。高っけえ」
いかにもオブジェクトのひとつです、私めに何ら特殊な点はございません……そう言わんばかりに、控えめな自己主張をする一台の自販機。
しかし。そこに表示されたお値段は、控えめと言うにはあまりにも度がすぎていた。
なんと驚き、缶コーヒー1本で180円。なぜこれほどまでに生々しい金額なのやら……遊園地じゃねえんだぞここは。
開き直って400円とかなら諦めもついたであろうに、学生の足元を見た値段設定が実に図々しい。なんなら図々しいを通り越して腹が立って来る始末だ。
昨日は振本さんに金を出してもらったために気付かなかったが、蓋を開けてみればここまでのぼったくり自販機だったとは。今になって申し訳なさが襲ってきたというか、なんなら今から金を返しに行くまである。
……だが。どれだけ悪態をつこうとも、他に買うアテがないのだから仕方がない。
なけなしの千円札を溜め息と共に捩じ込むと、程なくしてブラックの缶が転がり落ちてきた。
専横というに相応しいぼったくり、均衡価格も何もあったものではない。たった一本、180mlかそこらの缶コーヒーが180円、もはや量り売りが成立してしまうレベルである。
いっそ一口いくらになるか計算してやろうか、いやそんなことしたら余計に虚しくなるだけか。そんなことを考えながらも、硬めのプルタブに手をかけようとしたところで——
「あ、僕微糖ね」
「自分で買え」
背後から背筋を撫でるその一言に、振り返ることなくおざなりに返事をする。
物陰から見計らっていたと、そう言われても信じられるほどのジャストタイミング。故意犯と言われても信じられるのだから、蓋し日頃の行いというのは恐ろしいものだ。
最後に顔を合わせた時から、数時間しか経っていない。にも関わらず、やたらと久方ぶりに聞いたような気がするのは、それだけ今までの体験が濃密だったせいか。
追加で落ちてきた缶を腹立ち紛れに投げ渡すものの、対する魚見はそれを危なげなく掴み取る。
そうやって如才なくこなすから、なおのこと腹が立つんだよなあ……顔面に当てたらボーナス点とかないの?
「おっと……随分と乱暴だなぁ。お付きの騎士様がそんな調子でいいの?」
「喧嘩売ってんのなら買うぞ?」
「冗談だって。はい、これ120円ね」
「表出ろお前」
中身も何もないやり取りを交わし、例のごとくソファにどっかと腰を下ろす。
半分ほどを一気に流し込むと、自分でも驚くほどに深い溜息が口から溢れ出した。なんならそのまま魂抜けそうだな……英雄は一度死んで蘇らない、それはもはやただの死体だ。
「ほい、60円。で、どう? 姫様の相手は」
「どうもこうもねえよ……ワガママお嬢さまの護衛とか、テンプレ中のテンプレだろ。どうなるかなんて教科書にも書いてあるレベルだぞ」
「その教科書は一回校閲したほうがいいと思うよ……」
じゃらじゃらと受け渡される小銭と引き換えに口にするのは、この上なく無意味な小言の類だ。
我ながらバカバカしいとは思いつつも、こうでもしないとやってられないのである。要約すれば「進捗ダメです」の一言で済むのだが、それだけでは収まりがつかないのが人情というものなのだ。
「それより、お前の方こそ大丈夫なのか? 俺が抜けたぶん、仕事とか微妙に変わってるんじゃないのか」
「ん〜……ま、警備の方は大丈夫なんだけどね。僕も僕で、警備以外の方が忙しくなってるっていうか——犯人の話とか聞いてる?」
「……いや。尋問はもうやったのか?」
が。
愚痴と世間話で終始するかと思いきや、返ってきたのは想定外に胃もたれする状況だった。
犯人の尋問。言うまでもなく、昨日の昼に大立ち回りを演じた襲撃者に関することだ。
昨日の時点で取り調べは行われたのだが、成果はどうにも芳しくなかったらしい。より深い情報収集を行うため、専門家——恐らくは、その手の能力を持っている人間だろう——に頼ると言う話だったのだが……その口ぶりからして、午前中に何らかの動きがあった、ということだろうか。
