8話
峻厳な赤水山脈の麓に横たわる砦。
両端を険しい崖に挟まれた渓谷には、僕のいた日本でも屈指の流域面積を誇るだろう規模の川が、山頂より流れ込んでいる。
河原には、僕の知るイメージを覆すほど広漠たる岩場が続く。
その渓谷を塞ぐダムのように、城壁が屹立していた。
城壁には砦が隣接し、川の流れを下流に逃がす機構が設けられている。
この巨大な建築物は、魔物の到来を記した古文書の時代に、当代の橋ノ森の王が建てたそうだ。
今もそれを補強しながら使用している。
さて、そんな風雲急を告げる死地に辿り着いた僕は、非常に困惑しております。
次々に手渡される色紙に、自分の名前を書きなぐる。
幼いころ、自分のサインとか練習したよね。
あれが役に立つ日を迎えることになりました。
賢者の大サイン会、開催だよ!
いや、このノリは僕には無理。
到着早々、引きつる笑顔を貼り付けた岡村さんは、申し訳なさそうに僕をこの席に誘導しました。
野外に設けられ、周囲をカーテンに仕切られた空間。
簡易的な野営地かと思ったのだけど。
突如、盛大なファンファーレが鳴り響き、目の前のカーテンが開かれる。
すると、そこには熱狂する群衆が辺り一面を埋め尽くしていました。
はめたな、岡村さんよ。
退路を塞がれた僕は、手のひらの感覚がなくなるほどの握手を繰り返し、サインを書き続けました。
この恐ろしいイベント、陰で糸を引いていたのは正成さんであったことが、後に発覚する。
彼女は名将だ。
兵の士気のコントロールなんて朝飯前なのだ。
「これだけで、彼らは空十様の従順な下僕となるでしょう。群衆が求める理想のアイドル像を提供し、皆で共有する。普通は困難なことなのですが、さすがは我が主君さまでございます。この世界で始めたあらゆる活動が、全てを予見するかのごとく、この状況を作り出している。え?どうして怖い顔をなさっているのですか?もっと某を誉めてください。頑張った某にご褒美をください」
と、後に彼女は得意満面で言い放った。
もちろん、僕は正成さんを大事に思っているから、今後は意思の齟齬が起きないように、ご褒美の愛のお仕置きをしっかりしました。
でも最近、彼女はお仕置きでも喜ぶので、変な性癖をこじらせないか心配だ。
サイン会のあとは、自然と大宴会が始まった。
岡村さんの溜息は止まらなかったけど、僕は彼のことがもっと好きになった。
実直すぎる岡村さんなのに、こういう時に部下たちのバカ騒ぎを許容できる度量があるし、そんな彼を兵隊さんたちも尊敬している。
兵隊さんたちの姿や、あちこち傷みながらも細かいところまで手入れされた砦、使い込まれてボロボロの装備類が綺麗に磨かれて整然と管理されているのを見れば、彼らが普段から真剣に訓練に励む姿が想像できる。
でも、訓練で払拭できない恐怖というものもある。
そんな時は、みんなで騒ぐのも戦略なのかもしれない。
岡村さんは、真剣すぎるほどに部下たちの様子に気を配り、彼らが本当に必要とすることには、自分のモラルに反してでも実行する器があるのだ。
翌日からは、僕も訓練に参加する。
つぶさに観察してみると、砦は近代的な様相を呈していた。
レンガ造りの簡素な建物に、広い敷地。
敷地の真ん中を城壁の地下から流れる川が縦断する。
この川は訓練にも使用され、そのための設備も充実している。
大きな食堂や入浴施設もある。
やはり橋ノ森の文明レベルは高い。
単発ボルトアクションライフルと、支援火器として固定式の重機関銃が配備されていた。
連日を通して、軍医さんや衛生兵さん達との連携を体に覚えさせる。
また、僕が大量に持ち込んだ戦闘用特殊回復薬のレクチャーも行う。
彼らは目を丸くして薬の効果に驚いてくれたけど、僕は薬が多くの傷ついた人たちに使われないことを祈った。
正成さんは、その類まれな戦略眼を見込まれて岡村さんにアドバイスを求められることが多くなった。
いまでは作戦指令室に必用不可欠な人物となったのだ。
日中の一般兵の訓練は激しいもので、怒声と悲鳴が飛び交うものだった。
しかし日が沈めば、広場の中央に丸太が組まれ、親睦の火が焚かれる。
狩猟班が持ち帰ったイノシシが丸焼きにされて、食堂から大量の料理が運ばれ、野外にて皆が食と共にする。
丸焼きの前に行列ができて、僕も一緒に並んでお皿を差し出した。
500グラムを優に超える切り分けられた肉塊が、にっこり笑う料理長の手により、お皿を割りそうな勢いで乗せられた。
一応、御客扱いなので、岡村さんと同じ広場の川付近に設置された指揮官席に、正成さんと着席する。
イノシシステーキは、表面を甘い味噌を溶かした水あめでコーティングされていた。
噛みしめると、パリッとした固い水あめが割れて食感が楽しい。
そして肉そのものは、獣肉の匂いを消すために様々な香辛料が擦りこまれていて、かなりスパイシーで辛い。
