EX-8/報恩、あるいはピリオドのうちかた
2ヶ月ぶりの投稿ですが、内容は後日談そのものです。
待っていて下さった方にも、初めましての方にも、感謝を込めて。
人に誇れる点も、人と違う点もない。それが、雨宮俊の平凡な人生に対する自己評価だった。
なぜ過去形なのかといえば、最近自慢できるものができたからである。別に己の努力で手にしたものでもないが、他人が持ちえないものを持っているというのは、密やかな優越感を生み出すものだ。
まあ──結局、何が言いたいのかというと。
クラニアで働けていることは、想像以上の幸運である、という話なわけだ。
同僚は元気いっぱいのコミュ強美少女、店長は優しい初老の紳士。この上更には、差し入れに絶品のサンドイッチやらコーヒーやらまで付いてくる。時間によっては多少忙しくなることもあれど、これ以上を望めばバチが当たること請け合いだ。
シフト如何によっては、店を閉めている間に軽いお茶会も楽しめる。何かと面倒な性格をしている俺ですら、この待遇を用意してくれた彼女には感謝しかない。
だから。
今まさに、その恩を仇で返している俺は──きっと、とんでもない裏切り者ということになるのだろう。
「…………………」
沈黙。重すぎるそれに耐えきれず、目の前のコーヒーをぐびりと呷る。
平時なら絶品と思えるそれも、今現在に限ってはただの黒い液体でしかない。ことのほか温いそれは、ここまでの話が想定以上に長くなったことの証明だ。
「…………結局、先輩はどうなったの?」
「「見つからなかった」とだけ。それ以外のことは、どれだけ聞いても梨の礫だ。……もっとも、軍としてもそれ以上のことを把握してない、って可能性も高いけどな」
絞り出されたその声に対し、ただ淡々と事実だけを言い連ねる。
事務処理のようなそのやり口は、彼女にとってあまりにも酷な宣告だ。当然、それを口にする側の気分がいいわけもない。
「なんで、教えてくれたの?」
「あいつの──樋笠からの頼みだ。降谷が知りたいって言うなら、その時は……ってな。だから、俺の知ってる範囲で、分かってる事実だけを教えた」
「…………いいの、かな。わたしだけ、こんな──」
その言葉の裏にあるのは、自分だけが特別扱いされることの後ろめたさか。あるいは、真実を知ってしまったが故の恐ろしさもあるのかもしれない。
「喋っちゃダメな話だよね、これ。……軍とか、先輩のご実家とか、大丈夫なの?」
「軍には予め許可を取ってある。樋笠の実家からは、好きにしてくれって返事が来た。……ようやく縁が切れる、って口ぶりだったよ」
予め裏を取っておいた回答が、口からすらすらと滑りだす。ここまで平然としていられるとは、我が事ながら詐欺師のような口ぶりだ。
もちろん。いかな俺とて、好き好んで降谷にこんな仕打ちをしたいと思うはずがない。いくら当人が望んだからといって、伝えないという選択肢は十二分に取り得ただろう。
だが、それでも。
約束は、果たさねばならない。
「1224事件」と。書類上ではなんの捻りもなく呼称されるあの出来事は、しかし軍部では「第2事件」と呼ばれている。
曰く、結界の内部で起きた事件としては、カイン侵入に続いて2つ目のものであるからだとか。或いは、S級星屑襲来に勝るとも劣らない、2つ目の重大な事件であるからだとか──センスのない名前の由来は色々と邪推もできるが、最大の理由はもっと単純だ。
あの事件の存在が明るみに出れば、軍の信頼は地に落ちる。それを少しでも抑えるために、なるべくクリスマスと関係の無い名称を選んだ、言ってしまえばそれだけの話。
……クリスマスに、何の事件も起きなかったと。あの時の俺に話しても、とても信じようとはしないだろう。
樋笠の姿を見送ったのが、ちょうど日付が25日に変わるあたり。そこから9時間ほど、俺と魚見は一睡もせず、交代で見張りを続けた。
