第五節:断章
しばらくすると、口嘴に蛇をくわえた鸛が飛んで来て、近くの墓石の上にとまった。獲物を食べず、じっとこちらを見つめているかのようであった。私は何か自分でもわからぬ衝動にかられて鳥を追い払おうとしたが、鳥は二、三度宙を旋回ると、前とまったく同じ場所に戻ってき来た。ダーヴェルは鳥を指差して微笑み、口を開いた――私に言ったのか、独言なのかわからぬが――「よし」――とそれだけだった。
ジョージ・ゴードン・バイロン『断章』より
第五部:断章
隠れ家に身を顰めたルスヴン卿は、古びた椅子に身を沈め、三日月の光を眺めながら、吸血鬼となったかつてを思い出していた。この椅子の他にはベッドに机、そしてクローゼットが一つあるのみで、彼にとって必要な最低限のものしか置かれていない。集めているものと言えばナイフや短剣などの刃物ぐらいのものだ。それらもほとんどは戦闘の際に使い捨てにしてしまう。ずっと愛用しているのは、人であった頃から使っている一本の短剣のみ。
無意識のうちに何かに思い入れを持つことを避けているのだろうと、そうルスヴンは考えていた。何かに強い想いを持てば持つ程、それを失った時の喪失は大きくなる。
ジェラルダインは言っていた。人であった頃の過去に囚われ続けているのはルスヴンの方だと。それは彼自身にも分かっていた。人としての記憶を残したまま吸血鬼となった魔物たち。それが始祖の吸血鬼。それ故に始祖のものたちは、人であった頃の記憶に囚われる。もう二度と戻ることはできないその過去に。
あの故郷の島において、ルスヴンの人としての物語は未完成のままに断たれた。だがそれは人として受けた屈辱への復讐の始まりに過ぎなかった。その憤怒と憎悪とが吸血鬼となった彼に残された唯一のものだった故に。
かつての戦友と恋人、そして主を殺めたあの夜を切っ掛けとして、ルスヴンは人を破滅させ続ける魔となった。人の幸福を壊すことで自分を満足させようとし、そして同時にどんな人間にも悪魔のような側面があることを確かめるように、善良な人間たちに好んで近付くようになった。
オーブレーもその一人だった。あの男はどこまでも善良そうで、疑うことを知らない。そんな人間だった。それが過去の自分を見ているようで、腹立たしかったことを思い出す。そしてそんな人間も、自分は罪の意識もなく殺してしまった。
もう自分は吸血鬼としてしか生きられないのだろう。人としての過去に囚われるが故に、本当に魔物となってしまった。ならばこの吸血鬼としての生をできるだけ楽しむのだと、いつの時代にかそう決めた。だがそれがこの胸の穴を埋めたことはない。あの裏切りの日に穿かれたこの穴を。
吸血鬼は片手に持ったグラスを傾け、血のように赤いワインで喉を焼いた。魔物と化してから、どんなに酒をこの体に流し込んでも、酔うこともできなくなってしまった。ルスヴンは空虚な部屋を透かす空になったグラスを投げ捨てた。グラスは壁に当たり、粉々に砕けて床を汚した。
ルスヴンは燕尾服を身に纏った。今宵も夜会は開かれる。数夜前のジェラルダインとの戦い以降、血を体に入れていない。この空腹を満たせるのは血液のみだ。今夜こそは獲物を見つけねばならない。あの吸血鬼と再び相会えるためにも。
「始祖の吸血鬼は人であった頃に囚われる。そういうものなのかしらねクリスチーナ」
陽の光が届かぬ地下室。そこでジェラルダインは長椅子に腰を下ろし、側で紅色のブーツを手入れしている女吸血鬼にそう尋ねた。地下室には明かりは無いが、吸血鬼にその暗闇は問題にならない。クリスチーナと呼ばれた女はブーツを布で磨きながら答える。
「皆が皆そうって訳じゃないだろうけど、そういうのは多いんじゃない? わたしもあんたも、あとクラリモンドもそうでしょ。本人は詳しいことは話したがらないけどさ」
黒い髪を肩の辺りまで伸ばした紅い目の吸血鬼はブーツを両足に履いてジェラルダインの横に腰を下ろした。青白い顔に真紅の唇と瞳が良く映えている。
クリスチーナもまたジェラルダインと同じ始祖の吸血鬼。人であった頃の記憶をその身に宿したまま魔物となった。そしてジェラルダインの友人であり、彼女の仕事を手伝ってくれる仲間でもある。
「そのルスヴンって吸血鬼は人間に裏切られて殺されたから、人間を憎んでるんでしょ? わたしもその気持ちは分からないでもないけどね。でもジェラルダインが関係ない人を犠牲にするやり方を嫌っているのも分かる。そしてそれも突き詰めれば、あんたの人であった頃の記憶が原因なんでしょ?」
クリスチーナが足を組み、そう尋ねた。ジェラルダインもそれに答えて頷く。
自分だって吸血鬼となった時、クリスタベルという友がいなければどうなっていたか分からない。ルスヴンが自分を殺し、裏切った人間を憎み、無関係な人間を巻き込んでいるように、彼女もまた家族を滅ぼした魔物を憎悪し、無差別に魔物を襲う怪物になっていたかもしれない。ジェラルダインは思う。
