6話
こんがりと焼かれた薄く広い長方形のトーストの上に、カリカリのベーコンがシーツのように敷かれ、その上にはぷっくりと膨れた大きなオムレツが乗っている。
オムレツにナイフを入れると、はじける様に中身があふれ出す。
トロトロの黄色い卵にチーズが溶け合い、洪水のように極旨のソースが下のベーコンとトーストを浸す。
トーストをナイフでカットして口に含むと、燻製された塩味とチーズに引き立てられた卵黄の自然な甘みが、絶妙なバランスで調和している。
パンの上層部分は卵でしっとりと、程よく炙られた下層はカリカリと、異なる二つの食感がハーモニーを奏でた。
隣の皿には、レタスの上に色とりどりの蒸した根菜が山盛りにされている。
添えられたソースをたっぷりと人参に付けて、口に運ぶ。
食材本来の味の力が、酸味のある白いソースで主張をさらに強めている。
「これらの食材は、すべて湖鳴館に併設された農園で、今朝収穫したものでございます。新鮮な食材を最高の形でお客様に提供することが、私たちの誇りなのです」
所守さんは、昨夜とは別人のように自信にあふれた所作で、給仕をしてくれている。
湖鳴館の広いテラスの対面では、壮大な山脈を背にして、朝日に照らされた湖面がガラスビーズを浮かべたように輝いていた。
屋外での朝食が、こんなにも人の幸福感を満たすことを、僕は初めて知った。
「とても美味しいです。特に、この卵料理はすごいですね。優しくて、甘くて、体の隅々まで暖かくなります」
僕は味覚に自信があるわけじゃないけど、純粋に感謝を伝えたくなる料理なのだ。
所守さんは、とても嬉しそうに笑顔を浮かべた。
「ありがとうございます。それはオムパニスという料理です。この湖周辺地方で、昔から客人を迎える時や、祝い事の席で食されてきました。当ホテルでも、名物料理として観光にいらっしゃったお客様に提供させていただいております」
「ここは観光地なのですか」
ちょっと意外だ。
この湖や景色は綺麗だけど、他には神社ぐらいしかない。
昨夜は夜道で気づかなかっただけで、他に何かあるのだろうか。
「あちらに神社があるのが見えますか」
「はい。大きな鳥居がありますね」
所守さんが指さす方向には、広大な湖に浮かぶ小さな森がある。
僕たちが転移した始まりの社だ。
「あの小さな森には、太古の昔、癒しの女神様がおわしたのです。その女神様をお祀りしたのが、湖鳴神社の発祥です。かつて数多の国に疫病が蔓延し、多くの者が命を落としました。癒しの女神様は下界に降臨し、死の迫る民草をことごとく救い上げたと記録に残っております。今でも橋ノ森だけでなく近隣諸国からも、こんな辺境にも関わらず参拝客が絶えません」
「そういうことでしたか。こちらの方々は強い信仰心をお持ちなのですね」
「それだけではありません。少々お待ちを」
所守さんはコップに湖の水をすくって、テーブルの上に置いた。
「恐縮なのですが、口に含むだけでよろしいので、どうか召し上がってみてください」
ろ過もされていない真水を飲むことに抵抗感をぬぐい切れないが、所守さんの笑顔のプレッシャーに負けて、恐る恐る口にしてみる。
すると、口の中がやんわりと温かくなった。
水温が高いわけではない。
安心感を伴う、心地よい精神的温かさとでもいうのだろうか。
僕は、そのままコップの水を飲み干す。
すると、体に残っていた昨夜の疲労感だけでなく、心にこびりついていたストレスまでも洗い流されるように消えていった。
僕は驚きをもってコップを見つめることしかできなかった。
「これは、ただの水ではない、ということですか」
「左様でございます。この湖は、いまだに女神様の加護を受けているのです。体内に取り込めば、微量の回復薬の効果がございます。もちろん、当館の料理にも使用しております。食事として摂取すれば、食材の質を高めるだけだはなく、さらなる滋養効果を発揮するのです」