“ソーニャ“と名乗る何者かと、更にそれを操る黒幕の存在。それを取り逃してしまった以上、再襲撃の可能性はゼロとはいえない。まして俺たちしか戦力が残っていないとなれば、否が応でも気が引き締まるというものだ。
死にかけの肉体に、限界をとうに飛び越えた精神。地獄のような空気感の中、意識をヤスリで削り取られるような9時間が過ぎ──
そして。
驚くほどに。何事もないまま、朝が来た。
去る12月25日、午前9時。
悪夢のような一夜が明け、警備の担当が入れ替わる時間。何も知らず、ただ定刻にやってきた隊員たちの心情がどんなものか──我が事ながら、その内容は察するに余りある。
管制塔周囲は戦闘の余波で踏み荒らされ、内部には真っ赤な臓物がぶちまけられている。そんな中、まんじりともせず立っている、血と泥に塗れた学生二人──そんな光景を前にして、肝を潰すなというほうが無理な話だ。
にわかに色めき立つ隊員たちに対し、状況を説明できる体力など残っているはずもなく。博士が事後処理を引き受けていたことだけは辛うじて記憶に残っているが、そこで魚見ともども限界を迎えてしまったらしい。
次に目覚めた時には、全てが終わっていた。
もはや見飽きたと言っても差し支えない、殺風景な病院のベッドの上。まる1週間ほど寝込んだせいで、後始末どころか年すら越していたのだから、笑い話にもなりやしない。
幸いと言うべきか、それとも悪運が強いと言うべきか。とことんまで体を痛めつけられたにも関わらず、命に関わるようなダメージはひとつとして存在しなかった。星屑の毒を浴びているかもしれない、という理由で検査こそ長引いたものの、それも終わってみれば全くもって健康体だったのだから、もはや己の体が恐ろしくなってくるレベルである。
毎度毎度病院にお世話になっている俺ではあるが、今回に限れば魚見のほうが重症だったようで。度重なる激戦で生命力を使い果たしたらしく、一時はかなり衰弱していたらしい。俺に遅れること3日ほど、丁度三が日が開ける頃には回復していたが、どこまで本調子かは怪しいものだ。
もし。もし、のうのうと惰眠を貪ることなく、事態の収拾に直接関われていたのなら。
それは有り得ない仮定だ。いくら当事者であろうと、所詮は一介の学生でしかない俺たちに、後始末の決定権などあるはずがない。
そもそも素人が首を突っ込んだところで、事態を悪い方向に引っ掻き回すのが関の山だ。いっときの感情で動いた結果がどうなるかなど、わざわざ考えるまでもない。
……だが、それでも。
全てが綺麗に片付けられた後、辻褄が合うような「お話」だけを聞かされたともなれば──有り得ないイフのひとつやふたつ、語りたくもなってくる。
“クリスマスイブの事件は、「不幸な事故」だった“。
野良の星屑が結界の内側に侵入、クラスは捕捉から外れていたはぐれの「A級」。隊員は例外なく病院送り、うち数人は死傷という結果を招いたものの、最終的にはその日のうちに鎮圧された。
体験学習として参加していた学生はいずれも負傷したため、その日以後の実習は即刻中止。実名の公表は無論一切なされず、それどころか概要さえ学院側には完全に伏せられたまま、つつがなく三学期が始まった。
それだけだ。
ああ、本当にそれだけ。軍からも、まして学院側からも、それ以上の公的な通知は何も無い。
丁寧に舗装されたカバーストーリーは、それ以上の詮索を封じ込める。まして非日常が当然となったこの世界にあっては、取るに足りない話題などすぐさまに流れていくのが常だ。
野次馬根性を発揮しようにも、小綺麗にまとめられた話に首を突っ込む余地などそうそう無い。軍部がいくら大変なことになろうと、学生からすれば実感の薄い「向こう側」の話だ。
だから。興味の方向性は、必然的にこちらへと向くことになる。
「樋笠拓海が行方不明」。学園内を駆け巡ったそのニュースが、恐ろしい数の憶測を呼んだことは言うまでもない。
