1−22/立つ鳥跡を濁さず
揺れ動くふたつの視点。揺れ続ける心情と、揺れることのないひとつの衝動。
とるべき行動など、悩むべくもない。
人造神器を再起動。凍結した右足首を速やかに切断し、そのまま前方へと滑り込む。
1秒が永遠に感じられるほど減速した世界で、一息に組み上げられた行動方針。それは僅かな逡巡さえもなく、確実なビジョンを伴って実行へと移される。
その、直前で。
前触れなく現れた人影が、俺の手首をむんずと掴み——
そして。息つく暇もなく、世界が反転した。
奇妙な浮遊感の後、一瞬前とはまるで違う光景が飛び込んでくる。
モニタとパソコンがこれでもかと居並ぶ部屋に、こちらを食い入るように見つめる人々。恐らくは管制室と思しきその部屋の中でひときわ大きな反応を返すのは、この場で唯一といえる俺の知り合いだ。
「きみがここまで命知らずだったとは知らなかったよ、雨宮くん」
「……ああ、俺もだ」
混乱する俺の頭を叩き起こすかのように、冷水がわりの言葉が浴びせかけられる。とっさに気の利いた言葉のひとつも捻り出せず、間抜け極まりない答えを返してしまう。
……いやでも、こうなるのは仕方のないことだと思うんですよね。文字通り絶体絶命の危機に陥っていたはずが、気づけば五体満足でこんな場所にいるのだから、これはもう混乱するのも止むを得ない。大勢の視線を受け止めるには、俺はまだまだ修行が足りないようだ。
「俺もだ、ではないでしょう。事態をもっと重く見るべきだと思いますが」
なんとも居心地の悪い、身を捩ってしまいそうな気まずい空気。冷たい、というよりは生温いそれを叩き切ったのは、背後から聞こえてきた声だった。
生半な温度など通用しない声色は、さながら絶対零度のごとく。振り向いた先にあった、数少ない俺の見知った顔は、こちらを射抜かんばかりの視線を放っている。
「あー、まあ……その、なんだ。ありがとう、助かった。あんたがいなかったら死んでた」
「私に謝らないでください。そもそも、必要なのはその状況になったことへの謝罪では?」
俺の浅はかな感謝の言葉など、最初から見越しているというふうに。いつも以上に冷ややかな水無坂の切り返しに、痛いところを突かれて押し黙る。
もちろん、その言葉自体に嘘はない。状況証拠から考えても、俺を救出したのが彼女であろうことはほぼ間違いのない事実だ。
何時ぞやの昼間、ショッピングモールで見せつけられた彼女の能力——あれが瞬間移動の類だと言うのなら、先程の救出劇にも辻褄が合う。恐らくは危険を承知であの場所へと飛び込み、直後に交戦中だった俺ごと転移した、という筋書きなのだろう。
言うまでもなく、想像を絶するほどの危険と覚悟が必要だったはずだ。それを涼しい顔でやり遂げるあたり、彼女の胆力は並大抵のものではない。
「それでも、あんたが助けてくれたことには変わりないだろ。頭くらいは下げさせてくれ」
とにかく、だ。ここで頭を下げないというのは、俺個人の信条として納得がいかない。沽券やら意地やらを通すべく、半ば以上強引に頭を下げる。
「……せめて、後にしてください。非常時にこんな場所でやるようなことではありません」
対する水無坂もさすがに辟易したのか、端正な眉を寄せて僅かに言い澱む。
もっとも。それは根負けしたというよりは、俺の態度に呆れ返ったという方が近しいものだ。
その眼に宿る色こそ非難の色が強まっているものの、表情はまったくもって変わっていない。あくまで通常運転のまま、冷たい視線だけが俺に突き立てられている。
……だから。
たった一瞬。その表情に、まったく別種の揺らぎが見えたのは、きっと俺の思い違いだったのだろう。
「はいはい、口論はそこまでだ。雨宮くん、君には色々と聞きたいことがあるから覚悟しておくように。水無坂くん、本当にお疲れ様だった。勲章ものの活躍だったよ」
取りなすような口調で割って入った博士が、殊更に大きな音を立てて手を叩く。静まり返った空間に響いたその音で、硬直していた時間がようやく動き出した。
