1−2/始まりは終わりへと
本章のテーマは「王道と既定路線」。使い古されたレールの上を全力で突っ走ってみようと思います。
古都、京都。国内外問わず様々な観光客が訪れる、日本屈指の観光名所。数々の文化遺産は言わずもがな、文化と共に生きようとする人々もまた、この街の魅力の一つであると言えるだろう。
……言えるのか? まあ言えるよな、うん。そういう事にしておこう。ぶっちゃけ部外者だからよく分からん。なんとなく窮屈な暮らしなんだろうなあ、とは察せられるけども。
と。そんなどうでもいいことしか考えられない程度には、俺の頭は働いていなかった。
そもそもバスに乗ったら思う存分寝ようと思っていたのに、蓋を開けてみればこのザマだ。片道二時間の道程、ここまでの試練になろうとは誰が想像できたであろうか。
もちろん、理由の八割ほどは例の異形との遭遇による心労である。いくら邂逅が一瞬だからといって、その恐怖も一瞬で忘れ去れるほど都合の良い神経はしていない。
だが。残りの二割は、言うなれば人災とでも呼ぶべきものだ。
終始やいのやいのと騒ぎ立てていたクラスメイトの一団が、カラオケ大会なるものを勝手にやり始めたのが一時間ほど前。よほどテンションが上がっていたのか、車内に俺のような人間がいることなど考えも及ばなかったらしい。
おかげでまんじりともできず、なんなら頭痛までしてくる始末だ。パリピどころか騒音公害、デモもびっくりのやかましさである。機動隊に催涙弾とかぶっかけられてほしい。
とにかく、そういうわけで。バスから降り、諸々の説明をされている間も、俺の思考は停止したままだった。
「あー、ねっむ……くぁwせdrf」
出来損ないの欠伸とともに、自分でも認識できない謎の言語が口から溢れ出す。
かろうじて周りを気にするだけの余裕は残っていたが、それもいつまで持つか怪しいものだ。このまま動き続ければ、遠からず立ったまま寝落ちすることは想像に難くない。
「——集合は15時、各自でバスに乗り込んで点呼を待つこと。以上、解散!」
今にも落ちそうな瞼を擦りながら、ぼんやりと前方へと視線を移動させる。
教師の一声が示す通り、ここから先は自由行動のスケジュールとなっているらしい。むろん自由とは名ばかりであり、その実態は事前に組んだ班単位での行動だ。班ってほんと一部の人間に優しくない文化だと思うんですよね、ええ。
統率されていた生徒たちの群れが堰を切ったように乱れ、やがて無数の小さなまとまりに別れていく。
いくつかの元気な班などは、解散の瞬間から既に意気揚々と出発していた。例のパリピ組、バスであれだけ騒いだのにまだやる気なのか……どこからその体力が出てくるのか、不思議を通り越していっそ恐ろしくなってくる。
「……さて」
こんなところで他人の観察をしても仕方がない。俺は俺で、自分のすべき事をしよう。
まずは第一ステップ。速やかに俺と同じ班の集団を探し出し、その集団の後ろへと忍び込む。気分はスネーク、バーチャスミッションの開始を宣言したいところではあるが、そこはぐっと我慢して潜入の一手だ。
きたぜ、ぬるりと……といった感じで後ろにつけば、誰に目くじらを立てられることもない。これ幸いと歩調を合わせ、つかず離れずの位置をキープする。
ここで重要になるのが、前方の集団との距離だ。近すぎると煙たがられるし、遠すぎると単独行動をしていると思われる。
俺としてはソロプレイ大歓迎なのだが、一応班という単位が設定されている手前、それに反する行動は他の班員に迷惑をかける事にもなる。わざわざ入れてもらった身である以上、迷惑をかけるのは俺としても本意ではない。
そうした諸々を勘案した結果、行き着いたのがこの空気作戦なのだ。これならば、ただこうして歩いているだけで、お互いの精神的な安全が約束されるのである。ステップが一つしかないという質問は受け付けません、念の為。
更に、だ。この作戦、副次的効果として、ある程度行動の自由が保証されるという特典までついてくる。
無論十割楽しむという訳にはいかないが、何事にも妥協は付き物だ。そも、この行事に参加している事実が妥協そのものなのだから、問題はもはや無いといってもいい。
「問題なあ」
……強いて言えば。先の異形の一件は、心に引っかかっているのだが。
もっとも、別に探したからといって見つかるわけでもなければ、見つかったとしても俺にはどうすることもできない。腑に落ちない点もあるが、現状では心の隅に留め置いておく以上のことができないのも確かだ。
まあ、そういったわけで。
俺は由緒ある京都の街並みを眺めながら、それなりに思い出に残る遠足を過ごそうと思っていたのであった。
どれだけ今が厳しくても、時が経てばこれもいい思い出に変わるでしょう。はい、おわり。
「うわぁ……そのポジション露骨すぎない? 浮いてますって宣言してるようなもんだよ」
「帰れ」
はい、嘘です。セカンドシーズン開始。
もちろん、それほど都合よく物事が進むはずもなく。
完全なステルス機能を展開していた筈の俺に話しかけてきたのは、誰であろう魚見である。というかお前、俺に絡んで来すぎだろ。なに? 近くにいた俺が悪いの?