学生が行方不明となること、それ自体は別段珍しい話でもない。不登校ならばまだよし、星屑となって軍部に「処理」される学生すら、1年に数人単位で存在しているのだ。そこに一人追加された程度で怯むほど、我が学園の生徒はまともな感性をしていない。
だが。“あの”樋笠拓海ともなれば、話はまるで変わってくる。
周囲の人間を明るく照らし、片っ端から掬い上げる。そんな男が誰にも事情を明らかにすることなく、行方不明の一言で片付けられる──そんなセンセーショナルな話題が、冬休み明けの教室で取り沙汰されないはずもない。
自殺や鬱といったありがちな予想から、陰謀論に巻き込まれたという話まで。この一週間、山のような数の話題が現れては消えていった。
今回に限って言えば、陰謀論もあながち嘘とは断言できないのだからタチが悪い。学院側からのアナウンスが一切ないのを良いことに、憶測が憶測を呼び、際限のない議論が繰り返された。
中心的な話題を占めたのは、当然クリスマスの一件だ。たとえ公に繋がりが示されていなくとも、ここまで時期が重なっているともなれば、紐付けられるのは当然の流れとも言える。
学生の情報網というのは侮れないもので、いつの間にやら俺が同行していたという話もまことしやかに囁かれるようになった。一時は魚見にも話題の矛先が向きかけたものの、持ち前の口八丁で煙に巻いたのか、結果的に視線は俺一人へと集中することになった。
「みんなのヒーロー」が消えた。
多くの謎が残った。
どうやらそこには、人付き合いの悪い日陰者が関係しているらしい。
噂ですらない与太話が、たった一日で「事実」になった。確定した事実は右から左へと飛び回り、突拍子もない尾ひれがいくらでもついた。
「樋笠拓海は、彼の栄光を妬んだ雨宮俊の手引きによって謀殺された」──昨日の時点での最新の学説がこれだ。もっとも、当事者であるはずの俺の耳にすら入ってきている時点で、これも周回遅れの情報であるのは火を見るより明らかなのだが。
「……なんで」
ふと。正面から投げかけられる言葉に、思考を打ち切って視線を戻す。
唇の震えは、怒りか、それとも驚愕か。いずれにせよ、降谷香純には俺を糾弾する正当な権利がある。
約束通り、彼女にはすべて打ち明けた。珍しく朝からバイトに入っているのも、すべてはこの話を誰にも邪魔されない場所でつけるためだ。
事件の発端から結末まで。立場上話し得ないことはあれど、樋笠の死の顛末に関しては、できる限り嘘偽りなく語ったつもりだ。私情を挟んでいないといえば嘘になるが、自己弁護など微塵もした覚えはないと言い切れる。
「……「雨宮俊は人殺し」なんて、とんでもなくバカな話だと思うのに──でも、どこかでこの話を信じそうになるわたしもいた。そんな人間ばっかりなのに……なんで」
だというのに。
すべての事実を知って、最初に出る言葉が「それ」なのかと──驚きを飛び越えて、感動すら覚えてしまうほど。
「……否定したってしゃあないからな。それに、YESかNOかで言えば、間違いなくYESの部類だ。樋笠の死に関して、俺には間違いなく責がある」
「そんなの……そんなの、違うよ。それで君が責められるなんて、絶対に間違ってる」
瞳を潤ませ、言葉を詰まらせて。
落ち着いて話すことはおろか、言葉を紡ぐことすらやっとの状態で──それでも決して、降谷が俺から目を逸らすことはない。
「みんな、何かにすがりたいんだと思う。行方不明なんて言葉で片付けられて、それ以外に一切情報なんてなくて……何も分からないから、誰かのせいにしたかった。こいつが悪いって決めつければ、それだけで少し気が楽になるから。……そんなの、何も変わらないはずなのに」
窓から差し込む陽光を浴びて、途切れ途切れに言葉を紡ぐ降谷。告解にも似たそれはさながら、ある種の美しささえ孕んでいて。
その様子に、ようやく何かが腑に落ちた。
「……いや、そうだな。今、なんとなく納得した」
「納得?」
