2−3/襲来
(・ヮ・誰)
「あ〜〜〜〜……疲れた」
もうマヂ無理。ほんと無理。今なら死にかけの魚の真似とかできる気がする。なんならそのまま活け造りにされるまである。
言葉にならない溜息を漏らしながら、這う這うの体で玄関の扉を開け放つ。
休日勤務もそれなりに回数を積んではいるのだが、それにしたってきついものはきついのである。寮の部屋に戻ったら夜の10時とか、下手すれば風呂も入らずに寝てしまうレベルのしんどさだ。
だが、そこは目下一人暮らし中の男。待っていても家事を誰かがやってくれるわけではないのは分かりきっているので、疲れた体を壊れかけのレディオ、もといロボットのように動かすしかない。スクラップ寸前のロボが最後の力を振り絞って強敵に打ち勝つ展開とかいいよね。男は幾つになっても王道が好きなんですよ。
「ただいまー」
「あ、俊くんおかえりー」
誰もいないと分かっていても口を開いてしまうのは、それが習慣になっているが故か。いい加減直すべき癖だとは思うのだが、防犯上は結構良いらしいのでこのままでも別に、と思ってしまう。
「あ、俊くん。今お姉ちゃんお風呂はいってるんだけどさー、下着全部部屋に忘れちゃったんだよねー。こっちのカゴに入れといてくれない?」
「別にいいだろ、毎回風呂上がりは全裸なんだから。そこまで気にすることか?」
「むぅ、失礼な。私だって新しい場所に来たんだから、心機一転しようと思うのは当然でしょ? あーもうしーらない、今のでやる気全部消えたもんねーだ」
「……なんでもいいけどな、あんまり長湯はしないでくれよ」
えーいいじゃーん、いいじゃん、すげーじゃん、などと宣う声をBGMがわりにしつつ、手洗いうがいを済ませてようやく一息つく。居間の椅子にどっかりと腰を下ろしたが最後、もう二度と動きたくなくなってしまう程度には疲れが溜まっているらしい。
それにしても、下着ねえ……。仮にも健全な男子高校生の部屋に、どうしてそんなものを置いておくのだろうか。昼間の降谷といい、もう少し危機管理の意識というか、リスク管理の精神を持ってもらいたいところだ。
いや、今更駄姉の下着なんざ見ても、何の感情も起こりはしないんだけどね? 要は母親の下着を見るのと同じで、洗濯物として処理する以上の感慨は湧かないのが実情なのである。
ただ、もし誰かが訪ねてきた場合、気まずい空気になることは必至であるわけで。分けてもやたら攻めた下着を付けている駄姉のことだし、下手をしたら取り返しのつかない誤解を生んでしまう可能性がある。
……まあ、俺の部屋に来客があること自体、有り得べからざる仮定の上に成り立っているわけだが。そろそろ自虐も飽きてきたので、別の芸風に手を出してみるのもいいかもしれない。
ちなみに今の母親云々の話、俺に親はいないので本当かどうかは全く分からない。あくまで一般論として語るなら、ということであるが、そもそもこれ自体がネットに転がっていた木っ端の意見だ。
こんなものを一般論として語るのもどうかと思うが、さりとて嘘と断じるには随分と信憑性がある。うそをうそと見抜ける人でないと、『星の力』を使うのは難しい——果たしてネットの海に真実はあるのか。深いな。
凝った体をぐりぐりと動かしたのち、飲み物を探しによっこらせと腰を上げる。このクソ暑い中お茶を飲もうとする馬鹿はそういないだろう、という思考を裏切るようにして、ポットと急須は一度使用された状態でスタンバイされていた。
「あ、お姉ちゃんが使ったコップ、まだ使うから洗わなくていいよー。間接キスとかしちゃダメだぞー?」
「実の姉と間接キスして喜ぶ奴が何処にいるんだよ」
まさかこの熱帯夜に緑茶を、それもホットで飲もうとする変態が居るとは。曲がりなりにもきょうだいだけあって、思考回路は似通っている部類らしい。むろん俺も今から同じことをするのだから、馬鹿の度合いとしては似たり寄ったりだ。
疲れ切った脳に染み渡るように、緑茶の芳醇な味わいが喉を滑り落ちていく。こうして部屋でひとり、一日の情報を整理する時間というのは案外に悪くない。
思い返してみれば、水無坂が云々という話をしていたのも今日だったはずだ。魚見が図書館で何をしていたのかは知らないが、聞いたところでどうせ有耶無耶にされるだけである。
激務に追われて忘れかけていたが、流川少佐から渡された書類の件もある。まさか無視するわけにもいくまいし、一段落したら目を通さねばならないだろう。
はー、それにしても緑茶おいしい。バイト疲れも心なしか軽くなった気がするなあ……。
……うん。
…………うん?