「や、その扱いはさすがにひどくない? わざわざ気を使ってこっちまで来てあげたんだけど」
「余計な気遣いなんだよなあ……」
だいたい、俺がこの班を選んで入れてもらったのも、元はと言えばこいつとワンセットで扱われることに嫌気がさしたからだ。この班に入りたい、そう言った時の女子の視線と言ったらもう……おおう、思い出しただけで背筋が凍る。
まあ、俺のしくじり体験談はこの際置いておくとして。根本的な問題、それはもっと別のところにある。
スクールカーストという、学生にとっては絶対の不文律。それに囚われず、あまつさえカーストで隔てられた壁を自由に行き来できるポジションにあるはずのこいつが、何故よりにもよって俺のような奴にこうも執拗に絡んでくるのか……という話だ。
こいつの班がどこかは知らないが、間違ってもぼっちになるということはない。友人関係の経験値などゼロに等しい俺ではあるが、こいつに関してはそう断言できる。
どのクラスメイトとも等しく絡めるこいつは、どの班に入っても潤滑油として機能する。そんな人間がわざわざ班を抜け出してまで、俺と絡みにくる必要性は皆無だ。
百歩譲って、入学して間もない時期ならばまだありうるだろう。友人の少なさで心細くなったり、相手のキャラを把握していなかったり、等々。それでコミュニケーションの取り方を間違って……いや、この話もやめておこう。無闇に傷口を開く必要はない。
ともかく。今は5月、入学して一ヶ月も経っている。
こいつのことだから、俺の素性などとっくの昔に把握しているはずだ。その上でなお、執拗に話しかけてくるということは……。
眠気を跳ね除けるようにようにして、俺の脳が高速で回転する。
こいつの不可解な行動を、一体どうすれば説明できるのか、非常にどうでもいい思考の末に指し示された答えは——そう、
「何考えてるのか知らないけど、多分違うと思うよそれ。僕の班、メインの奥山くんが抜けたからなんかギスギスしてるんだよね。友達の友達的なアレ? 面倒だし適当に抜けてきた」
「おい、妙に生々しい話やめろ」
どこかで聞いたようなシュチュエーションに、胃がキリキリと痛むような感覚が蘇る。
何だよ、てっきりグループで除け者にされてるとかそういう展開かと思ったのに。というかその類の話の方がまだ救いようがあったぞ。
「別の班に合流することも考えたんだけど、空気を壊すのも悪いかなぁって思ってさ。その点ぼっちなら安心だよねぇ」
「今まさに俺の空気を壊してるわけだが、その辺についてはどうなんだ」
「いいんじゃない? 元から浮いてるんだし、むしろ壊されてトントンな気がするけど」
言葉の弾丸によって、いとも容易く否定される俺の人権。何だ壊されてトントンて。
「一応言っとくが、俺は好きで独り身をやってるんだからな。その辺の三流とは違う」
言われっぱなしの現状を打破するため、ささやかながらも言い訳による抵抗を試みる。
事実、中学校では少数ではあるが友人と呼べる関係の人間はいたのだ。それも転入後の一年で作れたのだから、小学校からの旧知の仲というわけでもない。
言ってしまえば、他人との距離感を掴む事が下手くそなだけなのである。そもそも身の回りにはあんな姉しかいないし、子供時代は転校続きでろくに仲良くなる暇もなかったし……これ、悪いのは俺じゃなく環境なんじゃないか?