「ああ。……今まで、信じられなかったから」
ずっと、不安だった。
託されたから。本人がそう望むから。たったそれだけの理由で、すべてを話すことが許されるのか。
真実を伝えることが、降谷にとって必ずしも幸せであるとは限らない。そんなありがちな悩みを抱えたまま、今日この場所まで来てしまった。
だが、違った。
そんな下らない悩みなど、とうに樋笠は見通していたのだと──今になってようやく気付く俺の、なんと浅はかなことか。
降谷の強さを信じろ、と。あの時の樋笠は、他ならぬ俺に言ったのだ。
彼女が真実を受け止められるかどうかではない。彼が見ていたのは、きっとその先だ。
降谷香純の存在が、きっと俺にとっての救いになると。樋笠はそう信じ、事実その通りになった。
誰しもが噂を鵜呑みにし、真実を確かめようともしない。そんな中で唯一、降谷だけが真実を知りたいと望み、自分の意思でこの場所に来た。
彼女の言葉に、俺は確かに救われた。
姿の見えない「敵」ではなく、「雨宮俊」を見ている人間がいる事実に、どこかで安堵する自分がいたのだ。
「かっこいいやつだよ、樋笠は。最後の最後まで敵わなかった」
「……ふふ。うん、そりゃそうだよ──だって、あたしの先輩なんだから。雨宮君なんて、先輩に比べればミジンコくらいじゃない?」
「水無坂の爪の垢でも飲んだのか?」
俺の言葉に破顔した降谷は、そこで殊更におどけてみせる。あまりにも強いそのあり方に、たまらず小さな苦笑が漏れた。
「ねね、雨宮君に泣かされたって言ったら、店長どんな顔すると思う? 怒るところとか見てみたくない?」
「やめてくれ……働き口がなくなるだろ」
勢いよく立ち上がり、机上を手早く片付けていく降谷。冗談めかした笑いを零しながらも、その手が決して止まることはない。
その口調も、仕事ぶりも、すべては見慣れた降谷香純そのもの。暗い話はここで終わりだと、最初から何も無かったと言わんばかりの振る舞いは、文字通り一分の隙もない。
──きっと。これが、彼女なりのけじめなのだろう。
樋笠拓海が存在せずとも、降谷は誰にでも優しい、「素晴らしい人間」であり続ける。それが彼女の出した答えであり、彼女の望む在り方なのだ。
その決断が正しいのか否か、もとより俺に口を挟む資格などない。樋笠が信じた彼女の可能性、それに疑いを抱くなど、あまりにも傲慢で不義理な行いだ。
……いや。それも、少し違うか。
「──ねぇ、雨宮君」
どれほど迷い、揺れ動くことがあろうとも。降谷香純は、正しい道を選び取ることができるはずだ。
「わたしに言う資格がないことなんて、分かってるけど……それでも」
誇らしいと。心の底から、そう思う。
もし、彼女の友人を名乗ることが許されるのなら。それ自体が俺の誇りだと、胸を張って言い切れる。
「都合のいい悪者には、ならないで。……おねがい」
であれば、俺は。
彼と彼女から貰った恩に、必ず報いなければならない。
「ああ。善処するさ」
# # #
「納得できません」
空気が、震えた。
語気の強さも、握りしめられた拳も。まさしく鬼気迫るといった表情で、彼女は坂本さんに詰め寄る。
もし。雨宮俊がこの場にいたのなら、きっと大いに驚いていることだろう。なんとなれば、平時とのギャップにひっくり返っている可能性すらある。
「私が俊を預けたのも、わざわざ此処に戻ってきたのも……すべては、その方が安全だと思ったからです。わざわざ彼に危険を背負わせて、あげくこんなことになるなんて、とても納得できることではありません」
それほどまでに。雨宮葵の──葵さんの怒りは、強烈だった。
「いち学徒という点では、彼と他の生徒たちとの間になんら違いはありません。例の警備任務についても、学院全体に公示し、平等に参加者を募っていました」
「その前段階で、俊や恭平くんに優先的に声をかけたと聞いています。戦力として利用する意図がなければ、そんなことは起こりえないはずですが?」
