2−0/彼女
第二部、開幕です。
「努力」。
私の薄っぺらな人生を一言で表すのなら、陳腐なその言葉が最も適切だろう。
物心ついた頃から、あるいはそれ以前からずっと。私に課せられた責務は努力することであり、またそれ以外のものにうつつを抜かす暇など与えられなかった。
勉強、運動、あるいはそれ以外の物事すべて。私は常に一番であることを要求され、死に物狂いでそれに応え続けてきた。
——何故、そこまで必死に努力する必要があるのか? いつだったか、誰かにそう訊かれたことがある。
理解しがたいものを見るような、畏怖と尊敬が混じったその質問。明らかに異質なモノ、共存し得ないモノとして扱われていることを理解した私は、幼いながらもこう答えたはずだ。
すなわち。そうしなければならないからだ、と。
がむしゃらに夢を追い求めていたわけでも、ましてや誰かに褒めてもらいたかったわけでもない。むしろ、方向性としては真逆もいいところだ。
忘れもしないあの日、8歳のとあるコンクールでの記憶。たった一回、緊張から些細なミスを犯した私は、結果として首位を逃すという恥を晒した。
……心の原風景というものを定義するならば、私にとってはあの瞬間がそうなのだろう。
「どうして」。そう問う彼らの顔に、心配の色は微塵もなく。
冷え切った、失望しきったような目で私のことを見る母。今まで壊れたことのなかった機械が前触れなく壊れた時のように、心の底から理解できないといった顔をする父。
あの時の情景が今も、呪いのように心にこびりついて離れない。
嫌だ。怖い。見捨てられたくない。そう叫ぶ幼い声が強固な鎖へと変貌し、やがて私を雁字搦めに縛り上げるまで、そう長い時間はかからなかった。
あの子はおかしい、と噂されることもあった。質の悪い嫉妬からなのか、ちょっとした虐めに巻き込まれることもあった。学校に行くのが楽しいと思ったことなど、ただの一度もないと断言できる。
でも。そんなことがどうでもいいと思えるくらい、私は必死に走り続けるしかなかった。家に帰ればより恐ろしい世界が待っているのだから、学校は憩いの場ですらあったと言ってもいい。
誰にも理解されない、夜の闇よりも深い孤独。それ以外のやり方を知らなかったから、血塗れになりながらも茨の道を突き進んできた。
……しかし。それも、今思えば天国のように楽な世界だったのだ。
ただ目を伏せ、心を閉ざして。一本しかない決められた道を、前へ前へと走り続ければよかったのだから。
——事態が変化したのは、そう遠くない過去の話。
時間にして、まだほんの数ヶ月足らず前のこと。中学校の卒業まであと少しと言える時期に差し掛かった頃だった。
最初は精神に異常でも来してしまったのかと思った。ついに自分が壊れてしまったのか、などと考えもした。
だが。ある日、一人の見慣れぬ人物が本邸へと訪れてこう言い放った。
「私は、日本星皇軍の人間です」
それからのことは、よく覚えていない。
現実的にはあり得ないような説明を立て続けにされ、それを裏付けるように自分の体や精神に起きている異常を次々に看破された。最初は説明を一顧だにしなかった私の両親も、事実が明らかになっていくにつれてその表情を変えていった。
私が何もできないでいるうちに、すべての準備は終わっていた。当人である私の意思の確認すらないままに、私はたったひとつの道を閉ざされ、それどころか生家からも追い出されることになった。
その事実を両親から告げられた日のことも、曖昧で靄がかかったままだ。
記憶の中に存在するのは、こちらに向けられた二組の瞳だけ。後頭部を殴りつけられたような鈍い衝撃が、時折思い出したかのごとくフラッシュバックする。
「きちんとした家」に産まれて。「きちんとした教育」を受けて。それなのに何故、お前はそんなにも出来損ないなのか。
そんな言葉が浮かぶ眼には、微塵の感情も篭っておらず。壊れた玩具を見る子供のような視線に、私は直感的に悟ってしまった。