「あまり宜しい結果、とは言い難いけどね。どうにも精神操作系の干渉があったらしくて、記憶の所々に不自然な空白や欠落が生じてる。言うまでもなく黒幕さんの手によるものだろうけど、証拠隠滅までしっかり手が及んでるから、犯人に繋がる決定的な情報はさっぱり、ってわけ。ただ、和泉さんに対する感情だけは本物だったよ。……そこに付け込まれたんだろうけど」
よく冷えたコーヒーを手の中で転がしながら、頭の中を整理するように語る魚見。結果に対してさほど苦々しい顔をしていないのは、大なり小なり想定内の出来事ではあったからか。
まあ、これだけ慎重な相手がリスクヘッジを怠るとは思えないし、当然と言えば当然だ。犯行の理由だけは明確にしておくあたり、何から何まで「分かっている」手口である。
「結局、犯人はただの下請けか。和泉さんも災難だな」
「まあ、こんな大会だからね。人を負かして勝ち進む以上、誰の恨みを買ったって不思議じゃない。燻ってる人間をかき集めて、その感情に多少の方向性を与えてやれば、簡単に鉄砲玉の完成ってわけだ。黒幕さんもなかなか強かなもんだよ」
「じゃ、その黒幕については進展なしってことか?」
「進展がない、ってわけじゃない。うまくハマれば、あと一歩で王手をかけられる自信はある……けど、少なくとも、今の段階じゃまだ無理かな。誤認逮捕でした、なんてシャレにもならないし、こればっかりは確実にしておきたいから」
暗雲が立ち込める現状にあって、しかし魚見は顔を上げて虚空を見据える。
その視線は、黒幕の目星はついていると言わんばかりのものだ。
一連の情報を聞いてみても、俺には何が手掛かりになるのかさっぱりなのだが……どうもこいつには、全く別の景色が見えているらしい。もちろん、人を見ることに関しては妙に目端が利く奴であるし、その見立てに異を唱えるつもりもないのだが。
「昨日取り逃がした二人目のこともあるし、そう遠くないうちにまた犯行予告が出てもおかしくないんだよね。僕としては、むしろそっちの方がありがたいんだけど」
「……そのへんはお前やら大尉やらに任せる。正直、こちとらお嬢さまのお守りだけで一杯一杯だ」
意識から外れかけていた犯人の姿が、魚見の言葉によって再度浮かび上がる。
水無坂に振り回されているせいで忘れがちになるものの、襲撃者という目下の脅威は依然として残っている。それも透明化という、ある意味では一人目よりも厄介な存在だ。
犯行の手口やスタイルを鑑みても、例の気取った犯行予告が再び出される可能性は決して低いものではないだろう。分けても水無坂(と俺)は直接相見えているわけであるし、目をつけられていても何らおかしくはない。
……もっとも。犯人が未だ健在であるからこそ、こうして専属警備の真似事をしているわけなのだが。本来であれば、お嬢さまのご機嫌取りはあくまでサブオプションのはずなのである。本来なら。
「それで、本題だけど。そのお姫様の調子はどうなの?」
「……手負いの虎?」
「あー、博学才穎」
「その虎じゃない」
いや、別に間違っちゃいないが。臆病な自尊心だの尊大な羞恥心だの、今の彼女にはさぞ耳が痛いことだろう。
……もちろん、それで虎になって逃亡されても困るんだが。ただでさえ自ら恃むところ頗る厚く、の化身みたいな奴なのだから、この上逃げ出されたらいよいよもって打つ手なしだ。
「まあ彼女にとっちゃ、ずっと前から備えてきたものが台無しにされかかってるわけだからねぇ。気合いが入りすぎて空回ってる節もあるし、案外決勝を待たずに今日であっけなく、なんてこともあるかもよ」
「そうなってくれたらどんだけ楽か、って話だよ。犯人の手口にしろ、まだ隠し球があっても何ら不思議じゃないからな。決勝で狙われるようなことがあったら、面倒どころの話じゃなくなる」
景気のいい音を立てて缶を開ける魚見を横目に、よく冷えたコーヒーをもう一口煽る。