「私も彼のことをとやかくは言えないってことか」
人として生きるための物語を断たれた時、その先には吸血鬼としての物語が紡がれる。だが始祖の吸血鬼にとっては、それは人間であった時代と地続きのものとなるのだ。
ジェラルダインが家族を魔物に殺されたため、悪意を持って人を殺す魔物を憎むようになったように。ルスヴンが人に裏切られ、人間たちを憎むようになったように、吸血鬼になったからといって簡単には別の存在には変われない。
クリスチーナがジェラルダインの方を向いた。首を動かす度、その両耳につけられたルビーのピアスが揺れる。
「それで今夜もまた行くんでしょ? 助太刀いる?」
クリスチーナが地下室の天井を眺めながらそう尋ねた。窓など無くても分かる。陽が沈み、夜が来たのだ。そしてルスヴンの動向はもう掴んでいる。
「いいえ、彼とは私が決着をつける。この先何百年掛かろうとも」
「言うと思った」
クリスチーナは組んでいた足を直し、立ち上がった。ジェラルダインもまた彼女に続いて立ち上がり、そして壁に立て掛けた槍をその右手に掴んだ。
ルスヴンとの戦いで消耗した魔力はもう回復している。今宵は万全で戦える。
「あら、ご機嫌ようルスヴン卿」
男も女も、様々に着飾って自分を誇示する煌びやかなロンドンの夜会。その中でもひときわ目立つ一人の女にそう親しげに声を掛けられ、ルスヴンは眉を顰めた。
「クラリモンド嬢、何か私に御用かな?」
ルスヴンは瞳に警戒の色を滲ませ、目の前の女を見る。
潤いを持った碧色の瞳に豊かなブロンドの髪、真っ赤に彩られた唇は上品に微笑みの形を作っている。その優美な曲線を描く体には鮮やかな青緑色のビロードのドレスを纏い、首からは瞳と同じ色のエメラルドの装飾がなされたネックレスが下げられていた。肌は透き通るばかりに白く、ドレスから覗く腕はどこまでも華奢だ。
この女を初めて見たものはどこぞの女神と見紛うかもしれない。だが彼女は神でも天使でもない。その正体は吸血鬼だ。ルスヴンやジェラルダインと同じ、血を啜る夜の魔物。
「ジェリーが貴方に会ったと話していたから、少し気になったのよ、色男さん」
クラリモンドは不敵な笑みを浮かべ、ルスヴンの前で立ち止まった。女性としては背が高い方ではあるが、それでも長身のルスヴンの前では頭一つ分低い。
「ここにいるのは偶然ではないということかな。それでどうする? 君も私と戦うかい?」
ルスヴンは周りの人間たちに聞こえぬような囁き声でクラリモンドに問うた。だが碧の目の吸血鬼は口元に手を当て、おかしそうに笑った。
「ふふ、貴方とジェリーとの仲に入り込むような、そんな野暮な女にこのあたしが見えて?」
クラリモンドはくるりと踊るように回ってルスヴンから離れると、その細い人差し指を自身の唇に当てた。
「でも、もし貴方が戦いたいと言うのなら、あたしも負けるつもりはなくってよ」
クラリモンドがドレスの裾をそっと持ち上げると、その太股のホルスターに納められた銀色のリボルバー銃が覗いた。恐らく込められているのは銀の弾丸だろう。あれで撃たれると厄介だ。特に体内に弾が残ってしまった際には地獄のような苦しみを味わうこととなる。それに銃は嫌いだ。あの夜を思い出す。
ルスヴンは懐の短剣に手を伸ばしかけて、そしてその手を止めて肩をすくめた。
「無駄な戦いはしない主義でね。それに君がここにいるということは、既にジェラルダイン嬢にこの夜会も知られているということだろう?」
ルスヴンが手を下ろしたのを見てクラリモンドもまたドレスの裾を下ろし、彼の問いに答える。
「夜会を好む吸血鬼は貴方だけではないもの。貴方みたいな有名人の噂は、すぐにこの耳に届くとは思わない?」
クラリモンドは今度は自分の耳を指で差し、そして悪戯ぽく微笑した。
「君の方こそ有名人だろう。世界中の男が放っては置かない。ただし本性を知らない男のみだろうがね」
「残念、あたしが心に決めた男はひとりだけ。だから未来永劫、あたしは誰かと一緒になるつもりはないの。罪な女でしょ? じゃあ、ジェリーをよろしくね」
クラリモンドはそう言い残し、彼に後ろを向けて歩き出した。ルスヴンは追おうとせずにその背を見送る。やがてその姿は夜会の人々の雑踏に紛れ、見えなくなる。
「さて、今宵は月が出ているかな」
ルスヴンはそう一人呟き、クラリモンドとは逆の方向に歩き出した。あの吸血鬼はどうも苦手だ。煌びやかな装飾を纏ったその表面はいつも明るいのに、その中身にはいつももやもやとした黒い何かが渦巻いている。まるで今の自分と同じようだ。それにここで獲物を見つけてもクラリモンド、そうでなくともジェラルダインに食事を邪魔される可能性は高い。
ルスヴンは言い寄って来る女を適当にあしらい、そして早々に夜会を後にした。
そして宿敵に会うため、月の照る夜の元へその身を曝け出す。