2-20/フェーズ2:奔走、錯綜、あるいは蠢動
7月27日、本戦3日目。約束の時間まで、あと少し。
スタジアムの中心部から流れ出す、痺れるような興奮と熱狂。ある程度離れたこの場所からでも分かるほど高まったそれが、神経を絶えず刺激する。
ともすれば眼に映る全てに反応してしまいそうになるのは、それだけ俺の気が張っているが故のことか。観客と俺たち警備員、その間に横たわるギャップの大きさに、思わずごくりと唾を吞み下す。
時刻はもうじき正午。例の犯行が予告された時間まで、もう幾許も無い。
「あと、5分」
確認のように呟いた言葉は、喧騒と雑踏の中に紛れて消えていく。
大会という娯楽を享受する観客は、水面下で何が起こっているかなど当然知る由もない。皆が皆無邪気な子供のように色めき立ち、試合開始を今か今かと待ちわびている。
……だが。それも、試合内容を知れば仕方のないことだろう。
今日の日程は団体戦の1ステージ目、その最終日なのだから。
この結果次第で、最終日に行われる決勝試合に進出できるかどうかが決定する。一週間弱の日程を誇る本戦の大トリ、そのメンツが確定するとあれば、必然的に観客のボルテージも膨れ上がるというものだ。
鉄桶水を漏らさず——かどうかはさておき、今回ばかりは敷かれている情報統制もかなり厳しいものになっている。その甲斐あってか、観客席はこれまでの二日と変わらぬ、ともすればそれ以上の盛況ぶりを見せていた。
第二本部以外の一般客の入場が昨日から解禁されたことも、客足の増加に一層の拍車をかけている。ガチ勢は宿泊棟の空き部屋を押さえ、泊まり込みで観戦するというのだから、その本気度には畏怖せざるを得ない。
「樋笠……は、勝つだろ、うん」
一時間の休憩を挟み、二試合目の開始時間は正午ちょうどから。つまり、まさに予告されたその時間である。
出場する樋笠の応援に注力したいところだが、状況が状況である以上そうも言っていられない。場合によっては、試合の続行そのものが危ぶまれることも十二分にあり得る。
……そも。気を張っている云々の話といえば、発端は一昨日の和泉さん襲撃事件からだ。
ただでさえ空気がピリついているところに例の犯行予告が投下されたせいで、テンションは控えめに言っても最悪の部類である。火に油を注ぐ、とはまさしくこのことだ。
選手にはこの犯行予告の件を包み隠さず伝え、昨日割り増しされた人員のうち何割かを警護の要領でつける、という方針になったが……果たして、それに意味があるかどうか。
なんならその制度にすらいちゃもんをつける水無坂が居そうで——偏見が入っていないといえば嘘になるが——個人的には気が重いどころの騒ぎではないのである。要人警護とかSPとか、単語自体はべらぼうにそれらしいのだからまたタチが悪い。
昨晩も緊急会議やらなんやらがあったせいで、満足のいく睡眠の質などろくすっぽ確保できていない。たかがバイトの肉体と精神をここまで痛めつけるとか、この星皇軍とかいう組織はブラックにもほどがあるのではないだろうか。
……まあ。ここまで言っておいて何だが、俺たちバイトに求められていることはほとんど変わっていない。
あくまで自分の担当区域——俺の場合であれば、この二番ゲート周り——の警備を徹底し、そこから何があっても動くな、ということだけだ。命令をきちんと守ること、それ以上のことは最初から要求されていない。
つまり、だ。
寝不足だの何だのと言っているが、要は俺が気負い過ぎているだけなのである。
命じられたことを唯々諾々とこなすだけで良いはずなのに、気づけば余計なことばかりして頭と体を労している。不慣れなことをすればどうなるか、文字通り身を持って思い知ることになってしまった。
魚見にも散々イジられているが、我ながらキャラに合わないことをやっているのは承知の上だ。普段の俺が見たら、鼻で笑うどころかひっくり返るに違いない。
物事にやる気を持って取り組む、という天変地異レベルのことを自覚してこなしているのだから、無自覚よりもなお始末に負えない。こなせてたらこんな疲れてるはずないんだよなあ……。
「……ああ、怠」
いよいよ高まりつつある熱気を浴びて、焦燥で乾く唇から言葉を吐き出す。
