7話
早朝、湖畔に沿った道をゆっくりと散歩する。
周囲には靄がかかり、深い呼吸をすると、澄み切った空気が細胞の隅々まで沁みこむ。
あの激動の夜から、ひと月が経とうとしていた。
僕たちは湖鳴館を拠点として、情報収集をしていたのだ。
この聖地には、各国から訪問客が集まる。
彼らから様々な国の文化やルール、この世界の情勢を聞き出していたのだ。
それと同時に、正成さんの指導の下、体力強化トレーニングも並行して実施された。
この20キロの重りの詰まったリュックを背負っての早朝の鍛錬も、その一環だ。
僕のフィジカルは、この混沌とした世界を生き抜くには、あまりにも脆弱すぎることが判明したからだ。
トレーニングは、彼女の溢れる好意に比例して、激しさを増していった。
最近では、お腹の筋肉が割れそうで、ちょっと嬉しい。
理想の男性像に近づいているかと期待していたのに、湖鳴館の女中さんに美少女賢者と呼ばれていることを昨日耳にしてしまった。
そういえば、一か月も経つのに、誰も僕の性別に疑問を挟まない。
まことに遺憾である。
橋ノ森の王様からは、感謝の印として、過剰な金品が送られてきた。
僕たちは旅を続ける予定だったから、必要分を受け取り、残りは神社に寄付をした。
その結果、返礼として湖鳴館の離れの一室をもらい受けることになったのだ。
所守さんは、湖鳴神社の神主さんでもあったのだ。
離れには専用の浴室もあるし、元々は貴賓をもてなすための部屋だったので、とても広い。
正成さんとの共同生活に、僕は狼狽してしまうことも多いし、たまに入浴中に侵入しようと企てるので、中々に気が抜けなかったりする。
どうしても、主君の背中を流さないことには気が収まらないらしい。
相変わらず彼女の忠義は暴走気味だった。
そして僕は、薬学の研究も始めた。
回復魔法で救える人数なんて、たかが知れている。
その点、回復薬が流通すれば、スキルを持たない医者でも魔法のような治療も可能となる。
現状、多くの回復薬は、無理やり使用者の自然治癒力を引き上げるものだ。
当然、使用者の体の負担は大きくなる。
その場の重いケガや病気の快癒には成功するが、最終的には寿命を縮めることになってしまうのだ。
僕は新しい概念の元、新薬の開発に着手した。
薬そのものに回復の力を持たせ、患者の治癒力に過剰に依存せずに済むものだ。
しかし、様々な薬材を集め、成分をスキルで改変して調合しても、失敗作の山が積まれるだけだった。
そこで原点に立ち戻り、多くの民が療養に使う湖の効果に着目した。
調べてみると、その水の中には、どんな材料にも発見できなかった、自然界には存在しない未知の成分が確認された。
それ自体が、微弱ではあるものの、治癒の力を持つ物質だった。
これはおそらく、癒しの女神様に起因する、彼女のスキルが生み出したオリジナルの物質だと思う。
僕はスキルにより、その成分を抽出して結晶化に成功した。
そして研究のため取り寄せていた材料を調合して、結晶体の持つ回復力を高めてみたのだ。
ケガを負った野生動物に試してみたところ、想像以上の効果が発揮された。
最終的には、流通する上等な回復薬よりも治癒速度はかなり遅くなるが、旧来の薬では治せなかった病状にも効果のある、人体に負担の少ない薬の開発に成功したのだ。
当然、病後の体力の回復も圧倒的に速い。
戦闘では使えないが、病院での医療には大きく役立つはずだ。
試しに神社で販売してみると、爆発的な反響が寄せられた。
賢者の新薬という名前で、口コミで橋ノ森の周辺に異常な速さで広がり、他国からも問い合わせが殺到しているらしい。
結果、湖鳴神社周辺は、異様な好景気に包まれていた。
散歩を切り上げて、湖鳴館に帰る途中で周辺を眺めると、早朝にも関わらす活気のある市場が広がっていた。
この周辺は、王の意向で必要最低限の建築の許可しか下りない。
女神様のお住まいを、みだりに荒らさないようにとの信仰心によるためだ。
そのため、ここで商売をするものは大きな露店を建てることになる。
初期のころは、参拝客に振舞うための温かい汁ものの販売が主だったそうだ。
そして中期には、地域の特色を前面に押し出したオムニパスの露店が観光客の間で評判となり、力のある商人などは即席のカフェのようなものまで建てている。
オムニパスと湖の水で淹れたコーヒーを飲むことは、周辺国家の住民の間で、一種のステータスとなったのだ。