長いこと手の内で缶を転がしていたが、ようやっと飲む決心をつけたのか。そう思っていたのだが、不思議なことに一向に缶を傾ける気配がない。
何してんだこいつ、まさか缶の中身全部ぶっちゃかしたわけじゃあるまいな……そんな疑問を抱きつつ首を傾ければ、件の魚見はキョトンとした瞳をこちらに向けていた。
おい、その口が半開きになってるのやめろ。みっともないだろうが。
「へぇ……あぁ、はは、なるほどね」
「何だ気持ち悪いなやめろお前」
まだ何も言っていないが、とにかく腹立たしい事を考えていることだけはわかる。
反射的に口から罵倒が飛び出してしまったが、そこはそれ、日頃の行いの結果というものだ。己の行動を反省するいい機会なのだし、甘んじて報いを受け入れてほしい。
「いやまさか、君がそこまで水無坂さんに期待してるとは思わなかったから。てっきり嫌々やってるもんだとばかり……へぇ、ふーん」
「嫌々やってるに決まってんだろ。期待とか、そんな褒められたもんじゃない」
何に衝撃を受けていたのかと思えば、そんな下らないことだったとは。
純度100%のニヤケ面を見れば、少しでも頭を働かせてやったのがバカらしくなってくる。お前の行動にわざわざ割いてやったぶんの思考リソース、今すぐ返せ。
「そーお? にしては、随分と肩入れしてると思うんだけど。彼女、今のままじゃ相当危ういよ? 君は決勝進出を疑ってないみたいだけど、予選敗退だって十分にありうる」
「分かってるし、んな大層な感情でもないって言ってんだろ。お互いに信頼してる、なんて高尚な関係でもない」
気分を落ち着かせるため、残り少なくなった中身を喉の奥に流し込む。
最後まで飲み干したはずが、缶の底には未だ一口ぶんが残っている。正しく澱と呼ぶべきそれは、蟠って拭えない雑念そのものだ。
……そうだ。この感情は、信頼などという小綺麗なものでは断じてない。
俺が水無坂に対して抱いている感情。それは、魚見が思うよりはよほど不確かで、その上独善的なものなのだから。
そもそもの話。その実力を十全に発揮できるなら、水無坂にとって決勝進出など容易いはずだ。
期待も肩入れも関係なく、ただ純然たる事実として、彼女はそれに足る力量を持っている。客観的に見ても、大舞台でも十二分に活躍できる力と技があるのは言うまでもない。
逆に言えば。今の彼女を取り巻く問題が、その確実性を揺らがせているのだ。
ここで結果を出さなければ、今度こそ完全に見捨てられてしまう。「期待に応える自分」に戻るために、外れたレールの上にもう一度戻るために、この最後のチャンスに賭けるしかない——その強迫観念があるゆえに、彼女はずっと死に物狂いで足掻き続けてきた。
……だが。
その「努力」が見当違いのものであることなど、少しでも考えればわかるはずだ。
何も事情を知らなかった俺ですら、少し聞き齧っただけでも違和感を覚えたのだ。そんな事実に、聡明な彼女が気付いていないはずがない。
途中から、どころか一番最初から。行為の無意味さを嫌という程認識した上で、それでも水無坂は努力を積み上げ続けている。
止まらないのではなく、止まれない。走り続けることの無意味さを理解していても、走ることそのものを否定してしまえば、本当に何もなくなってしまうから。
「仮に負けでもしてみろ。……どうなるか分かったもんじゃないぞ、あれ」
外面だけを糊塗した台詞が、空の缶の内側で虚しく響く。
もし、水無坂が敗れたら。そんなもの、改めて問うまでもない。
ただひとつの拠り所にしていたものを、この上ない客観的事実で否定される。その時彼女は、今まで目を背け続けていたものに極大のツケを支払うことになるだろう。
張り詰めている人間ほど、ひと押しするだけで容易く壊れる。今の彼女など最たる例だ。
限界を超え、それでも引き伸ばされ続けた糸が、どんな末路を辿るのか。それを想像できないほどに、俺も察しが悪いわけではない。