「やめといた方がいいんじゃない? それ、言えば言うほどドツボにハマってくパターンだよ」
「……自覚はある」
「だいたい、本当に思い当たる節がなかったら、そんな躍起になって否定しないと思うんだけど。その辺どうなの?」
うるせえ、ほっとけ。
必死の弁明はすっぱりと否定され、流れるような反撃が俺の心を抉る。そういう心無い一言がですね、我々のような人間を傷つけているんですよ。いい加減理解して頂きたい。
「そもそも君の場合、自分から出会いのチャンスをふいにしてる方が多いんじゃない? これでもかってくらい寄ってくんなオーラ出てるし、あれじゃ誰も絡みにいかないよねぇ」
「んだよそれ……そんなもん出してる覚えないぞ」
「いやいや、考えてみなよ。休み時間もご飯時も、教室の隅っこで突っ伏して寝てるだけ。そんな人間に好んで近づく奴なんていると思う?」
お、やべーなこれ。言い返せんぞ。
寄ってくんなオーラ強そうとか、そういった至極どうでもいい感想しか出てこない。むしろそれが一番傷つかない答えな気がする。
魚見にどういった答えを返そうか、苦心しながら遊歩道を歩く。ちなみにこいつを追い払うことに関しては既に諦めた。人間諦めが肝心、古事記にもそう書いてある。
「で結局、君たちの班はどこ目指してるわけ?」
「あー、どこだったかな……清水寺?」
「真逆だよそれ。まさか行き先も教えてもらってないとか、そんなオチじゃないよね?」
そんなオチだよ、悪いか。どうせ聞いても聞かなくても、黙って後ろからついて行くことに違いはないんだからいいんだよ。
実りのない弁論を切り上げる意思を示すため、魚見からすっぱりと視線を外す。彷徨う意識の向かう先は、眼前に固まっている集団だ。
少し前にいる我らが班の皆様は、完全に平常運転のまま楽しそうに談笑に興じている様子だった。変に意識されるとこちらとしても居心地が悪いので、空気扱いされることには全く文句はない。
とはいえ、残念ながら現在は信号待ちだ。肌に刺さる妙にピリついた感覚が、居心地の悪さをダイレクトに伝えてくる。
こういう時に限って注意でも向けられようものなら、微妙な空気感になることは想像に難くない。ここは慎重かつ大胆に、ポジションを調整させてもらうとしよう。
やけに長い、汗さえ流れ落ちてきそうなほどの待ち時間。それを経て、信号がようやくその色を青に変える。
前方の集団から目を離さないようにしつつ、安全な距離を確保する。出来るだけ存在感を消すよう努めながら、横断歩道へとようやくの一歩を踏み出した。
——そして、そこから先。いくつもの出来事が、雪崩のように巻き起こった。
引き金となったのは、上空から飛来してきた巨大な物体。
交差点の中心に落ちてきたその物体は、ちょうど真下にいた自動車の上に勢いよく不時着する。
「……マズい!」
そう叫んだのは誰の声だったのか。正確なことなど何もわからないまま、腹の底に響く鈍い衝撃と轟音が全てを上書きする。
離れた場所にいる俺までもがはっきりと感じ取れるそれに、当事者であるその車が耐えられるはずもない。フィクションでしか見られないような破損の仕方をしたその車は、上に謎の物体を乗せたまま大きくスリップし、たちまち多くの車を巻き込んでいく。
