2-25/フェーズ3:コーヒーを一杯、ブラックで
一難去って、休憩のお時間です。
——ごとん、と。
確かな重さを持った物体が落下した音を聞き、いささか疲れぎみの瞼を持ち上げる。
……しかし、あれだな。ふと気になったが、落ちてきた拍子に飲料が自販機の中で溢れたりはしないんだろうか。
この安全性を確立する裏に、いったい幾らの企業努力があったのやら。そんなことを思うと、自販機にさえ足を向けて寝られない気がしてくるのだから不思議である。
……などと。益体もないことを考えているうちに、自販機の前の彼はこちらへと歩を進めていた。
「お待たせ。コーヒーで良かった?」
「ええ。いくらでしたっけ?」
「いいよいいよ、仮にも先輩だしね。ここは俺の奢りってことで」
「……ごちそうさまです」
勢いよく——というより、糸の切れた人形のごとき動きで、どっかとソファに腰を下ろす振本さん。そのまま横になるのも辞さないほどの疲労加減は、しかし同業者としては納得の一言しかない。
ある種お決まりの問答を繰り返したのち、差し出されたブラックコーヒーを有り難く頂戴する。最初から分かりきっている答えでも、礼儀を尽くすに越したことはないというものだ。
「ゔあ〜〜〜……美味いなあ、これ。癖になりそうだ」
「ただの缶コーヒーですけどね……」
「ただの缶コーヒーがこんなに美味いとか、世界もまだまだ捨てたもんじゃないってことさ」
乾いた笑い声をあげる振本さんの瞳は、もはや仕事に疲れはてた熟練警備員そのものだ。
なんでこんな悲哀に満ち溢れているんだろうか、この人……この道数十年、ひたすら現場でしごかれてきたと言っても過言ではないレベルの草臥れっぷりだ。おかしいな、職歴は俺と変わらないはずなんだが。
しかし、だ。振本さんのことを笑えないくらいには、俺にも疲労が溜まっている。
正直に言ってしまえば、疲労の度合いはいささかという言葉では過小評価に過ぎるほどだ。横になる云々の話はしたが、叶うことなら俺だって今すぐ横になってしまいたいレベルなのである。
スタジアム内でも休憩スペースを謳うだけあって、設えられたソファは想像の数万倍心地がいい。仮に一人で居たとしたら、間違いなくコテンと眠りに落ちていることだろう。
肉体的な疲労も、もちろんバカになってはいない。だがしかし、何よりも大きいのは精神的な問題だ。
度重なる犯人の跳梁に、収拾がつくかと思った矢先の第二の犯人。いくら肉体を休めようと、気をずっと張り続けている負担は確実に蓄積している。
加えて——俺の場合、この問題が一番のウエイトを占めているのだが——暴走機関車のように好き放題する選手共の存在もある。和泉さんはともかく、水無坂に関してはもう完全に手のつけようがないというか、手綱を握ることすらできない有様だ。
危うく忘れてしまいそうになるが、未だ本戦は折り返し地点でしかない。それを認識すればするほど、嫌が応にも疲れが色濃く出てきてしまう。
「ぁえー…………」
喉元を滑り落ちる黒い液体とともに、カフェインが身体中を駆け巡る。
疲れてる時にカフェイン補給とか、精神性は完全に社畜のそれなんだよなあ……何故か疲労マックスの時にもうひと頑張りしたがる日本人、よくないと思うんですよマジで。仕事は決められた時間に決められたぶんだけ、なんならそれすらしないほうがいいと思う。
「それより、君の方こそ大変だったんだろう? 君が気付いていなかったらどうなってたか……二人目の犯人にしても、水無坂さんの話にしても」
スタジアム全体をにわかに浮き足立たせた昼間の事件。あれだけの出来事すら、早いものでもう半日前の出来事になりつつある。
爆発騒ぎまであったにも関わらず、本戦に遅れが生じたのはほんの数十分だというのだから恐ろしい。恙無く三日目の日程を終わらせることができた、と昼間の俺に言っても、ひょっとしたら信じないのではなかろうか。
それもこれも、警備員の面々が「システムの一時的な不備」という題目を貫き通し、適切な処置を行ったおかげである。統率された組織の手腕がどんなものか、改めて見せつけられた気分だ。