抜け殻になるのならまだ良い。それすらも許されない、燃え滓ですらない何かになってしまえば、彼女はきっと戻って来られなくなる。
……まあ、要するに、だ。
その光景を、水無坂という人間が壊れて終わるさまを。
何となく、見たくないような気がした。
そんな救いのない結末を、どうにかして否定したいと——柄にもなく、そんなことを思ってしまったのだ。
「……そうだな、信用はしてる。少なくとも、実力に関してはな」
上から目線の同情を喜ぶ人間などいない。ましてや水無坂にとって、俺からの同情など大きなお世話もいいところだろう。
だから、きっと。
これは、俺の欲望だ。
負けて欲しくない。行き着く先に何も無かったとしても、せめてその努力は報われてほしい。
どれだけ歪でも、積み上げてきたことを知っているからこそ——走り続けてきた事実そのものまで、否定して欲しくはないのだと。
どこまでも手前勝手で、浅ましい欲望だ。それを満たすために、俺に割り振られた役目を全うしようとしているに過ぎない。
……自分で宣っておいてアレだが、らしくないどころの話ではないな、これ。
数日前の俺に言ったら鼻で笑われる、どころか解釈違いで切腹でもおっぱじめそうだ。おお、ハラキリ、ナムサン……星刻者のエントリーだ!
「へーぇ、君も案外人間臭いことを考えるんだねぇ。何も考えてないものだとばかり……大丈夫? なんか危ない薬とか飲んだりしてない?」
「逆に何だよその薬……自白剤か?」
真面目な顔で聞いていたかと思えば、返ってくるコメントはこのザマだ。ふざけないと死ぬ病気にでもかかってんのかコイツ……。
だいたい、俺より聡い人間を探す方が難しいのだ。飯の時間が僅かでも遅れたら拗ねる某駄姉のおかげで、そのあたりの空気を読む能力は鍛えに鍛えられているのである。昼飯で機嫌が悪くなる20歳児、改めて言葉にするとおぞましいことこの上ない。
「どうだかねぇ……ま、別に君がやる気になるぶんには、何も問題ないからね。サボり癖がついてるよりはよっぽど健全だよ」
「お前は俺を何だと思ってるんだ」
「うーん……物好き?」
お、やるかお前。戦争ならいつでも乗ってやるぞ。当方に迎撃の用意ありだ。
当たるとも遠からずなあたり、完全に外れているよりも余程腹立たしい。
物好きの自覚ぐらいあるんだよなあ……珍しくやる気を出す機会がこれなあたり、もはやそういう星の下に生まれていると言えるのかもしれない。
「ったく……」
ちびちびとコーヒーを呷る魚見を待つことなく、立ち上がって空になった缶をひと思いに投げ捨てる。
綺麗な放物線を描いた空き缶は過たずゴミ箱へと吸い込まれ、周囲に甲高い音を響かせた。投擲スキルが育っている気がするのは、最近やたらとモノを投げているせいか。
「おー、ナイスシュート」
「だろ? コントロールには自信あるからな」
「へぇ……の割には、水無坂さんの手綱は握れてないみたいだけど」
うるせえ、ほっとけ。
やけに切れ味鋭い魚見の声に、苦り切った言葉を返す。いついかなる時も俺への罵倒を忘れない精神、一周回って見習うべきなのかもしれない。
遠い喧騒を上塗りするように、残響と声とが混ざり合う。
束の間の休息を象徴するそれは、僅かに存在感を主張し、やがて世界に溶けて消えていく。
一瞬でも気を抜けば、眠気さえ感じてしまうような。停滞した時間と共に流れていくのは、およそ今の状況に相応しくない平穏だ。
……そう。それはあくまで、束の間の休息でしかない。
「——魚見」
「あぁ」
平穏、停滞。そんな時間が、そう長く続くはずもない。
携帯の振動は、開戦の合図を告げるがのごとく。
緩みきった空気を引き裂き、背筋を駆け抜ける緊張。交錯する魚見との視線に、一気に警戒の度合いが引き上げられる。
「……昼間のうちに来るとはね。いよいよもって怖いものなしって感じだ」
呟く魚見の表情には、しかし焦りのようなものはない。
目当てのものが早速届いた事実に、むしろ待っていたと言わんばかりに携帯を握りしめている。