車から車へ、あるいは周辺の建造物へ。爆発さえ伴ったその連鎖が終結するまで、俺にできたことは眼前の光景を眺めることだけだった。
……あと1分か、数十秒か。何れにせよ、もうしばらくすれば、周囲の人間は事態を飲み込み始めるだろう。
衝撃が通り過ぎれば、次にやってくるのは混乱だ。パニックは既にその予兆を見せ、猶予はもう幾許も無い。
だが。今の俺にとって、そんなことはどうでも良いことだ。
衝撃も轟音も、全員に等しく伝わっているはずだ。
車は大破し、柱はひしゃげ、爆心地では炎が揺らめいている。この惨状が、俺にしか見えていないものだとは到底思えない。
なのに——何故。何故、誰一人として、原因となったものに目を向けないのか。
「……ああ」
溢れ出す吐息は失望でも絶望でもない。ただ単に、現実が確認できたことに対する呟きだ。
これで。今度こそ、勘違いの余地など無くなった。
思い違いでもなんでもない。この大事故の元凶——自動車の上に降り立った異形の姿は、やはり俺以外の誰にも見えていないのだ、と。
理解していたつもりだった。否定しながらも心のどこかで、それを受け止めていたはずだった。
それでも。いざ目の前に突きつけられた事実は、途轍もない重みを伴って俺を押し潰す。
——しかも、だ。この異形、先の遭遇時とは明らかにその容姿が違う。
その体色は、黒からより灰に近しい色へ。より人型に迫った身体は、直視するのも痛ましいほどに歪そのものだ。
人間の肉という肉を削ぎ落とし、強引に引き伸ばしたような姿が纏う空気は、ある種の美術品とでも呼ぶべき不気味さに近い。3メートルほどの中途半端な大きさも、逆にそのリアリティを増す一因となっている。
バスの中で俺に恐怖を植え付けた、出来ることなら二度と遭遇したくなかった相手。その姿はしかし夢でもなんでもなく、前回よりもずっと近くに存在している。
「……っ」
この絶体絶命の状況で、俺はどうするべきか。
その答えは、しかし案外簡単に出た。
——よし、逃げよう。
答えを叩き出すまでの思考は一秒未満。迷いも逡巡も、そこに差し挟まる余地はない。
至極当然、当たり前の結論だ。俺は救世主でも、ましてやこの状況を変える英雄でもない。
無力な人間がしゃしゃり出るのは、勇気ではなく蛮勇だ。この状況で何も出来ない事は、他でもない俺が一番よくわかっている。
恐怖で震える膝を叱咤し、必死に立ち上がる。
炎と煙の向こう、その単眼で何かを探しているような異形の姿。そこから目を離さないまま、一歩ずつ、だが確実に後退し始めた。
……そう、ここまではよかった。百点満点ではなくとも、80点くらいなら取れていた自信はあった。
決断の速さも、実行に移すまでに要した時間も。ずぶの素人にしては上々の行動だと、胸を張って言うことが出来る。
だから、誤算があるとすれば。
じりじりと、焦れるような速度で後退していた俺のすぐ横を、小型の自動車が駆け抜けていったことくらいだろう。
何をそんなことで、と笑われるかもしれない。
だが。背後から迫ってきた車が凄まじいスピードで——しかも、どう考えても「投げられた」としか思えないような形で、自分の真横を突き抜けていったとしたら?
