最終節:吸血鬼の物語
ことの起こりは冬のロンドン、流行を追うに忙しく、放蕩のかぎりを尽しぬいた紳士淑女あまたつどう夜会たけなわの折柄、位の高さよりむしろ妙なふるまいで人の目をひくひとりの貴顕があった。この男、何の仔細があってか歓談の輪には交わらず、つねに身をひいてあたりの様子をただうちながめている。美人の嬌笑のみ心が惹かれるようだが、ひと睨みすれば黄色い声たちまちおさまり、女どもの思慮あさい我儘ざかりの心のうちにはひと筋の畏怖の影がさした。何が怖いのかはよくわからない。きっとあの死人のような灰色の目のせいよ、と言うのもある。たまたま目がとまった人の顔を、凝と見つめるでもなく、ちらと眺めるだけで心の奥まで見とおすような目。ところがいざ視線が合えば、眼孔にわかに曇って、鈍色の重くよどんだ頬の方へと目を伏せる。いずれにせよ変わった人だということで男は方々の宴席に招かれ、いずこでも歓迎された。
ジョン・ポリドリ『吸血鬼』より
最終節:吸血鬼の物語
水の流れの音が耳に届き、ジェラルダインはそちらに目を向けた。昨夜雨が降ったせいか、ロンドンのあちこちを流れる運河は増水しているようだった。
吸血鬼にとって流れる水は恐ろしい存在でもある。足を踏み入れれば最後、魔力の行使どころか体が動かなくなり、流されることしかできなくなる。それ故に吸血鬼は流水を渡ることができない。
そしてその運河に掛かる橋の上で人間嫌いの吸血鬼はジェラルダインを待っていた。その石造りの橋を舞台に仰々しく語り掛ける。
「月は陽の光がなければ照ることはない。我々にとって糧となるあの光は、元は我々にとって毒となるあの忌々しい太陽の光と同じものだ」
ルスヴンは三日月を背にジェラルダインを待つ。ジェラルダインは彼の前に立ち、そして槍を右手に握ったまま首を傾ける。
「人間と吸血鬼も同じだ。特に私と言う吸血鬼は。認めよう、ジェラルダイン嬢。元々は私も人間と同じ存在であった。そして今でもその根本は変わっていない。一見全く別の存在になったように思えても、忌わしき太陽が無ければ月は輝けぬように、私は人であった過去から逃れられない」
始祖の吸血鬼の背後では、月が陽の光を反射して青く優しい光を降り注いでいる。ジェラルダインの蒼い目はその光を通してルスヴン卿を見つめていた。
「貴方だけではない。多かれ少なかれ、始祖と呼ばれる吸血鬼は皆人としての過去に囚われる。人としての終わり、死が吸血鬼としての物語の始まりだから。その死が自分にとって特別なものであればあるこそ、我々は過去から逃れられない」
灰色の目の吸血鬼は一瞬意外そうな顔をして、それから満足げに頷いた。その懐に手を入れ、彼は人間の頃に愛用していた短剣を取り出す。
「その通りだなジェラルダイン嬢。私たちはその過去の記憶のために愛しき宿敵となった。だから私は貴方と刃を交える時、奇妙な安らぎを覚えるのかもしれないな。過去は違えど同じ思いを持つ吸血鬼同士だからこそ」
ルスヴンは短剣を逆手に構え、そしてその腕を前に突き出した。
「さあ、始めようか死の舞踏を。今宵の夜会の会場はここだ」
一陣の夜風が吹いた。それがジェラルダインの金色の髪を揺らすと同時に、ルスヴンが地面を蹴って前方へと飛び出す。ジェラルダインが槍を横に薙ぐとルスヴンは上へ跳んでそれを避けた。そのまま彼はジェラルダインの背後に着地し、短剣を握った右腕を前へと伸ばす。
その一撃はジェラルダインの脇腹を掠め、ローブを裂いて浅い傷を残した。銀による激しい痛みがジェラルダインの脳に響く。
この吸血鬼とはこうして幾度も血を流し合った。彼との戦いは吸血鬼同士の戦いであると同時に、人の時代から今に続く互いの歴史のぶつかり合いでもあるのだろう。