部屋全体が我に返ったかのように、各々の業務を一斉に再開し始める。場を埋め尽くしていた静寂は、遅れを取り戻す勢いの騒々しさに飲み込まれて瞬く間に霧散した。
「それでは魚見くんと合流するので、私はこれで」
「ああ、気をつけて。雨宮くんはこっちで預かっておくから、恭平にも伝えておいてくれ」
再び動き始めたこの場所は、どうやら俺の見立て通り研究部の中枢らしい。あのとき飛び出していった博士の目的地と同じと仮定するならば、ここが管制室ということになるか。
多くの情報が錯綜する中、聞こえてくる水無坂と博士の会話に耳を傾ける。どうやら魚見も何かしらの形で関わっているようであるが、奴がこの件にどんな形で絡んでいるのかはまったくもって不明瞭だ。
俺が未だ本調子ではない頭を回す一方、とんとん拍子で話を終わらせる水無坂。仮にも救出したはずの俺の処遇はもはやどうでもいいのか、こちらに一瞥さえくれることもない。
「では。おつかれさまでした」
最後の言葉が聞こえてきたときには、彼女の姿はもうどこにもなく。
すっかり平常通りに戻った、未練の一切ないその態度。安心すら感じさせるそれが、かえって俺に事実をより強く認識させる。
無論、その扱いに不満があるわけもない。むしろ仕出かしたことを冷静に考えてみれば、この上ない温情だと思えるほどだ。
「…………」
思い起こすのは、たった数分前にも満たない出来事。紛れもなく事実であるはずの命のやり取りは、しかし既に意識から遠く離れたところにあった。
あの時と——星屑のときと同じ。記憶の欠落などないはずなのに、実感がまるで伴わない。例えるなら数年前に見た映画のような、恐ろしいほどに現実味のない事実としてラベリングされている。
身を焦がすようなあの衝動も、身体中の血が沸騰するような感覚も。戦闘に幕が引かれた瞬間、すべてが名残すら残さず、夢のように消え去っている。特定の思考だけが意識から綺麗さっぱり消失し、影も形も残っていない。
……だが、それは。逆説的に表現すれば、あの思考は、戦闘が続く限りは継続すると宣言しているようなものだ。
もし、だ。あり得ないIFの、もしもの話。
あのとき。仮にあのとき、水無坂の助けが無かったら? 予想外の助け舟など存在せず、ただ己の力のみであの状況を切り抜けねばならなかったとしたら?
最善手は既に選ばれていた。そして、それを実行に移す判断も、あの段階で下されていた。
だとすれば、俺は。俺であるはずのものは——
『つまらない横槍が入った、だろ? ああ、それがお前の本心だ。なら、何を誤魔化す必要がある?』
……黙れ。
『あの時どうなっていたかなんざ、考えるだけ無駄だろう? お前は常に、戦闘における正解を選び取る。何度やり直したところで、お前は決定された答えに従って動く以外にない』
「うるさい——」
『おいおい、俺はただの代弁者だぞ? 目を背けるのは勝手だが、怒りの矛先を向けられても困る。お門違いも甚だしいってやつだ』
五月蝿い。消えろ。
揶揄うように、あるいは嘲笑うように。
胸の内に漂う空虚な欠落、そこから這い出た声が見透かしたように笑う。腹立たしいその声をどうすることもできず、ただ蓋を被せて視線を彷徨わせる。
「……ああ、くそ」
目前の数あるモニタのうちひとつには、件の第二資料保管室が映り込んでいた。
逃げるようにそこに視線を飛ばせば、それを待っていたかのように映像が大画面へと移される。端々から聞こえてくる会話を聞くに、どうやら突入予定の部隊が到着したらしい。
だが。映し出されたそこには、どうしても拭いきれない違和感があった。
「主任、こちらの準備は完了です。映像、いつでも出せます!」
視界外から聞こえてくる声と、すぐさま無言で頷く博士。部屋全体に緊張が走った直後、大写しにされた映像にモザイクがかかる。
徐々に鮮明になっていく、モニタの向こう側に広がる光景。しかしそれは、先程までの映像——「何もない」ことを無言で訴えていた、明らかに細工されていたそれとは似ても似つかない。
「っ……」
露わになったその様子に、モニタを注視する研究員の誰かが息を漏らす。