待て。待ってくれ。
………………お姉ちゃん?
「は?」
口から溢れ出したのは、声とも鳴き声ともつかぬもの。
それは、停止していた思考回路が動き始めてしまったが故の悲劇なのか。不安定ながらも動き始めたはずの俺の頭は、遅れてやってきた衝撃によってまたしてもショートしてしまう。
「いや——いやいやいや」
どたんばたん、というスタイリッシュさのかけらもない音を響かせ、急行した風呂場の扉を開け放つ。テンションが一昔前のそれだが、今はそんなことを言っていられる場合ではない。
——果たして。解放された扉の向こうでは、件の人物がとぼけた顔でこちらを見据えていた。
「あれ、わざわざ持ってきてくれたの? カゴに入れてくれればよかったんだけどな。でもちょうどいいや、ついでにタオル取ってくれない?」
「違う」
騙されるな。こんな軽いノリで済ませていい話では断じてない。
そもそもノリと言うなら、何故あんたはここまで平常運転のままなんだ。それっぽい悲鳴でもあればまだ釣り合いが取れるのに、これでは完全に俺の独り相撲ではないか。
「えー、俊くんのけちんぼ。いいもん、もうデザート作ってあげないからね」
え、なにその反応。もしかして俺の方がおかしいの? もう何もわかんなくなってきたな……。
全てを投げ出したい衝動をぐっとこらえ、瞳を閉じて深呼吸。あまりの情報の多さに怒る気も失せるというか、なんなら何周かして冷静になってくる始末だ。
……だが。それはそれとして、あんたには金輪際料理はさせないからな。これ以上キッチンで人の命を弄ぶようなら、俺はいよいよもって覚悟を決めねばならなくなる。
「……分かった、タオルと下着な。すぐに持ってくるから、じっとしててくれ。いいな? 絶対だぞ? 一歩でも動いたらすっ飛ばすからな?」
とりあえず、一度顔に冷水をぶっかけるところから始めよう。運が良ければ目が醒めるかもしれない。
それでも駄目だったら……どうしよう、もう諦めるしかないなこれは。どうにでもなるようになってしまえ、だ。
# # #
「はい」
「はい?」
居間の机を挟んで向い合い、席についてからはや数分。
対面に座り、我が物顔でアイスを貪っている彼女——何もおかしな点などない、と言わんばかりに振る舞うこの姉は、風呂上がりらしく大変際どい格好だ。
だが。当然ながら、今の俺にそこまで気を回せる余裕などない。
脳の働きが鈍っているところを狙い、唐突に落ちてきた特大の爆弾。そんなものを前にすれば、こちらは身を守るだけで精一杯なのである。あとそのアイス、割と高めのやつだよな。怒らないからどこで買ってきたか正直に言いなさい。
「まず一つ目の質問。いつから居た?」
「ん〜、そこまで前の話じゃないよ。二時間くらい前かな? 荷物をひととおり運び込んで休憩して、お風呂はいってたら俊くんが帰ってきた感じ。あ、そういえば夕飯もまだなんだよねー……今日のメニューってもう決まってたりする?」
「もう済ませてきたに決まってるだろ……備蓄なんかないぞ」
ええー、と大袈裟に不満を垂れる姿を前にして、思考が脇道に逸れないよう必死の制御を試みる。何が聞きたかったんだっけかな……アイスの値段だっけ? せめてコンビニで買ってないことを祈るしかない。コンビニでダッツとか、それはもう紛れもないセレブの所業だ。
「じゃあ、二つ目の質問だ。なんで居る?」
「なんで、かぁ。うーん、話すと長くなるんだけど、いい?」
「よくないって選択肢があると思うか?」
さも当然のように説明をすっ飛ばそうとしただろ今。第一話から居るキャラです、みたいな立ち振る舞いをここまで堂々とされると、一瞬こっちまで騙されそうになるからやめてほしい。いやちょくちょく話題には出してたんだけども。
呑気に鼻歌を歌いながら、至福の表情でスプーンを口に運ぶこの人物。その正体は言うまでもなく、雨宮俊の実姉だ。