ジェラルダインは左足を軸足にして振り返るとともに槍をルスヴンに向かって叩きつけた。ルスヴンは短剣を片手に構え、互いの刃が衝突して火花を散らす。
「人であった頃に出会えたのならば、我々は良き友となれたのかもしれないな。まだ誰かのために生きられたあの頃ならば、魂を魔に染められていないただの兵士だったならば」
ルスヴンは短剣を順手に構え直し、そして口元だけで笑った。
「嬉しいお言葉ね。だけど今の貴方からのお誘いは、お断りさせて頂こうかしら」
互いに人としての過去に囚われ、相似した思いを残し吸血鬼となった魔物同士。それ故に相容れぬ。だからこそ負けられぬ。
ジェラルダインは槍を回転させ、迫ってきたルスヴンの腕をその刃で斬り飛ばした。血を噴き出させながら彼の腕は宙を飛び、そして運河に落ちて消えた。
「手荒いな。だがそれも君の魅力だ。気高い意志を持つ魂は何よりも美しい」
月光によりルスヴンの切断された腕は既に再生を始めている。この月影の下ではこの吸血鬼を殺すのは難しい。腕ではだめだ。首か心臓を狙わねば。幾らルスヴンであろうとも、首や心臓を失った上で運河に落とされればひとたまりもないだろう。
「ならば私に殺されるのは本望でしょう」
ジェラルダインは槍を薙いだ。それはルスヴンの首を掠め、傷をつける。青白いその皮膚に、赤い血が斬撃の軌跡となって現れる。
「いや、今宵は私の物語に終止符を討つに相応しい夜ではない。私の物語の終わりは、この私が決める」
「ならば私の物語を終わらせる?」
ジェラルダインの槍が突き出された短剣を弾き、直後ルスヴンの胸を貫いた。普通の吸血鬼であれば致命傷になるような傷だ。
ルスヴンはしかし、心臓を破壊されながらも少しの焦りも見せなかった。むしろにやりと笑みを浮かべると、地面を蹴って槍から自らの体を引き抜いた。傷口から血が零れる。
「それもごめんだ、ジェラルダイン嬢。私は貴女を失いたくはない。私と同じように人としての思いに囚われ続けるその存在が消えてまっては寂しいと、そう思うからね」
ルスヴンは振り下ろされた槍を片手を掲げることで防いだ。その衝撃で右腕の骨が砕けるが、月光の下ではそれもすぐに癒えてしまう。
「それに貴女と踊るこの舞踏は、何よりも私を熱くさせる」
「歪んだ告白をありがとう」
ジェラルダインはルスヴンの首を狙って槍を振った。月光の下では心臓を貫いただけでは駄目だ。それだけではこの吸血鬼は滅ぼせない。
ルスヴンが後ろに一歩下がった。ジェラルダインは逆に一歩踏み出し、欄干までルスヴンを追い詰める。
「でも貴方の舞踏は、今宵が最後よ」
ルスヴンの振るった短剣がジェラルダインの首に突き刺さる。だがジェラルダインはその痛みに怯むことなく、ルスヴンに槍の柄を力任せに叩きつけた。
その衝撃でルスヴンの背後の欄干が砕け、ルスヴンの体が支えを失った。だがそれでもルスヴンの表情は変わらなかった。
「終わらないさ。私の歴史はまだ続く。貴女にそれは決められないよ」
ルスヴンの囁くような声が聞こえた。その体は運河の水面に向かって落下して行くが、彼の口元には笑みさえ浮かんでいる。
ルスヴンの体が水に沈み込み、そしてその流れに呑まれて消え去った。吸血鬼の弱点である流水の中へ。ジェラルダインはその水面に向かって己が首に突き刺さった短剣を投げた。
「終わった……」
ジェラルダインは深い溜息を吐いた。普通の吸血鬼であれば、流水に落ちた時点で誰かに助けられぬ限り、その身が朽ちるまで波に漂う羽目になる。故に大きな怪我を負ったまま流水に落ちて無事な吸血鬼は基本的にはいない。
「今夜も情熱的でしたわね、彼」
「どんなに頑張っても私は落とせないけどね」
背後に現れた碧色の目の吸血鬼に、ジェラルダインはそう肩をすくめて答えた。
戦いを傍観していたのだろう。クラリモンドはおかしそうに笑い、橋の欄干から運河を覗き込んだ。