そして現在。
土産物だけでなく、衣類や本なども販売され、各国の商人が集まり巨大な市場を形成していた。
広い湖を、様々なショップが取り囲む状況となっているのだ。
特に人気があるのは、薬入れだ。
神社で販売される新薬は、味気のないガラス瓶に透明の液体が入っている状態で販売される。
一方、商人の店では、青やピンクなど色彩豊かな薬瓶が販売さている。
訪問客は、それぞれの好みに合った瓶を選び、内容物を入れ替えるのだ。
さらには、多種多様なデザインのポーチやバッグも店内には陳列され、客の財布を悩ませている。
ある国の有名ブランドなどは、湖鳴神社限定デザインの薬入れポーチなども売り出しているので、余計に購買意欲を刺激されてしまう。
意匠を凝らしたバッグに収められた色とりどりの瓶に入った薬は、最高の贈答物としての名声も獲得していた。
ここは言うなれば、赤水山脈が背景に展開する巨大アウトレットモールとなっているのだ。
湖鳴館周辺まで到達すると、商売に励む店主たちやお客さんが僕に気づいて手を止める。
一瞬にして静寂が辺りを支配し、彼らは両手を交差して胸に当て、深々と頭を垂れる。
最近、この独特な挨拶が「賢者の礼」として流行しているらしい。
「橋ノ森の都では、湖鳴館の賢者様に礼をすると御利益があると噂になっているらしいですよ」
と所守さんが教えてくれた。
怪しい異国のスキルホルダーとして警戒されないかと心配していたが、都では大賢者様の再来と認知されているそうだ。
うれしい反面、こういう挨拶をされると恥ずかしくてたまらない。
だって、どんな顔をすれば良いかわからないのだもの。
自分でも賢者の礼をするのは、自意識過剰みたいで耐えられない。
結果、ぎこちない笑顔で「おはようございます」と当たり障りのない挨拶をすることになる。
そこに流れる空気が、とても苦手だ。
敬意を払ってもらえるのは正直に嬉しいのだけど、今までの人生では無縁な反応が人から返ってくるのは、いつまでたっても慣れない。
結果、挙動不審になって、足早に立ち去ることになってしまう。
僕みたいな小心者は、いざ相手に期待されると、それに応えられるか怖くなってしまうのだ。
下を向いて視線を合わせないように湖鳴館の入り口まで辿り着くと、いつもの日常が広がっている。
門の外まで続く長蛇の列。
立ち並ぶ人たちに問診票を配って、症状を聞くメイド姿の女中さん達。
女中さん達は、本業のお医者さんから指導をうけて勉強してくれていた。
緊急性の高い患者さんがいれば対応してくれているし、衰弱している者は本館のベッドに先導したり、本当に助けてもらっている。
その彼女たちを指揮する正成さん。
行列に並ぶ人たちは僕の姿に気づくと、あの賢者の礼を一斉にしてくれた。
僕はやっぱり、どう反応してよいか分からず、頭を下げて言葉にならない声をもごもごと口にしながら離れに向かう。
本当に嬉しいのだ。
人に頼りにされるのは。
でも血が頭に上って、高揚する気持ちと怖さと恥ずかしさが混沌とねじれる様に溶け合い、思考が停止してしまうのだ。
気持ちを落ち着けながら、どうにか離れに着いてリュックをおろす。
汗を拭きとり、白いシャツに袖を通す。
新薬の研究がひと段落した後、研究所としての規模は縮小して、離れの一部を診療所として開放したのだ。
新薬は幸運にも多くの人に受け入れられたけど、その薬は万能ではない。
服薬だけでは快癒しない者や、この国の医療では手に負えない患者も当然存在する。
そんな人たちの力になれればと、僕は診察も始めたのだ。
もともと湯治や快癒の祈願に神社に訪れていた訪問者の間でたちどころに診療所は評判となり、現在の目の回るような繁忙へと帰結した。
様々な病状の人を、スキルを駆使して治療する。
もちろん、全ての患者を笑顔で帰すことはできなかった。
患者さんの前では不安にさせまいとポーカーフェイスを装ったけど、自分の力不足が悔しくて、悲しくて、眠れない日が続いた。
でも、僕の感覚は日に日に研ぎ澄まされ、驚異的な量の実戦経験を否が応でも積むことになった。
少しは、できることが増えたと思うのだ。
地道でも良いと思う。
薄暗闇の中を、形も定かではない、ぼんやりとした何かに向かって進む一歩で良いと思う。
それは、認識者である僕の視野を広げ、この世界を確固たるものとするのだから。