多少の格好はつくかと期待して口にしたその言葉も、空虚な響きだけを残して喧騒の中に消えてしまった。それっぽい誤魔化しすらも許されないとか、俺の人生踏んだり蹴ったりである。
着実に迫りつつある正午まで、残された時間は2分と少し。
不備だらけのテンションとコンディションの中で、それでもと気休めに思考を巡らせる。
自衛の責任がある警備員はともかくとして、不安なのはやはり選手の面々か。
一般客に被害が及ぶ可能性も捨てきれないが、そこはさすがに責任の範囲外だ。鬼島大尉をはじめとした、正式な警備団の面子に気張ってもらうしかない。
まさにこれからの試合に出場する樋笠と、第三試合に出場予定の和泉さん。俺に縁がある人間の中では、最大の懸念はその二人だろう。
今朝顔を合わせた時には、和泉さんはすっかり健康体に戻っていた。犯人なんざ返り討ちにしてやる、と張り切っていたし、樋笠にしても不意打ちで遅れをとることはそうそうないとは思うが……いくら実力者であっても、万が一の事態がないとは言い切れない。
二人とも護衛を付けることに対しては快く了承してくれたものの、それでも絶対の安全が担保されている訳ではない。分けても今回の犯人であれば、そうやすやすとこちらの想定内の行動をとってはくれないはずだ。
想定外の事態への対処——坂本大佐に太鼓判を押されたスキルであるが、まさか本当に必要になってくるとは思わなかった。最初から想定外を前提にした対策を組むとか、警備員としては失格もいいところである。
……と、まあ。
ここまで散々ネガティブなことを並べ立ててきたが、多少は救いのようなものもある。
昨日の夜に魚見にも捲し立てた通り、今回の犯人は間違ってもカインではない。ましてや、それに比肩しうるレベルの難敵でもないと断言できる。
こちらの意表を突くやり方、初犯を見事に成功させた手口、そしてやけに芝居掛かったその態度。なるほど、確かに似通っている点は多々ある。魚見の抱いた疑念も、ある意味では当然と呼べるものだ。
だが。そのすべてが、あの怪物とは比べるべくもない。
模倣というよりは、手口が偶然に一致しただけなのだろう。要はそれらしい手口が趣味なだけの、取るに足りない小悪党——であれば、相手取っているこちらの心的負担も若干は軽減されるというものだ。
……まあ、この辺の感覚は全て勘というか、漠然とした直感のようなものでしかないのだが。
だが。ことこういった問題に関しては、俺の勘もあながち捨てたものではない。
そして、だ。
また後ろ向きな話に戻ることになるが——その直感に従うならば。
今まさに起ころうとしているこの事件にも、間違いなく意識の外側からの「何か」が介在してくる。
先ほどにもさんざ話題にした、「想定外の事態」。カインほどではないにしろ、往々にしてそういった問題は一筋縄ではいかないのが常だ。
犯人か、警備員か、それとも全く別の第三者か。明確なことは何ひとつわからないが……少なくとも、万事が上手くいくという確信だけはしないほうが賢明だろう。
漠然とした不安だけ煽るとか、我ながら全くもって嫌な直感であることこの上ない。テスト直前になって作動するタイプの悪趣味なセンサー、だいたいみんな持ってるんだよなあ……席に着いた瞬間に後悔するの、何回やっても慣れないからやめて欲しいんですけど。
『——魚見、待機完了してます』
「雨宮完了。現在異常なし」
『ほい、次』
最終確認の通信に耳を傾けつつ、周囲をぐるりと見回して返事をする。
このゲートの周り、おおよそ目の届く範囲が俺の管轄だ。自分の持ち場所くらいはしっかりと守り切らねば、他人に意見する以前の問題になってしまう。
魚見の持ち場所がどこかは忘れたが、今回は別のところに割り振られているらしい。本来ならペアでの警備が徹底されているはずなのだが、何故か俺たちに限ってその縛りが解除されている。
……まあ、奴には奴の考えがあるのだろうし、どうせ鬼島大尉か誰かに口利きでもしたのだろう。単独行動上等の姿勢なら俺も動きやすいし、むしろ望むところだ。
あと1分。変わらないリズムを刻む秒針と相反するように、鼓動が際限なく加速していく。
昨晩からこっち、できる限りのことはしたつもりだ。
気負いすぎなことも、アクシデントが起きることも考慮に入れた上で。素人の浅い思考とはいえ、それでも考えるだけのことは考えた。
だというのに。どうしてか、胸がざわつくのを止められない。