「気付いたとはいっても、勘と運の産物ですから。事情聴取はもう終わりましたし、残ってるとすれば水無坂個人に対する『お話』くらいじゃないですか? どっちにしろ、明日には個人戦が控えてる身ですから、あんまり絞ることもなさそうですが」
「その点でいうと、昼間の和泉くんも似たような話だったらしいね。まあ、彼の場合は第三試合が直近にあったわけだけど……まったく、こっちの身にもなって欲しいもんだ」
半分ほど残った缶の中身を揺らしながら、振本さんが大きく嘆息する。
状況の詳細な把握を目的として、事態の収拾と同時並行で事情聴取も行われた。といっても手厳しいことができるわけでもなく、せいぜいが少し厳しめの「お説教」止まりである。
和泉さんの件だけでなく、俺と水無坂の事の顛末、そして第二の犯人の存在についても、既に上から下まで情報の共有が行われている。俺たちのような末端の警備員に至るまで、全員が同レベルの認識を有していると言っていい。
……まあ。それはそれとして。
「どれだけ聞いたところで、大した進展はなさそうですけどね。真面目なこと喋りますか、あの二人?」
「……協力的、ではないだろうねえ……」
ですよね。その認識も共通で安心しました。
水無坂にどれほどのお叱りがあったのかは知らないが、この件に関して言えば擁護するつもりなどさらさらない。こんなものでは折れないことが確信できるぶん、こちらの心労がマッハで蓄積するだけだ。
言えば言うほど意固地になる人間というのはどこにでもいるが、今の水無坂は間違いなくそのタイプだろう。もはや意固地というレベルすらも通り越し、駄駄を捏ねるよく分からない何かである。
昼間の騒動といえば、驚いたのはそれこそ和泉さんの一件、管理室前での戦闘だ。何やら企んでいることは理解していたつもりだが、まさか魚見の名前がそこに連ねられているとは思いもしなかった。
巻き込まれたのか、それとも自分から首を突っ込んだのか。どっちでも起こったことに大差はないが、あいつも大概俺と同じ穴の住人だ。
「水無坂さんはともかく、和泉くんは気負いもしなさそうなのが、ね……いや、もちろん正当な怒りではあるんだけど」
「いいんじゃないですか? メンタルコントロールも大事なことですよ。ええ、本当に」
和泉さんも和泉さんで、簡単な事情聴取とお咎めを受けたのち、さも当然のように直後の第三試合に参戦している。同試合内では最多得点を挙げた選手になったというのだから、もはや呆れるべきなのか讃えるべきなのかも分からない。
個人での復讐は達成するわ、大会でも結果を残すわ、この本戦で一番多くの利を得ているのはあの人といっても過言ではないのではなかろうか。惜しくも決勝戦の座は逃したが、2日めに彼がチームから抜けた穴がそれだけ大きかったということだろう。
……ちなみに。決勝戦の進出チームであるが、その中にはやはり樋笠のチームも登録されている。
団体戦の決勝は日を跨いだ6日目、星皇祭の大トリとして行われるということもあって、注目の度合いは随一だ。どのような結果になるにせよ、彼の知名度はますます上がることになるだろう。
と、まあ。
現状の把握は、一旦これくらいにしておくとして。
「明日からは個人戦か……微妙にやり方も変わるし、また色々と苦労しそうだ。君は特に」
「ナチュラルに俺を水無坂の管轄にするの、やめてもらっていいですか……まあ、そうなってる節は十二分にありますけど」
呟くように付け加えられた言葉に死んだ目で応え、残ったコーヒーを一息に流し込む。
行き場のない感情をぶつけようとするものの、想定外に硬い空き缶は凹ませるのが関の山だ。その虚しさが、より一層やりどころのない気持ちを加速させていく。
「何をしでかすか分かったもんじゃないですよ、ほんとに……だからこそ恐ろしいんですけど」
今まで度重なる問題行動を起こしてきた水無坂とはいえ、さすがに試合そのものを放棄してまで強引な行動に出ることはないだろう。これまでの彼女の自由な行動は、団体戦に参加していないことに起因する時間的な余裕も大きいはずだ。
一方で。いざ選手としての順番が回ってきた時に彼女がどのような行動を取るか、まるで未知数の部分もまた存在する。