——ああ。私はもう、この人たちにとって必要のないものなんだ、と。
冷静に考えれば分かる話だ。今まで手塩にかけて育ててきた花でも、治療できないほどの病魔が巣食っているのがわかったのなら、処分する以外の方法はない。
星の力。そんな風に表現されたこの異能力が私に宿った瞬間から、私は「普通の人間」ではなくなったのだ。
そして彼らにとって、「普通の人間」でない私は病魔そのものだ。放っておけばこの家の評判にすら影響を及ぼしかねない存在など、早めに切除するに越したことはない。
送り出すといえば聞こえはいい。遠方の高校に通うために一人暮らしをさせている、などと嘯いておけば、分かっている両親だと賞賛されるだろう。
いっそ縁切りなら、まだ覚悟はできていた。でも現実は、それすらも許されない生殺しだった。
そうして。文字通り追い出されるような形で家を出た私は、日本星皇軍へと足を踏み入れることになった。
誰ひとりとして味方はおらず、何ひとつとして頼れるものはない。状況は今までと同じだ。
唯一にして最大の変化——それは、自分の目の前に広がっていたひとつだけの道が、綺麗さっぱり消え去っていた点だった。
両親の影にずっと怯えて生きてきたくせに、両親がいなければ自分の指針さえも定まらない。誰が聞いても間違いなく、滑稽な人生だと笑うだろう。
結局。何もできない私は、今までの生活を機械的にやり続けるしかなかった。
かつて命じられるままにやっていたことを、まるで唯一の頼みの綱とするかのように。何になるともわからないままに、暇さえあれば机に向かう。虚ろな瞳のまま、目的地もなくペンを走らせ続けている。
いつだったかに指摘された髪型も、習慣という名の呪縛から逃れられない証左でしかない。母に毎日課せられていた身だしなみを手放せば、私が私でなくなってしまうから、続ける以外の選択肢が存在しないだけ。
分かっている。こんなことを続けても、既に見放された私が掬い上げられることはない。そもそも私が今何をしているかすら、両親は認識していないのだろう。
……それでも。どこかで結果を挙げれば、もう一度やり直せるはずであると。
藁よりも小さな希望に縋っている私の、なんと浅はかで愚かしいことか。
この間の出来事にしたってそうだ。星皇軍が揺らぐほどの大事件、そこでなんらかの成果を出すことができれば、それはきっと「結果」と呼んで差し支えないはずだと。言ってみれば、そんな行動でしかなかったのだ。
誰を助けたい、手を差し伸べたい——義しい心を持った彼らの偉大さなど、私の矮小さとは比べるべくもない。浅薄で、打算的な考えに従って動いていただけだった。
そして今。私は再び、そんな思考を行動に移そうとしている。
星皇祭。誰からも注目されるこの大会で成績を残せば、今度こそ明確な「結果」を残せるはずだと思った。どのような意味を持ったものでもいい、これほどの大きなイベントでしかるべき結果を手にすれば、両親も無視はできなくなるはずだと、都合のいい幻想を自分自身に思い込ませた。
もし。もし仮に、結果を出すことができなかったら。
その時は今度こそ、私は進むべき道を見失うのだろう。
叶わないと知っていながら、必死で自分に刷り込んだ幻想。それさえも裏切ることになれば、あとはもう事実を認める以外になくなってしまう。
その事実と正面から向き合える強さを、私は到底持ち合わせていない。事ここに至って未だ逃げ続けていることが、それを何よりも雄弁に物語っている。
逃げて、逃げて。ずっとこうして、目を逸らし続けているのだから。
——私は認めたくないのだ。自分がこの小さな世界で、何よりも無価値な存在であることを。
彼女の救い、彼女の答え。第二部の根幹と言ってもいいかもしれません。
本日は2話投稿を予定しております。2話目は夜、23:00ごろ投稿予定です。
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