「否定はしません。彼の経験と機転を頼りにしたことは、紛れもない事実です。そしてそれがなければ、切り抜けられない任務でもありました」
「その任務に参加しなければ、そもそもの危険に遭遇することもなかった。結果的に無事だったというのなら、その前提から異なっていることを認識して頂かなければ筋が通りません」
冷静な響さんにも一切怯むことなく、葵さんは言葉を突き返す。“あの”流川響と舌戦を繰り広げることができる人材なんて、星皇軍広しといえどそうはいないだろう。
「姉」としての雨宮葵の姿は、そこには欠片ほども見当たらず。「雨宮俊の保護者」として、いかなる相手とも対等に立ち回るそのさまは、とても数歳しか離れていない人間の振る舞いとは思えない。
「葵の言い分はもっともだ。今回は、こちらに全面的な非がある。……ある程度のアタリはつけて動いていたつもりだったが、奴がここまで大胆な動きをしてくるとは思わなんだ」
「……慎一さんは、分かっていたんですか。だったら、どうして──!」
抑えきれない叫びは、胸の内で迸る感情のあらわれか。食ってかかる葵さんの言葉の強さは、今すぐにでも眼前の坂本さんを噛み殺さんばかりの勢いだ。
なぜクリスマスの翌日ではなく、わざわざ年明けの今になって乗り込んできたのか。病床の雨宮俊に付き添うため、という理由も勿論あっただろうけど……その大部分は、坂本慎一という責任者に直談判をかますためだ。
紛れもない「国難」であるSクラス星屑の討伐。不可能と断じられても過言ではないそれを、坂本さんは速水大将とともに成し遂げた。まさしく大偉業、英雄と呼ぶに相応しい業績だ。
でも。いくら無敵の坂本さんとはいえ、その裏で起こっていた第二本部の事件を同時に解決できるほどに万能じゃないワケで。
特A級の侵入も、防衛部隊の壊滅も。軍として戦闘している以上、“必要な犠牲”として容認される部分は少なからずある。しかし、そこに学生の死が絡むとなれば話は別だ。
表のごたごたから、とても公表できないような裏でのやり取りに至るまで。決して万全とはいえない状態を押して、坂本さんは事後処理に駆け回った。個人での偉業と責任者としての立場はまた別だと、そう言わんばかりに山積された問題を前に、朝も夜も馬車馬の如く働いて──ようやく、第二本部の椅子に腰を下ろすことが出来たのが今、というわけである。
「理由は色々ある。話せる理由も、話せない理由もな。だが一番の目的は、俊に自分との折り合いをつけて欲しいからだ」
「生きるか死ぬかの綱渡りをさせて、それが見えてくるとでも言うつもりですか? 訓練ではない、実戦でしか身につかないことがあるとでも?」
「訓練と実戦では、得られるものに天と地ほどの差がある。戦闘技能や経験はその際たるものだ。少なくとも、俊のこれからを考えるなら、実戦で自衛する能力を訓練するに越したことはない」
「誤魔化さないでください。私の弟に、人殺しの経験を積ませるつもりはありません」
相手が坂本さんに代わっても、その語気が弱まることは一向にない。火を噴かんばかりに捲し立てる姿があの雨宮葵だと、一体誰が想像しうるだろうか。
「私は、私にできる最善を選択しているつもりです。それを裏切られるのなら、然るべき手段を取らなければなりません」
「そうか。まあ、お前がそう言うのなら本気なんだろう。んでそうなった場合、こっちがかなり困ることになるのも明白だ」
投げかけられた坂本さんの言葉は、あくまで平静を保ったものだ。
そこに激情はなく、まして葵さんを貶めようとする意思もない。ただ客観的に、この場に満ちる空気を言い表しているだけのこと。
「だが、な。筋を通すと言うのなら──ずっと隠し続けることが、どれほど苦しいことかもわかるはずだ」
──でも。
ぴくり、と。続く坂本さんの言葉に、葵さんの身が跳ねる。