ただでさえ揺らいでいる彼女が、明日以降は選手としてむき出しの緊張感に晒される。メンタル面での余裕が今より更に無くなるとなれば、どのような行動に出るのかいよいよもって想像がつかない。
よって——総評。水無坂がどうなるのか、俺にも全く分からん。
……しかし、だ。もしなんらかの変化が生じるとするならば、それは確実に良い方向に転がるものではないことだけは断言できる。
我ながら気が滅入るにもほどがある担保だが、その一点に関しては直感が強烈に働いているのだ。ガイアが俺にもっと苦しめと囁いている……。
「……はい、もしもし?」
うんざりするような思考を上塗りするかのごとく、ポケットの中の携帯が振動する。
タイミングも相まって、ここまで気乗りしない着信もそうはないだろうというレベルだ。なんで電話一本でここまで嫌な予感がするんだろうなあ……いや、まあ出るんだけどもさ。
『お、雨宮ちゃん? ちょっと急用。かわいいかわいいお嬢さまが君をご指名だ——とりあえず、なるたけ急いで対策本部に来てくれ。んじゃ、よろしく』
「……は? いや、あの——」
嫌々ながらも通話ボタンを押し込めば、途端に響いてきたのは鬼島大尉の軽快な声だった。
詳しい内容を問い質そうとするものの、構うことなく通話は一方的に切られてしまう。なに? 電話代の節約でもしてんの?
「……ええ……」
何ですか急用って。言いたいことだけ言って一方的にプッツンとか、どうにも星皇軍の上層部は軒並み人心というものがないのではなかろうか。
思いやりの心を持て、とまでは言わないが、せめてもう少し忖度というものを学んでいただきたい。急にそんなこと言われても、こちらとしてはただただ心臓に悪いのですよ。
「ちょっと? ……もしもーし?」
「残念、もう切れてるよ」
縋るような声を出す俺を一蹴するかのように、隣の振本さんから無情な一言が告げられる。
無意味な足掻きも封殺され、俺にできることはただ携帯を握りしめて立ち尽くすことだけだ。こんなのってないよ……こんなの絶対おかしいよ……。
「お嬢さま、ねえ……」
思い当たるフシがありすぎる言葉に、どうしたものかと頭を抱える。噂をすればなんとやら、とはよく言ったものだが、それにしたってこれはあまりに性急すぎではないだろうか。
俺だけ変なシステムで監視されているとか、それっぽい技術で頭から情報を抜き取られているとか、あながち嘘でもなさそうで困る。知っている、タナトスさんはなんでも知っている……。
「ま、頑張れ。コーヒーくらいならいくらでも奢るからさ」
「言質とりましたからね……」
恨めしさ全開の目をすれば、振本さんは肩を竦めて俺の空き缶をひょいと取り上げる。
そのまま投げ放たれた二つの缶は、いずれも違うことなくダストボックスへと吸い込まれていった。手のひとつでも叩きたいところだが、生憎と今の俺にそんな余裕はカケラもない。
「ああ、いくらでも。これからの君の試練に比べれば、コーヒーくらい安いもんだよ」
「……そりゃ、ありがたい限りです」
足は鉛のように重いが、残念ながら先送りでどうにかなる種類の問題でもない。
胸にわだかまる空気を無理やり吐き出し、決死の思いで踵を返す。一歩めから帰りたいと思うあたり、ひどいことになるのは約束されているようなものだ。
ああ、行きたくねえなあ……今からでも間違い電話だったってことにしてくれないかなあ……。
「じゃ。……あんまり背負いすぎないように」
「……善処します」
心からの同情がひしひしと伝わってくる振本さんの表情は、この状況における唯一の救いといってもいいくらいだ。いい人ほど割りを食うって本当なんだなあ……世界がこんな人で溢れてくれたら、俺ももっと生きやすくなるだろうに。
聞いてますか。あんたのことだよ、お嬢さま。
休めると思ったか? 仕事だよ!
和泉さんと俊、振本さんと魚見、というペアを意識しつつ、今回のように入れ替えた会話も楽しんでいただけたら幸いです。
次回は明日、23時ごろ投稿予定です。
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