赤いギター
夕方、今日もバイトを終え、畳の真ん中に寝転ぶ。毎日何をしているんだろうか。数え切れないほどにそんな事を思うばかりの日々。
今日はバイトで色々と腹の立つ事が多かった。ロックでも聴いて叫びたい気分だ。しかし携帯の充電は切れて前々から調子が悪いこともあり中々充電がたまらない。周知の事実であろうがCDプレーヤーは壊れている。
久々にギターでも弾くか。
しばらく弾いておらず部屋の端っこに追いやられている派手な赤いギターに手をかけた。前触った時から結構経っていたのもあり多少錆もあったが、まあ別に本域で弾くわけでもないしどうでもいいか。なんの曲を弾こうかと思ったが、元々あまり弾けなかったので、とりあえず高校時代ギター持って初めて弾いた曲を弾いてみることにした。壁が薄めの為、埃を被ったアンプには繋がずそのまま弾いた。思い出される日々。
そして俺はある過去の少女を思い出す。どこまでも美しく、優しく、大人っぽく、ギターを教えてくれた先輩のことを。
高校に入学して中々友達ができずにいた俺は、前から興味のあった軽音楽部に入った。楽器はリコーダーや鍵盤ハーモニカ以外やったことがなかった為、先輩方に最初から教えてもらう事になった。そして頻繁に教えてくれていたのが、森さんだった。
森さんは三年生で部活ももうすぐ引退。時間を割いて教えてもらっていた。
森さんは俺と二歳しか歳が変わらないことに違和感を覚えるほどに、どこまでも大人っぽい印象だった。肩下くらいまでに伸びた黒髪は漆黒と言っていいくらいに綺麗で深い黒に見えた。大人っぽい印象とは逆に顔立ちは割と童顔で可愛らしい顔をしていた。しかしその立ち振る舞いや殆どの雰囲気などの森さんの持っているものはやはり大人っぽい印象を俺に与えていた。でも後で思ったことだが、森さんは俺が思っていたよりずっと弱い人だったんだと思う。
少し狭めの部室で俺は森さんにギターを教わりながら弾いていた。部室内には他にも部員はいたが音が混じらないように少し距離を置き、マンツーマンで教えてもらっていた。森さんは自分の赤いギターで練習をしながら教えてくれ、俺は昔誰かが置いていったらしい部活用の黒と紺の間くらいの色のギターで教えてもらいながらぎこちなく弾いていた。
大人っぽい森さんの姿とその派手な赤いギターは一見ミスマッチに感じるかもしれないが、化学反応なのかかっこいい印象も加え、長めの髪を耳にかけギターを弾くその姿はそれはそれは大人っぽくて美しかった。
当時、森さんがその赤いギターを俺に貸してくれたことがあった。そして別の高校に入学したベースが弾ける旧友と一緒に弾いたことがあったなと思い出したが、とりあえず今日はまたしまうことにした。
俺が弾き方などをよく分からず弾けないでいると目の前の椅子に座る森さんが高めの可愛らしい声で優しく教えてくれる。その声がまた心地良かった。
その声に聴き惚れていると森さんは可愛らしくムッとして言う、「もう、永久くん、ちゃんと聞いてる?」
俺が軽く謝罪をすると森さんは優しく微笑んでまたその可愛らしい声で教えてくれた。
ちなみに永久というのは俺の名字である。
文化祭の日、軽音楽部では体育館のステージでの演奏があった。俺は仮バンドなども組んでおらず、ギターもまだ練習中であった為、今回はパスして観客として観て聴くことにした。
暗い体育館、ステージ上にライトが当たる。そこには森さんがボーカルギターを務めるバンドがいた。そして森さんが観客に軽く挨拶。バンドメンバーであり森さんと仲が良く同じ三年生のギター担当の先輩男子生徒が森さん含むバンドメンバーの紹介をする。
メンバーはボーカルギターの森さん、ギターのその男子生徒、ベースの二年生の男子生徒、同じく二年生のドラム担当の男子生徒。女子は森さん一人、他は全員男子という体制のバンドだ。