誰かが気を利かせて淹れておいてくれたコーヒーを口に含みながら、手元の問診票に目を通す。
さあ、僕の戦いだ。
一人気合を入れていると、控えめなノックがドアを鳴らした。
正成さんに連れられて、見覚えのある中年男性が入室する。
たしか彼は、あの夜の負傷した部隊の指揮官さんだ。
「ご無沙汰しております、賢者さま」
彼は私服で訪問してきたようだ。
他の患者さんに気を使ってくれたのだろう。
「その呼ばれ方は、やはり恥ずかしいのです。どうにかならないものなのでしょうか」
「この呼称でなければ、すでに世間では話が通じないのですよ、春日様。社会の風潮とは、個人の意思などお構いなしに確定されて広まっていくものです」
彼も軍籍で大きな責任を伴う立場だ。
僕の知らないような軋轢や苦労があるのだろう。
その言葉には重い実感が伴っていた。
「本日は、どうしても相談に乗ってほしい件がありまして、馳せ参じました」
「僕でお役に立てるのであれば、喜んで。ただ、申し上げにくいのですが、すでに重症の方も待っている状況でもあるのです」
「もちろんです。賢者様のお仕事の妨害となってしまっては、我が王の顔に泥を塗ることになります。お邪魔でなければ、本日の夜に時間をいただけないでしょうか」
「承知しました。せっかく湖鳴まで来たのです。ゆっくり日ごろの疲れを洗い流していっても罰はあたりませんよ」
「かたじけない」
そう言い残すと、彼は軍人特有の機敏で折り目正しい動作で席を後にした。
僕は、彼の中に渦巻いていただろう深刻な危機感に、思い至ることはできなかった。
日が沈み夜の帳が下りるころ、最後の診察が終了した。
隣で正成さんが、お茶をカップに注いでくれている
仕事で昂ぶり緊張している神経をほぐす為の、彼女特製ブレンドの茶葉を使用している。
口の中で柔らかい甘さが染み渡り、肩が軽くなる。
「ところで空十様。あの官憲はどうしましょうか」
「そうだね。館の人にお願いして、呼んできてもらおうか。どこかで時間をつぶしているだろうから」
「それには及びません。朝から診療所の裏に直立不動で待機しておりますから」
「え。あの時から、ずっと?」
「は。同じ武人として、中々どうして。見込みのある者でございます」
「す、すぐお呼びしてください。ああ、どうしてこう、僕は気が利かないのだろう」
慌てて指揮官さんのお茶も用意して、出迎える準備をする。
ほどなく、正成さんに促されて彼が入室してきた。
僕は、普段は患者が腰を掛ける椅子を彼にすすめた。
「あらためまして、私は王より山麓の砦を任されている岡村と申します。この度はお忙しいところ、突然押しかけてしまい申し訳ありません」
岡村さんは疲労を微塵も感じさせず、丁寧に賢者の礼をする。
僕は狼狽しながらも、まずはお茶を飲んでもらった。
一日中、飲まず食わずであったのだろう。
彼はおいしそうに、それを飲み干した。
そして一息ついたのち、彼は居住まいを正して、僕に向き直った。
「本日は、我が王からの親書をお届けに参りました」
彼は懐から、赤い蝋で封印された封筒を恭しく差し出した。
礼儀作法なんてわからないので、できるだけ丁寧にそれを受け取り、中身に目を通す。
正成さんにも目配せして、一緒に内容を吟味する。
そこには、近日中に大量の魔物が赤水山脈を下山してくることが記されていた。
前回の魔物の出現は、この前触れだったらしい。
百年周期での不可思議な魔物の移動が古文書には記録されており、赤水山脈の中腹の監視所で、実際にそれが確認された。
王は急いで軍を砦へ進め、迎撃準備をしているそうだ。
激しい戦いになるのは、容易に想像できる。
王は僕に、軍医として助力してほしいとのことだった。
「あと二日もすれば、湖鳴にも避難指示が出されるはずです。しかし、我々が魔物の濁流を止めなければ、ここはおろか、南の橋ノ森首都までも蹂躙されるでしょう」
岡村さんは、強くこぶしを握り締めていた。
それを尻目に、正成さんは溜息をつきながら、僕の肩に手を置く。
「一応、御止めはします、空十様。これは危険すぎます」
でも、彼女が諦めきっているのが手に取るようにわかる。
正成さんは、この一か月間、ずっと傍にいてくれた。
だからこそ、この世界に来てから僕の変に頑固になってしまった一面も知っている。
それでも彼女は、その忠義心から僕を思い止まらせようと試みる。