それは、想定外の事態への恐怖ではなく。もっと根本からズレたところにある、言うなれば違和感のようなものだ。
何か。見落としてはいけないはずの「何か」を、迂闊にも見落としている。
そんな直感は、しかし確固たる形を持つことなく俺の中を漂流し——
そして。時計の針が、止まることなく正午を指し示す。
# # #
それは、一秒も遅れることなく。
宣言通り、正午きっかりに訪れた。
襲撃か、撹乱か、果ては無差別攻撃か。ある意味能天気とも言えるような、当たるはずのない予想をしていた僕を嘲笑うように。
——ばちん、と。唐突に、スタジアムの照明が落ちる。
「……!」
息を飲み、全身が強張る。何が来ても受け止める覚悟はしていたはずなのに、それでも予想外の方向から一発を投げ込まれたことに、思考が束の間停止する。
通路から観客席まで、スタジアム中の電気を一息に落とす。単純ながらも、意表を突く方法としてはこれ以上ないやり口だ。
観客から警備員まで、等しく生じた意識の空白。気を張っていた警備員の面々ほど、猫騙しの効果は強く現れているに違いない。
それは、時間にすればたった一瞬。文字通り数秒後には立ち直っている程度の、ごくごく限られたものでしかない。
しかし。その一瞬は、間違いなく犯人の狙い通りに作られた隙だった。
「く……っ」
誰もが犯人の完全に術中に嵌り、まんまと動きを止められた。
……でも。そこには情報という、埋めようのない大きな隔たりがある。
今回の犯行予告を知らされているのは、警備員の面々と選手のみ。大多数の観客にとって、この停電は完全なアクシデントだ。
いたずらに情報を公開し、パニックを起こさないための情報統制措置——観客を守るためのやり口が、ここに来て完全に裏目に出た。
困惑。不審。客席に座る大勢の人間は今、そういった感情を抱いていることだろう。試合が始まるまさにその瞬間、スタジアム全体で目に見える不備が起きたのだから。
群衆の動きを止め、原因不明の不安と不信を増大させる。偶然か必然か、犯行の手法すらあの男を彷彿とさせるやり口だ。
となれば。犯人が次に起こす行動も、容易に想像がつく——ついてしまう。
「ああ、くそ……っ」
苦々しい呟きは、しかし何を為すこともできずに流れて消える。
どれだけ犯人の思考を読もうと、事態は既に後の祭りだ。次に起こる出来事を予測できたからといって、完全に出し抜かれた事実が覆るわけもない。
——そして。客席にほど近い数箇所のゲートから、唐突に爆発音が響く。
未知への恐怖と、張り詰めた緊張。それをある程度の大きさまで育てきったのなら、あとは小突いてやるだけでいい。
膨らんだものを暴発させるのは、ほんのひと押しだけで十分だ。小さな針でひと突きする、たったそれだけで風船はいとも簡単に破裂する。
「すぐ近くで爆発が起こった」。それがどのような規模で、どれだけの被害が出たのか、そんなことはまったく関係がない。
自分たちを非日常へと陥れる切っ掛け、そしてその不安を確信へと変える実害。そのふたつさえあれば、集団はいとも簡単にパニックを起こす。
重要なのはひとつの事実と、それを伝播させる群衆の存在だけ。例えそれが虚仮威しの爆発音であるとしても、一度転がり始めた状況の前ではなんの気休めにもならない。
——やられた。
たった一手で、犯人は最良の結果を出してきた。動かしようのないその現実に、何ができるわけでもなくただ唇を嚙む。
照明が軒並み落とされた暗がりで、火がついたように騒ぎ出す観客たち。さざ波だった混乱は瞬く間に大波へと変じ、全てを飲み込まんとしてうねり出す。
「魚見くん!」
と、そこで。
背後から聞こえてくる、たった今ここにたどり着いたと思しき切迫した声。乱れた息もそのままに口を開くその声に、思考を打ち切って視線を向ける。
「……振本さん、無事でしたか」
「無事もなにも、とてもそんなことを心配していられる次元じゃないぞ、これ。状況をどうにかして把握するなら、この場所が一番効率がいいと思ったんだが……まさか君も、俺とまったく同じことを考えているとはね」
肩で息をしながら言葉を継ぐ振本さんは、どうやら本当にここまで走ってきたらしい。
照明が落とされ、おまけに何が起こるかもまったくわからない。その危険性を承知で全力疾走してきたあたり、相当急いで来たことは間違いなさそうだ。