そして曲が始まる。演奏曲はオリジナル曲などではなく既存の曲だった。
椎名林檎の「丸ノ内サディスティック」
無論、美しい。
可愛らしい声なので椎名林檎はどうなるのかと思ったが、何の問題もなく歌声もギター素晴らしいばかり。バンド全体としてもキーボードはいないが全てで見事にそれをカバーしている。
それは美しいという言葉以外では表せないものだった。
次の曲ではボーカルが先程ギターをしていた三年生の男子生徒に変わり、森さんはギターに変わって演奏。なんの曲をしていたかはもう忘れてしまった。ただ、赤いギターを弾く森さんの姿が美しかったことは言うまでもないことであろう。
観惚れ、聴き惚れているうちにあっという間にステージは終わってしまっていた。
その二曲をやって森さんたちは手を振りステージから降りて次のバンドに変わった。
その森さんのステージ上での姿がずっと目に焼き付いたまま俺はボーっとしてしまっていた。すると暗い中、俺の横に誰かが座る。少しだけそちらへと顔を向け横目で見る、ステージ上の光に照らされた可愛らしい顔が見えた。森さんだ。そしてまた見惚れる。
そして森さんは次のバンドの演奏に体を横に揺らす。体が揺れて、長い髪が揺れた。小さく手拍子をしながら、演奏に合わせた小さな鼻歌が聴こえる。また美しい。
そして演奏が終わった。
森さんが俺の視線に合わせて顔を覗いてくる。
「私の演奏どうだった?」
少し微笑みながら言う森さんに対し、無い語彙力で絶賛すると森さんは満面の笑みになって、
「良かった」と言った。
その優しい笑顔がまた美しいばかり。小学六年生の時もそうだったが俺はやはり笑顔に弱いらしい。まあみんなそうか。
そして次の演奏が始まるとまた森さんは体を横に揺らす。体が揺れて、長い髪が揺れた。小さく手拍子、そして小さな鼻歌。
そして森さんは部活を引退した。
それからはたまに森さんが部活に顔を出したときに少し話したり、それからまた少しした頃には、廊下でたまにすれ違うと挨拶を交わす程度でしか関わる事は無くなっていった。寂しくてたまにメールを送りたくなったが、向こうは受験だからと、控える事にした。
ある日の休み時間、中庭、暇だったから無駄にぶらぶらしていると、ベンチには森さんの姿があった。俯いている。俺はそんな森さんに緊張しながら話しかけた。
「お久しぶりです」
森さんは少し目の辺りを拭うような仕草をした後、優しく笑い「久しぶり」と言った。その笑顔が少し不安そうに見えたのは気のせいではなかったのだろう。泣いていたように見えたのも気のせいではなかったのだと思う。
「大丈夫ですか?」そう俺が訊くと森さんは少しすっとぼけたようにした後、「大丈夫だよ」とまた微笑みながら言った。
そこで俺は気づいたんだ。森さんは俺が思っていたよりずっと弱い人だったんだということに。
でも俺は何もできなかった。何も言えなかった。ただ森さんの横に座って空を見上げるふりをして横目で森さんを見守るだけだった。見守るなんて大層なものではなかったか。
なんで泣いていたのかは分からない。受験への不安なのか、交友関係か何かで問題が起こったのかなんなのか、それは分からないままだった。
もうすぐチャイムが鳴る。森さんはベンチから立って俺に向かって言った。
「ありがとう」
「ありがとう」なんて言われるようなことが俺にできていただろうか。そうは思えない。でも俺はその言葉を受け取った。
森さんの受験も無事終わった後、森さんを廊下で遠くから見た時には、森さんの顔には既に純粋で綺麗な笑顔が戻っていた。
森さんの卒業の日が近づく。明日だ。
卒業式の予行練習は何事もなく終わった。