「でもルスヴンのことですもの。あれぐらいで死ぬかしら。わざわざこの場所を戦いの場に選んだのは、ジェリーの行動を見越してのことかもしれないし。ただあたしだったら絶対に嫌ですわ、こんな水の中に飛び込むなんて」
「あなたは泥が跳ねるのだって嫌がるじゃないの」
ジェラルダインは槍を背に仕舞い、そしてずっと向こうまで続いている運河を眺めた。クラリモンドがその横に立ち、ジェラルダインの顔を覗き込む。
「何よ」
「ふふ、何でもないの。でもまたジェリーの前に現れるでしょうねあの吸血鬼。そんな気がしますもの」
「その時はまた仕留めるまでよ。そう依頼を受けたのだもの」
クラリモンドの言う通り、ルスヴンはまた現れるかもしれない。まだ彼の滅びをこの目で見た実際に確かめた訳ではないのだから。
「きっとあなたにご執心されて、ルスヴンも喜んでいることでしょうね」
クラリモンドの声が夜に滑り、そして彼女は青緑に輝くドレスを翻して歩き始めた。ジェラルダインもまた、それに続いて運河を離れる。
彼がまだ存在しているのならば、それぞれの吸血鬼の物語は紡がれ続ける。そしてそれが続く限り、いつか再び交わる時が来る。それがまた宿敵との再会の日となるのだろう。
それはどちらかの物語が最後のページに辿り着くまで延々と続く運命だ。彼のページがまだ残っているのならその日は必ず来る。
そんな未来に思いを馳せて、吸血鬼ジェラルダインは月の光に包まれるロンドンの帰路を辿る。
異形紹介
・ルスヴン卿
1819年のジョン・ポリドリの小説『吸血鬼』(原題『Vampire;a tale』)に登場する吸血鬼。ロンドンの社交界に現れる整った顔立ちをした、灰色の目と鈍色の重く淀んだ頬の男の姿として描かれ、作中では人間オーブレーとともに欧州を旅している中でその吸血鬼としての正体を現す。
『吸血鬼』におけるルスヴン卿は人間とも思えぬ大力を見せ、銃弾に倒れるも月光を浴びることで蘇生するという能力も発揮している。またナイフを始めとした武器一式を所持していたことから様々な武器を使うことができた可能性もある。変身能力や飛行能力は見られないものの巧みな話術や誓わせた事柄を決して破らせない催眠術のような力を使い、そして善人を破滅に追い込む冷酷さを持っている。また作品のもう一人の主人公であるオーブレーに対しては、恋人や妹をその手に掛け殺すなど執着しているような様子も伺える。
ルスヴン卿、そして『吸血鬼』は後の吸血鬼文学に大きな影響を与え、貴族的吸血鬼の元祖であると言われている。また吸血鬼を暑かった小説の最古だとされることもあるが、1800年の『死者よ目覚めるなかれ』、1805年の『O伯爵夫人』等更に古い吸血鬼小説も発見されている。また『吸血鬼』もポリドリが仕えていた詩人バイロン卿の未完の作品『断章』を元にしていると言われ、実際にこの作品では『吸血鬼』のある場面と相似した場面が描かれている。更にルスヴン卿のモデルはバイロン卿であるとも言われている。
しかしこの作品が欧州に吸血鬼ブームを巻き起こしたのは確かであり、この作品の影響を受けた様々な作品が後世に登場した。また『吸血鬼』も当時のヨーロッパで様々に演劇化され、原作のストーリーを忠実に演劇化したものから『島の花嫁』のようにキャラクターや物語中の要素を抜き出す形でオリジナルのストーリーが描かれたものもあった。この作品では『吸血鬼』でルスヴンが「マースデン」という偽名を使っている故か、吸血鬼となる男の名前がルスヴン・マースデンとなっている。
『吸血鬼』は現在でも様々な人間によって翻訳が行われ、多くの吸血鬼を扱った書籍に収録されている。ルスヴン卿もまた、一人の代表的な吸血鬼として吸血鬼を扱った多くの物語の中に登場しているようだ。