遡ることひと月以上前。皆様は覚えておいでだろうか——そう、俺がこちらで目覚めたあの日、超がつくほど能天気なメールを送ってよこしたあの姉である。
雨宮葵。二十歳にも関わらずだらけきった私生活を送りきっているコレは、しかしそれとは裏腹に外見だけは超一級品なのだから手に負えない。
10人中9人は満点をつけるであろう幼めの顔立ちと、それとは裏腹に主張が強めな身体のライン。肩の下、肩甲骨あたりまで伸ばされた栗毛の髪は、いつもはこの上なく似合っている髪型で纏められている。風呂上がりの今は適当に縛っているだけ(本人談)らしいが、それにしたってそこらの女子よりよほど整っているのは言うまでもない。
しかし。しかし、だ。
この時点で散々に見せつけている通り——この姉、容姿以外の点が残念すぎるのである。無論、言うまでもなくまだまだ序の口だ。
仕事中はうまく取り繕っているせいで完璧な才女に見えるらしいが、ひとたび家に帰ればこの始末。風呂に入れば着替えを忘れ、出たかと思えば着のみ着のままアイスを貪り、挙句この時間から夕飯を要求する肝の太さだ。
……もっとも。最後の一点に関して言えば、意識して俺がそうさせてる面も多分にあるのだが。罷り間違って自分で作る、なんてことを言い出した日には、まず間違いなく世界が終わる。俺は命が惜しいので、この姉には絶対にキッチンには立たせない。
「じゃあ、順番に話していこうかな——と言っても、最初の方の事情は聞いただけだから、お姉ちゃんより俊くんの方がよく知ってると思うんだけど。ほら俊くん、一ヶ月くらい前に危ない目に遭ったんでしょ? しかもそれで三日三晩寝込んだとかって」
「ああ……まあ、その辺はな。心配させたのなら申し訳なかった」
「謝るポイントがちがーう。まったく、なんでそんな大事なことをきちんと言わないかなぁ。あの流川さんって人が報告に来てくれたからよかったけど、そうじゃなかったらずっと隠してるつもりだったんでしょ?」
スプーンをこちらに突きつける姉。その格好も口調も、平時と何も変わらない。あくまでゆるゆるとした振る舞いのまま、その瞳だけに今までの空気を覆す光が宿っていて。
——だからこそ。その凛とした力強さに、言葉の中に込められた意思に、立場も忘れて思わず居住まいを正してしまった。
「……そりゃ、余計なこと言って煩わせたくなかったからな。聞いた姉ちゃんが何しでかすかもわからんし」
あの事件に関して、一切の連絡をしなかったのは紛れもなく俺の判断だ。その理由をあえて言葉にするのなら、それは余計な心配をかけたくないから、というありふれたものになるだろう。
だが。結果だけを見れば、姉は全くの事前情報なしでその報告を受け取ってしまった、ということになる。
「そうだとしても、私としてはきちんと言って欲しかったよ。たった一人の家族がこんなことに巻き込まれてるのに、自分は何も知らずに普通に生活してるなんてこと、俊くんだって嫌でしょ? 少なくとも私は嫌。聞いたときは本当に、一回お仕置きしようと思ったんだから」
「……悪かった。今回の件は伝えなかった俺が全面的に悪い」
物分かりの悪い子供を諭すような、殊更に穏やかで険のない口ぶり。放たれた言葉は罪悪感に形を変え、棘となって心に突き刺さる。
たった一人の家族、なあ……それを言われると何も言い返せない。だからこそ巻き込みたくなかった、という気持ちも少なからずあるのだが、どうにもままならないものだ。
「で、だ。それを聞いてわざわざ突撃してきたってことか? 俺の部屋に?」
……しかし、それはそれとして。
彼女が今、ここでアイスを貪っていること。その事実自体は、それだけではまったくもって説明にならない。
そもそも大前提として、日本星皇軍に入れるのは『星の力』を宿した人間だけのはずである。星刻者でもない、一般人に過ぎない姉がここにいるということは、必然的にその理由は不法侵入か軍と交渉したかの二択だ。前者なら大問題、後者でもそれはそれで問題になることは言うまでもない。