撒き散らされた数々の書類に、焼け焦げたような痕があちこちに残る床。強盗にでも入られたような、荒れに荒れたその有様は、しかし今に限ってはこの上なく信用が置ける。
——間違いない。今度こそ疑いようもなく、俺が謎の男と交戦した部屋そのものだ。
あの戦いから数分と経過していないことを示すかのように、未だ人の気配が残ったその場所。恐らくは襲撃者が施した偽装、その細工が剥がれた監視カメラの向こうでは、今まさに人影が侵入したところだった。星皇軍の正規部隊と思しき彼らは、慎重に慎重を重ねた様子で周囲の物品を検分していく。
「手遅れか……いや、ご苦労だった。一旦こちらに合流してくれ。指示は追って出そう」
が。
明らかになった部屋のどこにも、目当ての人物は存在しない。もぬけの殻になった保管室に目をやった後、苦々しげに博士が口を開く。
——今更言葉にするまでもない。終始俺を圧倒したあの男は、たった数分にも満たない時間のうちに、あの場から苦もなく逃げ果せてみせたのだ。
戻ってきた部隊の隊長格らしき男が、深刻な様子で博士と言葉を交わす。分かりきっていたことではあるが、その表情を見る限り到底楽観視できるような状況ではないらしい。
事態の全容はいまいち把握しきれていないものの、大きな騒ぎになっていることは周囲の人々を見ても明らかだ。とてもではないが、俺が入り込めるような空気ではない。状況次第によっては、この緊急体制が数時間続くことも十分にありうる。
……そんな中。当然といえば当然だが、俺にやることがあるわけもない。
一命を取り留めたといえば聞こえはいいが、俺の置かれた現状は裁きを待つ罪人だ。待機命令を二度も蔑ろにできる度胸もない以上、何もしないのが一番理に適っている。
管制室の隅へもぞもぞと移動し、なるべく存在感を消して縮こまる。知り合いの安否確認でもしようかと思ったが、そもそも知り合いなど数えるほどもいないのが現実だ。分けても連絡先などほぼ持っていない、どころかそのうちの一人には逆に助けられてしまったのだから、余計なことなどできるはずがない。
「よし、こちらの状況は概ね把握できた。本部からの報告では、外の幻影も今しがた全て消滅したとのことだ。警戒態勢を維持しつつ、まずは傷病者の確認を——」
俺がそんなことを考えている間に、博士は話を纏め終えていたらしい。
人の上に立つ者特有の、迷いのない的確な指示。各方面にテキパキと下されたそれに従い、各々が行動を次の段階に移行し始める。
博士の口調を聞く限り、襲撃者は撤退したということだろうか。外の幻影という単語が気になるところではあるが、どうやら事態は思ったよりもよほど速い速度で収束しているようだ。もっとも、事後処理という意味では、むしろここからが本番と言えるのかもしれないが。
「雨宮くん、君は重要参考人だ。指示があるまでここで待機しているように——いいね? 確かに言ったからね?」
「はい」
ええ、もちろん存じております。脱走、ダメ、ゼッタイ。
完全に自業自得とはいえ、途轍もない肩身の狭さもあったものだ。ハイになってやったことに後から苛まれる、結構あると思うんですよね。人はそれを黒歴史と呼ぶらしい。
居ても立っても居られず、逃げ込んだ部屋の隅で一人目を閉じる。冷え切った頭の芯へと意識を集中させれば、数々の感情が浮かんでは消えていく。
明確なまとまりを持つこともせず、砂のように崩れて消えていく雑多な思考。泡よりも儚いその群れを掴むことは叶わず、そもそもその名前すら曖昧だ。
——だが。
たったひとつ。折り重なった感情の澱に見え隠れする、確たるものがひとつだけ。
『忘れるなよ? 全部、お前が望んだことだ』
見覚えのある顔と、聞き飽きたほど聞いた声。不愉快極まりないその存在は、神経を逆撫でするがごとく笑い続ける。
この感情に、あえて名前をつけるとするならば。それは、きっと——。
『雨宮俊』、自分自身だけあって随分と煽りが的確。
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