なるほど。
回復薬は高価な商品だ。
ここなら飲み放題。
しかも料理として美味しく病気や怪我の回復ができるのだ。
「さらに湯として沸かして入浴すれば、体に溜まった悪い成分を浄化する作用もございます。医者も匙を投げる難病のお客様も湯治にいらっしゃいます。今晩よろしければ、ぜひ堪能してください」
これは、究極の保養地に違いない。
でも疑問も残る。
「ここなら療養にも、最高のバケーションにも最適なのですね。でも失礼ですが、そんな楽園に他の客人を見かけないのが不思議です」
所守さんの表情に影が差す。
「人間にとっての楽園は、他の生物にとっても楽園なのです。北の山を赤水山脈というのですが、そこは魔物の巣窟となっているのです。湖の効能を求めて、または、そこに集まる野生動物や人間を求めて、下山してくることがあるのです。麓には砦もあるのですが、昨夜のように手に負えない強力な魔物が下りてきたときには、サイレンを流して観光客を逃がすのです」
危険を孕んだパラダイスということか。
でも話を聞く限り、橋ノ森の人たちにとって、ここは心の拠り所というか、聖地に近いのではないだろうか。
たぶん多くの病人や、心を病んだ人たちを、この地は癒してきたのだ。
それは強い女神信仰と結び付いた。
命の危険を冒して、治癒を求めるという矛盾は、そうでもしないと説明がつかない。
そういえば、正成さんがやけに静かだ。
向かいの席を見ると、彼女はナイフとフォークを持ったまま固まっていた。
皿の上にはきれいな盛り付けが跡形もないオムパニスの残骸が散らかっていた。
そうか。
洋式の食事に免疫がないのか。
昨夜はそつなく僕のアシスタントをこなし、周りにも的確な指示を飛ばしていた完璧美人の弱点を見つけてしまうと、ちょっと嬉しくなってしまう僕は、意地が悪いのかもしれない。
僕は一口大のオムパニスをフォークに乗せて、彼女の口元に運ぶ。
「正成さん、はい、あーんして」
瞬間、彼女の顔は羞恥に染まる。
ただでさえ細い体が、一回り縮こまっている。
「空十様、そ、それはちょっと。周りの目もありますし」
「はい、あーん」
彼女は目を閉じて、まるで崖から飛び降りるような緊張感をもって、オムニバスを嚥下した。
「空十様は、サディストです」
「そんなこと、ないです。正成さんにもおいしく食べてほしいだけです。はい、あーん」
「ふゅっ!まだ続けるのですか。ほら、所守さんに笑われているではないですか」
そう言いつつも、正成さんは、今度はちょっと嬉しそうに食べてくれた。
彼女は、僕を主君と崇めて付き添ってくれている。
でも、僕は彼女のことを部下のようには思えないし、もっと近しい関係性でいたいと思う。
正体はおじさんなので、自分でも恋愛感情によるものなのか、あの地獄の夜を潜り抜けた戦友に向ける親しみなのかはわからないけど。
「空十様の変態的嗜好に従い、耐え忍ぶのも臣下の務めです。周囲の好奇の視線にも、空十様がお喜びになるのなら、某は甘んじて受け入れましょう」
今度は、自ら進んで大きく口をあける。
人に対して口内をさらすというのは、最も無防備な行為だ。
信頼の証だから嬉しくもあり、でも、そんな仕草が妙に色っぽいから、ちょっと困ってしまう。
「空十様。人の口の中を吟味するように凝視する加虐性に、放置プレイまで上乗せされるとは。想像以上に重篤ですね。大丈夫です。某なら耐えられます。ただ、あちらの方々が困り果てておりますが」
「あぁ、ごめんね」
やっちゃった。
そんなに見てたかな。
ちょっと妄想癖もでちゃったかも。
でも、あちらの方々って誰。
「あ、いや、私たちのことはお構いなく続けてください」
いつの間にかテラスには、昨夜の軍人さん達が規則正しく整列していた。
先頭の指揮官らしき人が、気まずそうに視線を逸らす。
今度は僕が気恥ずかしさで、心臓を握りつぶされる番だ。