「明日の12時、ね。……正午に拘りでもあんのか」
「どうだろうね。個人戦の決勝はその時間からだし、そこを意識してる可能性はある。もちろん、詳しいことは本人のみぞ知る、だけど」
白昼堂々届いたそれは、再びの「犯行予告」。
例によって芝居掛かった言い回しに彩られたそれは、こちらを翻弄する悪意に満ちている。
送られてきたもの、それ自体にさほどの驚きはない。来るべくしてきた、分かりきっていた脅威なのだから、当然と言えば当然だ。
時刻は正午、標的はひとり。もはや決まり文句のように添えられたその言葉が、二度目でもなお褪せない存在感を放つ。
手駒の一人を奪われたにも関わらず、その余裕は全く揺らぐことがない。愉快犯のクセしてそれなりの力量を備えているのだから、タチの悪さは相当なものだ。
「想定内、か?」
「というより、これでやりやすくなった、かな。もちろん、面倒なことに変わりはないけどね」
焦燥はなく、さりとて油断もなく。
お互い画面に目を落としたまま、感情を排した言葉だけを交わす。
魚見が予見した通り、黒幕は新たな動きを起こした。いくら二度目とはいえ、間違っても軽んじていい相手ではないことは、ここまでに嫌という程経験済みだ。
足元を掬われかけた昨日の事件が、冷たい感覚を伴って脳裏を駆ける。たったひとつの見落としが致命打となるのだから、ここまで厄介な相手もそうはいない。
——だというのに。
犯行予告など取るに足らない、全くの些事だと言わんばかりの勢いで。
「警鐘。予感。そうとしか言いようのない感覚が、渦巻く思考を突き破って鳴り響く。
「……違う」
何かが。犯行予告の陰に覆い隠された何かが、俺を捉えて離さない。
それは悪意であり、害意であり——そして、何よりも。
そんなものよりはるかに危険度の高い、差し迫った危機そのものだった。
「っ——」
原因、分からない。
正体、解らない。
何処にいるのか、その場所さえもわからない。
だが、まさに今。「何か」が確実に、こちらに向けて必殺の一撃を番えている。
「……魚見!」
マズい——これは、本当に、マズい。
完全に機先を制された。コンマ1秒、大きすぎるミスに歯噛みしても、過ぎ去った時間が戻るはずもない。
ほんの一瞬、襲撃者に気付くまでに生じたタイムラグ。その理由は明白だ。
「標的が俺でない」。ただ一人、魚見だけに狙いを定めていたがゆえに、その一撃は俺の直感を掻い潜った。
相手が得たアドバンテージは、時間にして僅か1秒未満。一瞬と呼んで差し支えない、ともすれば「誤差」としか呼べないほどに小さなモノだ。
しかし。その一瞬さえあれば、一撃は確実に目標へと届く。
「くそ——」
姿もなく、影すらも見えない。その存在を証明するものは、この場においてどこにも存在しない。
だが。俺は、その透明な襲撃者を知っている。
完全に不可視、かつ無音の一射。遅きに失した今、盾を構える時間すらもない。
俺に残された手段は、そこに割り込むという力技の一点だけ。
射線にアタリをつけて飛び込み、魚見の体を渾身の力で弾き飛ばす。一毫ほどの間もおかず、小さな何かが背中に突き刺さった。
チクリとした痛みと、蚊に刺されたかのような不快感。それが暗器の類だと認識した時にはもう、目の前にいるはずの魚見の姿は幾重にもブレ始めていて。
「……ああ」
毒か、これ。こんなド直球な暗殺、今時なかなかお目にかかれんぞ。
落ち行く意識の中、最後の思考が脳裏に去来する。
いっそ面白いほどに間の抜けたそれは、残照のように儚く煌めき——そして。
それを最後に、全てが落ちた。
何かにつけてだらだらと会話している俊と魚見ですが、その中でも最も気に入っているパートかもしれません。
——そして、物語は第二部の「核」へと。
次回は明日、23時ごろ更新予定です。
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