豪快に跳ねつつ転がっていった軽自動車が、運の悪いコンビニへと直撃する。もちろん、その軌道上にいた人々も例外なく巻き添えだ。自動車の軌跡上に、炎と血が華々しく咲き乱れる。
目の前で展開される、現実味のまるでない光景。氷漬けになった視線を無理矢理に動かせば、そこには俺の姿を映す異形の単眼があった。
……いや、違う。
事ここに至って、俺はようやく理解する。
奴の目標は決まっていた。奴にとって、端から俺以外は獲物ですらなかったのだ。
「……あ」
空回りする思考を証明するように、口から気の抜けた声が漏れる。
奴を一度見たことがあるという事実、それも素早い判断の手助けはなっただろう。しかし、俺が即座に逃走を選択できた一番の理由は、狙われていないという余裕があったからだ。
だが。その余裕も、こうなっては何の意味もない。
彼我の距離を射抜く視線と圧倒的な恐怖に、無理矢理立たせた膝が砕けていく。
獲物を認識した異形の両足に力が篭り、地面を大きく蹴り飛ばす。その巨躯が凄まじい速さで一直線に飛びかかってくる光景を見てもなお、俺は動くことすらできなかった。
……あぁ、ダメだ。わずかに生き残っている思考回路が、単純明快な答えを導き出す。
「——走って」
何の面白みもない、至極ありふれた俺の結論。
それをひっくり返したのは、たった一つの異分子だった。
突如として、俺の前に割り込んだ人影。刹那の間に俺の前へと飛び出したその男は、迫り来る異形と交錯し、俺の眼前で拮抗する。
その手にあるのは、現代日本ではおよそ見ることもないような「武器」。中世の戦争で使われていそうな、無骨という他に表現のしようのない刀剣が、異形の鋭利な爪とかち合って火花を散らす。
「いいから走れ! はやく!」
——誰であろう、魚見恭平がそこにいた。
「……は?」
急過ぎる展開についていけず、まとまりを失った思考が溢れ出す。
この状況を前にして、なお間抜け面で異形と魚見を交互に見やる俺。その姿は、端から見れば馬鹿そのものにしか映らなかっただろう。
世にもおぞましい異形は俺にしか見えておらず、しかもその異形は俺だけを狙っている。そう思っていたにも関わらず、魚見は異形の正体を知っているかのように振る舞い、あまつさえ鍔迫り合いを演じている。
目の前で広がる、キャパシティを大幅に超えた非日常。世界のデタラメさを前にして、俺は立ち上がることも、恐怖を感じることすら忘れていた。
……あるいは。ひょっとしたら、俺は安心していたのかもしれない。
孤立無援の状況をひっくり返した、颯爽と現れたヒーロー。彼がこの危機をも簡単に解決してくれると、心のどこかで身勝手に期待していたのかもしれない。
——が。
「ああもう、こんなに早いなんて想定外だ! こんなことならロックを外しておけば……!」
何事か呟く魚見の声に、確かに苛立ちと焦りが混じる。必死に歯を食い縛るその表情に、いつものような余裕は微塵もない。
圧倒的に不利な状況で、それでも強引に維持させていた膠着状態。もとより不可能に近いそれを成立させることにどれほどの力が使われていたかは、魚見の顔を見れば簡単に理解できる。
5秒。10秒。苦しげなその声に呼応するかのように、彼の体は少しずつ、だが確実に押され始め——
「——っ、」
そして。魚見の視線が、未だ動けない俺の方へと僅かに向いた瞬間。
まるで待っていたかのように、遂に戦況が変化する。
「やば……っ!」
振り払われた異形の細腕——それは体勢を崩した魚見を容赦なく打ち据え、一瞬のうちに数メートルの彼方へと吹き飛ばした。
弾き飛ばされ、宙を舞う彼の得物。それよりも数段凄まじい勢いで浮き上がった魚見の身体が、背中から建物の壁へと突き刺さる。
「ぐ、ぁ……がは、っ」
苦痛の呻きとともに、赤黒い塊がその口元から溢れ落ちる。とっさに防御体勢らしきものはとっていたものの、深手を負ったことは疑いようもない。
「え——は?」
刹那の間に起こった、目まぐるしい状況の変化。それについて行くことなどできるはずもなく、呆けた顔で立ち尽くす。
それは、たった数秒にも満たない空隙。
例えるなら、ボールの行方を思わず目で追ってしまうような。人間の自然な反応が生み出した、ごく僅かな時間だった。
しかし。その一瞬は、俺の運命を決めるには十分すぎる。
——気づいた時には、もう手遅れだった。
「あ……が、あ」
反応する暇などあるはずもない。瞬く間に接近した異形の腕が、俺の首を簡単に吊り上げる。