振本さんと合流した僕の現在地。それは、本来の担当部門であるゲート近辺——
ではなく。本戦初日の昼間に見つけた穴場、すなわち例の覗き見スポットだ。
観客席からはほぼ目につかない上、スタジアムをかなり広く俯瞰できる絶好の場所。「万が一」に備えて見つけておいた場所だけど、まさかここまで有効に作用するとは思わなかった。
昨日の夜、こっそりと鬼島さんにお願いして監視の場所を変えてもらったんだけど……この結果を見れば、無理を承知で頼み込んだ甲斐もあったというものだ。備えあれば、とはちょっと違うけど、何れにせよ上手くいったことに間違いはない。
賭けの成果は上々。僕の読みも、まだまだ捨てたものじゃないらしい。
「ええ。……でも、ここで籠城を決め込めばいいってわけでもなさそうです」
緊張と焦燥、そして、予想が的中したことへのわずかな興奮。その全てを口調の裏へと隠し、押し殺した声のまま口を開く。
ここまでは概ね予想通り。引き起こされた事態は最悪の部類でも、最初から覚悟していたことではあった。
急速に拡大しつつある騒乱を傍目に見遣りながら、これからの行動について考えを巡らせる。
振本さんが持ち場を離れてまでこの場に駆けてきたのは、騒動の全容を少しでも把握したいからこそだ。この点において、僕と彼の思惑は一致している。
この混乱は、遠からず上の人がアナウンスを使って収めるだろう。それで収束するかはさておき、一定の効果は認められるはずだ。
もちろん、この状況がいつまでも続く、などと楽観視するほど頭の悪い犯人ではないことは、既に嫌という程思い知らされている。この次の作戦をお出しして来るのも、恐らくは時間の問題だ。
たった数秒ではあったものの、停電作戦は確かに思考の空隙を作った。挙句その数秒を最大限に利用されたのだから、完全に上回られていたことは明らかだ。
……でも。
犯行予告が届いた時点で、元よりある程度の後手に回ることは想定済みだ。犯人が何かを仕掛けてきたとして、それを僕一人の力で食い止めることはできないことも。
後手後手に回っている現状において、そこからどうリカバリを効かせるか。今回の犯行において、それこそが最上の命題だったと言っていい。
そして。たった今、僕の目的は一つ達成された。
であれば——ここから僕に何ができるかは、どれだけ迅速な行動を取れるかにかかっている。
「僕は照明の方に向かいます。今なら、何かの手がかりがつかめるかもしれませんし——振本さんは?」
「俺はここに残るよ。二人ともここを離れたら、それこそ犯人の思う壺だ。……それに、情けない話なんだが、体を動かすことに慣れていなくてね。もし向かった先でドンパチでも起ころうものなら、確実に足を引っ張ることになる」
未だ息が整わない様子の振本さんは、悔しげな色を滲ませながらそう口にする。
「監視と連絡は任せてくれていい。もし何かあったら、必ず伝えてくれ。最悪の場合、また俺が倒れた人間を背負って運ぶことになりかねないし」
自分自身を鼓舞するように、この状況でも軽口を叩く振本さん。無理を押した様子で、それでもニヤリと上げられる口角に、小さく頷くことで応えてみせる。
それは選択ではなく、あくまで自分が選んだ行動の提示。自分のやるべきことなど、ハナから分かりきっている。
本来の持ち場を離れていることも、それぞれがそれぞれの思考を巡らせていることも。お互いに黙認した上で、あくまで確認のために言葉を交わしているだけのこと。
「ええ、お願いします。では」
「ああ。無茶はするなよ」
手短な会話を最後に、振本さんをその場に置いて走り出す。
やり取りはこれで十分だ。あとはそれぞれが、それぞれの役割をこなせばいい。
決して頭のいいやり方とは言えなかった。もっとスマートなやり口も、時間をかけて頭を捻ればいくらでも思いつくはずだ。
——だけど。それでも確かに、プレイヤーとしての賭けには勝った。
さあ、やろう。
今度は僕自身が駒になって、少しでも情報を集める番だ。
走る魚見、ボサッと立ち尽くす俊。次回、意外な彼らがバトルします。
次回は明日、19時ごろ投稿予定です。
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