瞬時に変わった表情は、それまでとは似ても似つかない。咄嗟に切り返しの一言が出てこなかった事実こそが、彼女の心境を何よりも雄弁に示していて。
その言葉が、彼女にとってどれだけ残酷なのか。それを、瞬時に理解してしまう。
「……あの子はもう、十二分に苦しみました。雨宮俊には、幸せに、平穏に、生きる権利があるはずなんです。この世界のことも、自分のことも忘れて、ただ静かに生きていく権利が」
「ああ、そうだな。だが、そうはならなかった。その可能性は、残念ながら潰えてしまった。それはお前も、重々承知しているはずだ」
絞り出された言葉の裏側に、どれほどの苦悩があったのかは分からない。
血を吐くような言葉が、雨宮葵の口から流れ落ちる。それに殊更厳しい反応を返す坂本さんは、きっと僕の知らない何かを知っているんだろう。
先程までの勢いが嘘のように、葵さんは俯いて言葉を継いでいく。その息遣いが、掻き抱かれた左の腕が、より一層の悲壮さを描き出す。
「危険から遠ざけたいと、静かなところで生きて欲しいと……そう願うのは、私のエゴなんでしょうか?」
「いいや、その願いは正しいさ。ただ、雨宮俊に限って、それが幸福なこととは限らない」
「……それは。あの子が、特別だからですか?」
「そうだ。どれだけ逃げようと、必ず戻ってくることになる──それが本物の、雨宮俊という生き物の宿命だ。そして、それを克服するには、あいつが自分と向き合って答えを出すしかない」
突きつけられる事実に、誤魔化しの類は一切存在しない。
坂本さんも、葵さんも、雨宮俊のことを本気で考えているという点では同じ。だからこそ、いくら議論を重ねても、それが「正しい解答」になることはない。
お互いの言いたいことなんて、言葉にするまでもなく分かっている。分かっていてもなお譲れない、その苦しさがどんなものかは、僕だって散々に味わってきた。
「…………私たちを父から引き離してくれたことには感謝しています。でも、だからこそ──その事実を、もう一度彼に突きつけるなんて、私にはできません」
「いつかはやらなければならないことだ。出来るのなら、取り返しのつかなくなるその前に。傷つけると分かっていても、な」
あまりに悲痛な感情が、静まり返った司令室に溶けていく。その声を受けてもなお、坂本さんは毅然とした姿勢を崩さない。
「大人」が背負うべきものの重み。厳しい態度の裏にあるのは、葵さんが抱え込む責任の重大さを理解していることの証明だ。
「……辛いですね、姉って」
「ああ。だが目を逸らすなよ。「雨宮葵」が選んだ道なんだからな」
その視線が、再び交わることはなく。
血が滲みそうなほどに握り締められた拳と、くるりと反転する靴先。翻るスカートの裾が示すのは、話は終わりだという意思表示に他ならない。
納得したわけでも、ましてや葵さんが折れたわけでもない。ただ、決定を先延ばしにしただけだ。
いつまで保つともしれない、危うい現状を維持する。痛み分けにもならない決断が、この直談判の落とし所だった。
「……失礼します」
「おう。きちんと寝ろよ? 睡眠不足は万病のもとだからな。見たくもない記憶まで思い出すのは、あんまり気分のいいもんじゃない」
司令室の重厚な扉は、あらゆる情報を遮断する。その向こうで彼女がどんな表情をしているのか、超能力でもなければ知ることは叶わない。
「──頑張れよ、“お姉ちゃん”」
きっと。その言葉も、届いてはいないんだろう。
知らないことが幸せなのか、あるいは。
次回から新編突入の予定でしたが、番外編として恒例のファイルを出そうかと思います。今回と同じく不定期投稿になりますが、気長にお待ちいただければ幸いです。
彼女と彼の断篇とか、あるいは以前に触れた物語の続きとか。本編と関係あるような無いような、そんなお話の数々にご期待ください。
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