いったいこの細い腕の何処に、これほどの力があったのか。欠片も理解できないまま、ばたつかせた足は虚しく空を切る。
あらん限りの力を振り絞ろうとも、異形の手首を掴むまでがせいぜいだ。魚見でさえ不可能だったのだから、常人の俺が一矢報いることなどできるはずもない。
意識の灯が急速に薄れる。恐怖心さえ形も残さぬまま、全てが混ざり合って溶けていく。
「……ぅ、ぁ」
抵抗すらも諦めた脳裏は、最期を悟ったのか走馬灯を流し始める。
現実から目を背けるようにして目を瞑れば、去来するのはあの駄目な姉の姿だ。
数時間前、出発する時に見た彼女の姿。いつもと何ら変わらぬそれが、確かな形を持って瞼の裏に浮かび上がる。
申し訳ない、とは思う。親不孝ならぬ姉不孝者であることも承知の上だ。一人残されたと知った彼女がどんな顔をするのか、その様子が手に取るようにわかる。
やけにはっきりとその姿が映し出されているのは、これが死の間際に見る幻影だからなのだろうか。ピントの合わない思考回路では、その程度のことを考えるのすら困難だ。
……そして。
死の淵にあってなお、そんなことを考える俺を嘲笑うように。
事態は俺に構うことなく、更に予想外の方向へと深化する。
『なあ、いつまでそうしてるつもりだ?』
幻影が、口を開いた。
声も口調も、普段の姉とは似ても似つかない。どこかで聞いたことのある声色は、嘲笑うような声色を含みながら俺に語りかける。
『諦めろよ。どうせ逃げられやしない』
驚愕する暇もないまま、その姿がドロドロになって溶けていく。
瞼の裏で踊るのは、目視することすらも不快極まりないスライム。醜悪そのものといった形のそれは、新たな形を取りながら尚も笑う。
——其処に居たのは、俺だった。
新たに形作られたのは、外でもない『俺』自身の姿。あまりにも悪趣味な鏡は、ニヤついた声で諭すように語りかける。
『最初から知ってるだろ? お前の本質なんてそんなもんだ』
「っ——」
瞬間。言葉にすることすらできない衝動が、俺の中を駆け巡った。
正体不明の『俺』の声に、思考が呼応するかのごとく。極度の混乱、そこに追い打ちをかけるようにして、記憶にない映像が脳内に流れ込む。
抜け落ちと虫食いに埋め尽くされた、まるで見覚えのない映像の断片。それらはさも最初からあったかのように、俺の中に浮かんでは消えていく。
いくつかの顔があった。見覚えのない多くの顔、名も知らぬ施設のような建物。
その中にどこか懐かしいものがあったのは、俺の気のせいなのだろうか。
それらは雲を掴むように判然とせず、認識をする前の刹那に搔き消える。夢よりもなお儚い、平時であればデジャヴとして片付けてしまえる程度のものでしかない。
それでも。きっかけとしては、これ以上ないほどに十分だった。
今まで俺の中に潜んでいたのが不思議に思えるほどの、巨大で歪な何かの影。途方もない圧力を持ったそれは、弾かれたようにしてその姿を現す。
死にたくない。
その感情が、唐突に身体の奥底から溢れ出る。
理由も原因もありはない。激しい生への執着だけが、ただひたすらに俺の身を焦がしていく。
こんなところで死んだら、何も果たせないまま終わってしまう。
まだ死にたくない。まだ生きていたい。まだ、まだ、まだ——!
『結局、お前は逃げられないんだよ。お前の意志なんて関係なくな』
渇望に喘ぐ俺の思考、その中で『俺』が不気味に笑う。
これから何が起こるのか。これから、俺が何をするのか——その先の先すら、見通しているというように。
『おいおい、俺なんかに構ってていいのか? やるべきことなら目の前、だろ』
目を開けば、異形の瞳が変わらずこちらを射竦めている。
文字通り目前に迫るのは、形をとった「死」そのもの。その眼光の圧力は、俺の体を万力のごとき力で締め付ける。
……ああ、そのはずだ。
異形の恐ろしさも、その大きすぎる存在感も。初めて見た時から、何一つとして変わっていない。
——なのに。
今ここにあるのは、混じり気のないただ一つの感情だけ。脳裏を埋め尽くしていた恐怖すら、今となっては欠片すら残されていない。
『さあ、どうする? 決めるのはお前だ』
声が響いた時、既に行動は終わっている。
決断など、する時間すら不要なものだった。
急転直下。次回、バトル開始です。
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