甘さと辛さが交互に口内を行き来して、飽きが来ない。
「山賊焼きといって、山麓砦部隊の名物です」
岡村さんは、誇らしそうに笑った。
「橋ノ森は農業国です。魔法使いや最新の戦車などはありませんが、軍に来たものには腹いっぱいの飯を約束します。それがわが軍の強みとは言えませんが、プライドではあります」
緊急時に備えて酒類はさすがにでなかったが、一同が酔ったように食べ、語り合う。
音楽に覚えのあるものが楽器を持ち寄って演奏をすれば、正成さんが乱入して即席のライブを始める。
彼女の美声は、一同を驚かし、虜にした。
ジャズの演奏をバックに、しっとりとした歌声が色気を伴って場を満たす。
彼女の着崩した着流し姿が蠱惑的なドレスのように人を誘惑し、熱をともす。
酷使した体と精神が慰められて、次の日のエネルギーをためる。
こうして各々が自分にできる精一杯の準備と鍛錬を行い、来るべき試練に緊張感をもって備えた。
そして、ついに通信室に偵察隊より無線が届く。
魔物の群れが、山麓砦防衛ラインに到達したと。
空は下界の些事など気に留めもしないのだろう。
笑ってしまうほど、青く晴れ渡っている。
おかげで渓谷の遠方まで見渡すことができた。
僕と正成さんは、城壁屋上から渓谷とは反対側に飛び出すように作られた指揮所に待機していた。
ここなら全体の動きを把握して、被害が大きい場所へ救命に行けるからだ。
各部署は、特殊回復薬を装備した救命兵や軍医に任せてある。
彼らの手に余るときに、僕が駆けつけることにしたのだ。
城壁は四階構造になっていて、レトロな軍服に身を包んだ兵隊が各階に配置されている。
屋上には多くの重機関銃が並べられて、二人一組で運用する。
その隙間を埋める様に、ライフル兵が構えている。
各階には小窓が設けられていて、そこから銃口を突き出し、すでに臨戦態勢をとっていた。
城壁後方の砦の広場では、乱戦に備えた帯剣部隊が整列している。
最初の異変は、遠くに見える砂ぼこりの狼煙。
まだ距離がありすぎて、魔物の移動で発生した砂煙は爪楊枝くらいの大きさしかない。
周囲は緊迫感による独特の静寂が支配していた。
あまりに静かなのは、野生動物が優れた危機察知能力により、麓を去ったからだ。
心がそわそわして落ち着かない。
衆人にいくら持ち上げられても、自分の無力さは僕が一番知っている。
これが実戦の恐怖なのだろう。
傍らで柔らかく微笑んでいる正成さんは、そんな僕の心情の震えを優しく包むように、後ろから両手を回して抱きしめてくれる。
「ご安心ください、空十様。あなたがどこにいようと、この正成が指一本触れさせません」
ふくよかな胸が背中を撫で、首元を取り巻く彼女の上体から芳香が鼻腔に届く。
それだけで、僕はやすらぎをおぼえた。
「ありがとう。でも僕が本当に怖いのは、自分が傷つくことじゃないんだよ。この砦の人たちと、寝食を共にした。みんな良い人たちだった。みんなは否定するかもしれないけど、僕にとっては全員親友みたいになったんだと思う。でも、今日間違いなく死者がでる。それが恐ろしくてたまらないんだよ」
抱きしめる力が強くなる。
目と目が近すぎて、互いの心のベールが一枚一枚剥がれていって。
僕と彼女の境界線が曖昧となって。
ああ、このひとは。
「空十様の願いは、我が願い。ひとつ策がございます」
「本当に?」
「は。主が望めば、だれも死にません。しかし、某への絶対の信頼の上にのみ成り立つ、危うき策にございます。普通の君主には提案いたしません」
ぼくにとって
「あなたは、ぼくの特別だよ。あなたとって僕は?」
彼女の瞳から、大粒の涙が零れる。
背に感じる彼女が震えている。
止めようもない激情が、僕達二人を、完全に支配した。
「わたしにとって、あなたはすべてです」
某と言う彼女が、わたしといった。
僕たちは変わろうとしている。
正成さんは、いつかのごとく僕を抱きかかえると、大きく跳躍した。
降り立った場所は、城壁の真ん前。
これより魔物の殺到する最前線。
「皆の者、きけぇぇ!」
正成さんの大音声が、城壁を震わす。
「大賢者様は決意なされた!城壁に隠れ怯える、くそネズミども!賢者様はお前たちを一兵たりとも死なせない。つまり、だれも空十様より先に死ぬことは許さん。よって、我らはここより一歩も動かんということだ!」
え?
正気ですか。
今さっき、心と心が通じ合ったよね。
皆さんも、どよめいているよ?
「魔物どもは、手始めに空十様に襲い掛かるであろう。もし、くされ虫の分際でも、気概があるのなら!賢者を愛するなら!一匹たりとも忌々しい魔物を近づけるな!」
瞬間、全兵士の感情が爆発した。
正成さんのように、熱い涙を流し、雄叫びを上げる。
砦だけではない。
山まで震撼させるほどの熱情。
いま、麓砦の全てが、一つとなった。