「その、お恥ずかしい醜態をさらしてしまいまして。お加減はいかがですか」
僕が何とか取り繕おうとすると、指揮官は僕の手を両手で強く握り、目頭熱く感極まった様子で頭を下げた。
同時に、隊員たちも帽子をぬいで、一糸乱れぬ最敬礼をする。
「まさか五体満足で帰還できるとは思いませんでした。部下たちは死を覚悟し、私も両腕を失い、もう妻の肩を抱くことは叶わないと諦めました。あなたは旅の方と伺っておりますが、もしや大賢者さまの縁者なのでしょうか」
「大賢者さま、ですか。いえ、そんな大層な身分ではありませんよ。でも、そのような偉い方がこの国にはいらっしゃるのですか」
「いえ、百年も昔の、半ば伝説に近いお話ですよ。しかし、昨晩あなたがもたらした奇跡は、私が子供のころ聞かされた大賢者様のおとぎ話のようでしたので」
Bランクヒーラーの治療行為は、この国の人にとっては奇跡となるのか。
もしかしたら、スキルというものは僕が思っている以上に、この世界では稀有な存在なのかもしれない。
今後は、もっと慎重に行動しなければならないだろう。
「今回の討伐結果を、我々は早急に王に報告しなければなりません。この度の魔物の下山は今までのケースとは異質すぎるのです。その前に、空十様にお礼とご挨拶をしなければと思いまして。そして、あなたのようなスキルホルダーの存在も、私たちは職務上、報告しなければならないのです」
この国ではスキルを持つ者をスキルホルダーというのか。
やはり回復魔法は目立ってしまったらしい。
そして、それが伝説級ともなれば、国家による管理が必要ということだろうか。
「あの、もしかして僕は連行されるのでしょうか」
その瞬間、正成さんから赤黒くて重量感の伴う殺気が、軍人さん全員へと拡散された。
緊張は走らない。
そんな余裕すらない。
場を満たしたのは、圧倒的恐怖。
重症になりながらも魔物を打ち払った強者達が、一方的に怯えるしかない状況。
それはそうだ。
彼女はAランクキャラクター。
つまりは、Aランクスキルホルダーなのだから。
僕となんて比べようもない。
「正成さん、落ち着いて。まだ彼らは何も言ってないよ」
「御意」
放っておいたら、殺気だけで死人が出そうだったし。
昨日、二人で疲労困憊になりながら助けた人たちですよ。
ほら、指揮官さんが、唇を青くして弁明してくれている。
「そんなことは決して致しません。我々の王は義理堅い方なのです。もし助けてもらった恩人の存在を報告しなければ、私たちは職務怠慢で叱責を受け、職を追われるでしょう。しかし、空十様にご事情がおありなら、我々は口を閉ざします」
「それは駄目です。あなた達のように人々のために血を流せる英雄を失えば、僕たちはこの国の民に恨まれてしまいます。それはいけません。僕は、あなた達や所守さんのような人と良好な関係を結ぶために旅をしているのですから。ありのままを報告してください。いいよね、正成さん」
彼女は恭しく頷く。
辺りを覆っていたどす黒いものは霧散したが、軍人たちの背には、拭い切れない畏怖をともなうトラウマが根を張ってしまったようだ。
死ぬ以上の経験をいとも容易く振りまける彼女の力を、僕はもっと慎重に見極めなければならないのかもしれない。
僕は彼らと一人一人握手を交わした。
指揮官さんと同じように、自分が助かったことより、家族や恋人と再会できることを彼らは感謝していた。
立派な男たちが、メンツをおくびにも出さず、感情的に。
今になって、生まれて初めて、僕は自分を完全に肯定することができたような気がする。
それは、とても気持ちの良いもので、初夏の涼しい森の中を走り抜けるような、秋の温かい匂いに満ちた落ち葉の上を転げまわるような、不思議な感情だった。
僕は、馬車に乗り込み帰途に就く彼らを、そんな慣れない感情に戸惑いながら見送ったのだった。