「もう、飲み込みが悪いなあ俊くんは。来たんじゃなくて、これからお姉ちゃんもここに住むんだよ? そのためのお話もきちんと通してあるんだし」
済む、違う。澄む、違う。棲む、微妙に違う。住む……あ、これか。これだな。
「待てや」
いや、これだな、じゃないが。
畳み掛けるかのような情報の洪水に、理解が幾許かのタイムラグを置いて発生する。なに? さっきから俺をキャパオーバーにするのが狙いなの? なんならもうだいぶ速度制限かかってるんだが。
「ほら、これが証拠。準備は大変だったけど、話自体はすんなりいったのがびっくりかなぁ。『保護者を受け入れるなんて特例中の特例だぞ? 相応しい理由がなきゃ却下してる』って言われちゃったけど、こうしてきちんと来られたんだから問題ないよね」
「あるに決まってんだろ」
ひらひらと見せつけるように鞄から出された紙には、確かに同居を許可する旨が記載されている。口調から察するに、その相手はおよそ坂本大佐と見て間違いないだろう。
珍しく大佐が仕事をしているのは喜ばしいが、なぜそれがよりにもよってこんな案件なのか。今すぐ殴り込み、もとい問い質しに行きたい気分だ。意識を高くするところが間違ってんだよなあ……。
「住むってあのな、この部屋はそもそも一人用だぞ? そもそも、能力もない人間がここに住んでいいのか分からないだろ」
「『ここに住んでいる人間でも、何も全員が全員異能力者ってわけじゃない。少数だが、能力を宿していない人間も居るにはいる。星刻者同士が結婚しても子供は無能力者だった、なんて例は腐るほどあるんだからな。と言うより確率的にはそっちの方が全然多いぞ』……だったかな? とにかく、そんな感じの太鼓判も貰えたんだし、別にいいでしょー? 手続きは全部もう済ませたから、俊くんは何も気にしなくていいんだよ」
「そんなわけにいくか」
一切の事前通告なくこちらに来ていたのも驚きだが、当然のように引っ越してきたのはもはや驚きとかそういう次元ではない。
心配だから目の届く場所に居たい、というのは至極もっともな理由ではあるのだが、それにしたってフットワークが軽すぎる。あれか、頭の中が軽いから足も軽くなるのか。脳味噌の代わりにヘリウムが詰まってる可能性すらあるな、この姉。
「むぅ……そうは言うけど、お姉ちゃんだって苦渋の決断だったんだから。荷物はどうしようとか、仕事はどうしようとか。あ、仕事のほうはこっちで雇ってもらえることになったから、心配しないで大丈夫だよ。せいおうぐん、だっけ? 事務の仕事をやらせてもらえるんだって。ちょっと楽しみかも」
大口を開けてアイスを堪能する姉の姿を前にして、どうしたものかと頭を抱える。もうなんかどうでもよくなってきたな……いかん、これと会話してると頭が溶ける。
久々に顔を合わせたぶん、デバフ耐性も大幅に低下してるのが問題だ。たった数分の会話でこうなのだから、これが続いた時にどうなるかなど考えたくもない。
「あー、美味しかった。ごちそうさまでした! それで俊くん、夕飯は何にする? お姉ちゃんは餃子がいいでーす」
「俊くんは何も作りたくないです……」
もういい、知らん。とりあえず今日はキッチンで寝る。明日になったら全部夢オチになってるはずだ。多分、きっと。
餃子なあ……冷蔵庫にあったっけ。冷凍のやつ、非常食用のつもりだったんだけどなあ……。
……まあ、そもそも今の時点で非常事態だしいいか。開けちゃえ。
大佐は仕事をしました。えらい。
(・ヮ・姉)、襲来。うわ出たよ……。
次回は明日、お昼頃(12:00)投稿予定です……が、字数が多めなので修正作業が終わらないかもしれません。最悪数日間寝かせることになりますが、どうか寛大な心でお待ちいただければと思います。
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