明日で森さんは違う場所に行ってしまう。純粋に寂しかった。何かしたいけど何もできなかった。
明日か。その時、帰ろうとする俺に後ろから声がかかる。
振り返るとその声の主は森さんだった。
そして森さんは俺に近づいてきてある物を渡してきた。
綺麗な黒のギターケース。開けると中には森さんが使っていた派手な赤いギター。
「えっ?」と俺が森さんの方を見ると森さんはまた微笑みながら言う。
「あげるよ」
「い、いいんですか?」
「うん、もう多分弾かないだろうからね」
それにまた寂しく思った。森さんのギターを弾いたり歌ったりする姿が好きだったから、自分が見れなくてもいいから何処かで弾いていてほしいなんてことを思い、寂しくなった。
俺が戸惑っていると森さんが言う。
「ありがとね。」
だから俺は何も...。
泣きそうになった。堪えて言った。
「こちらこそ本当にありがとうございました。」
そして深く頭を下げた。十秒程、頭を下げていた。
頭をあげると森さんは俺を見てまた綺麗に美しく微笑んでくれていた。
そしてまた泣きそうになった。
微笑んだまま「じゃあね」と言って去っていく森さんを思わず呼び止めた。
勝手に口が走る。変なことを訊いていた。
「森さんには...、自分の事を見ていてくれる人はいますか。」
少し驚くようなリアクションをとった森さんは珍しく無表情のまま言った。
「いるよ。」
そうしてまたいつものように微笑んだ。
「なら良かったです。」
俺も微笑み返した。
そして俺が立ち去ろうとすると今度は森さんに呼び止められる。
「永久くんには、いるの、そういう人。」
少し間を開けて俺は言った。
「はい、います」
嘘をついた。森さんが俺を見ていてくれていたらなあ、なんて事を思っただけで、実際にはいない。
後ろで声が聞こえる。「なら良かった」
少しの時間が経って俺は何となく振り向いた。そこにはもう森さんの姿はなかった。
森さんに貰ったギターを背負い、また泣きそうになった。なんとか堪えた。
卒業式の日、森さんの姿が見えるとまた泣きそうになった。何度も。何度も。
無事、卒業式はあっという間に終わってしまった。
ずっと泣きそうだ。頭を掻き毟る。
また森さんの姿が目に入った。森さんは友達と泣きながら笑って話していた。そしてその横には俺の軽音楽部の先輩であり、森さんと同じバンドでギターを弾いている森さんと同じ三年生の男子生徒が立っていた。
大体分かっていた。森さんの言う“見ていてくれる人”とはきっとあの人のことなんだろうと。
遠くからその森さんの姿を見つめ、また泣きそうになる。心の中で「さようなら」なんてことを言って俺はその場を立ち去った。
泣きながら笑う森さんの姿はまたいつものように素晴らしく美しかった。
春、俺は二年生になり軽音楽部を辞めた。そして思う、俺は森さんに会うために行っていたんだなと。
そうして森さんに貰ったギターは弾く物というより眺める物になった。時折、それを眺めたり、久々に弾いたりしてこうして思い出すばかりである。
森さんがどこの大学に行ったかは知っていたが、その後どうしているかは全く知らなかった。連絡先も知っていたがもう何か話すようなこともなく、結局それから一度も連絡も取っていない。
でもその後、偶然一度だけ見かけた事があった。その時、少し遠くから見た森さんの姿は以前以上にまた大人っぽくなっていた。というよりもう大人だったのか。何度も言うがやっぱり、
素晴らしく美しかった。
派手な赤いそのギターを元の部屋の端っこに戻し、少し眺めてから明日のバイトに備えて布団に入る。
何に対してかは分からないが、何かもどかしくて頭を掻き毟る。
バイト、バイト、バイト。か。
心身共に疲れていたからか、布団に入ってからは割と早めに眠りについた。