強い拒絶を示し、射殺すように岡村さんを睨みつけて彼女は詰め寄った。
「岡村殿にお尋ねしたい。わが主がヒーラーとして一流なのは、拙者が一番承知しております。一流のヒーラーの加勢が、戦術の選択肢を増やし、継戦能力を著しく上昇させることも。しかしながら、主は民間人です。実戦経験もありません。此度の戦は、大規模戦闘になるかと推察しますが?」
「激しい戦闘になるかと思います。いえ、正直に申し上げます。戦争になります。私も経験したことがない次元での戦いです」
「そなたの実直であるところは、某も高く評価しておるつもりだ。だが、おいそれと主を死地へ送ることは許容できないのだ。妥協案として回復薬の提供はどうだろうか。ただの回復薬ではない。以前のそなた達の治療経験をもとに、空十様自ら戦闘行動用に改良し特化した、特殊回復薬だ。それならば、普通の軍医でもC級ヒーラー並みの働きができるだろう」
「我々は春日様のスキルホルダーとしての力も必要としていますが、それ以上のことを期待しているのです」
そこで正成さんは、顎に手を当てて考え込む。
「かわいらしさか?」
「ブポ!」
思わず、お茶を吹き出してしまったじゃないか。真剣な顔で出した答えが、それですか。
「さすが楠木さまでございます。ご明察です」
あれ、もしかして岡村さんも、ちょっとアレな人だったの?
正成さんもこれ以上ないくらい納得しちゃっているし。
この人たち同類なのね。
そんな僕の猜疑心に気づいたのか、岡村さんは慌てて弁明した。
「ち、違うのです。極論ではそうなのですが、ちゃんと全うな理由があるのです」
「一応、お聞きします」
もしかして、行かなくてもいいかな。
「我々は綿密な防衛計画を立て、必要な火器物資類を砦に持ち込み、万端の準備をしました。人事は尽くしたつもりです。それでも戦闘の趨勢を決めかねない、決定的な要素を欠いているのです」
「それが、僕なのですか」
「あなたの、賢者さまの応援により獲得できる大いなる士気です。これだけはどんなに知恵を絞っても、人為的に獲得はできませんでした。橋ノ森は農業国家です。戦闘スキルを持つ者はいません。実戦経験も乏しい。そんな我らにとって魔物とは、耐えがたい恐怖そのものなのです。このまま交戦すれば、恐慌により部隊は総崩れとなるでしょう」
「僕なんかで、皆様を勇気づけられるというのですか」
岡村さんはお茶を一服したのち、苦笑いをした。
「春日様は、ご自分の立場に無頓着すぎるかと。橋ノ森の首都では、大きな騒ぎとなっているのです。一種のアイドル、いや信仰に近いかもしれません。これをご覧ください」
彼は胸ポケットから取り出したものを、僕に差し出した。
「これは、僕の写真ですか」
「ブロマイドというらしいです。この商品が首都では飛ぶように売れているのです。突然現れた大賢者の再来。多くの者を自ら癒し、低価格の新薬により貧しいものまで救う慈母のごとき方。しかも美少女となれば、熱狂してしまうものです」
いやいや。
突っ込みどころが多すぎて、どうしたことやら。
噂だけが先行して、最悪のパターンと化している。
患者さんが必要以上をしゃべらずに、極度の緊張状態にあったのは、そんな背景があったのか。
疎外感を感じて、ちょっと寂しかったのは秘密にしておこう。
「当たり前だ。空十様は一国で収まる器ではござらん」
正成さんは、嬉しそうに胸を張っている。
僕はようやく事態を正確に理解した。
「僕の虚像が独り歩きをして、大きな支持を集めている。それを利用して、軍隊の士気をあげるという作戦なのですね」
「はい。実際、賢者さまのためなら命を捧げると明言する部隊もあるほどです。橋ノ森の民とは、義理人情に厚く、熱しやすい国民性を持ちます。純農耕民族なので体格は戦闘に向きませんが、心に火が付けば熱狂し、一致団結して思いもよらない力を発揮する特殊性もはらんでいるのです」
「しかし僕が行くことで、無理をして余計な被害がでる予感もするのですが」
「砦で魔物を防げなければ、被害を嘆くものすら国ごと押しつぶされることでしょう」
やっぱり、行かないという選択はありえないな。
正成さんも、少しは乗り気になってくれたみたいだ。
彼女にとって、僕を支持してくれている橋ノ森の民は、同志のように感じられたのかもしれない。
「わかりました。このお話、承りましょう」
僕は岡村さんの手のひらを両手で強く握りしめた。




