第三節:島の花嫁
だが、美しい娘よ、お前が結婚するのは一度だけ、
二度目の初夜の床を迎えることはないだろう。
ジェイムズ・ロビンソン・プランシェ 舞台『島の花嫁』より
第三節:島の花嫁
人間嫌いの吸血鬼、そんな彼が自身もまた人間だった頃、ルスヴン・マースデン伯爵はロナルド卿という島の領主の城に雇われ、兵士として暮らしていた。城があるのはスコットランドはウルヴァ島という島で、小さいながらも豊かな自然に囲まれた、温暖な島だった。
ルスヴンは優秀な兵士だった。短剣の名手として幾多の戦に参加し、主の命を何度も救い、そして名声を欲しいままにしていた。
それ故にルスヴンはロナルドに気に入られ、その一人娘マーガレットとの婚姻を約束された。ルスヴンは彼女を愛し、マーガレットもまた彼を愛していた。二人の恋は今や島々に普く知れ渡っており、人々は島の花嫁の誕生を待望していた。
しかしその頃、スコットランドはイングランドとの大きな戦争の真っただ中にいた。それ故にロナルド卿は、未だ己が娘とルスヴンとの婚姻の契りを結ばせてやれずにいた。彼もルスヴンも、いつ戦場に駆り出されるとも分からぬ状態にあったのだ。
そしてその予想通り、彼らの島の兵士たちも戦場へ呼び寄せられることとなった。場所はフランドル。祖国のため、そして名誉のため、戦への参上を断るという選択はロナルドも兵士たちも持ち合せていなかった。
その出征の前夜、ルスヴンはマーガレットを誘って島の海岸に赴いた。これまでにも島の外に戦いに出たことは幾度もある。だが今回はその中でも特別大きな戦いだった。
ルスヴンは屈強な戦士ではあったが、常に死を恐れるただの人でもあった。彼が兵士としての強さを求めたのも、根本には死を恐れる心があったからだった。
主の前でも他の兵士たちの前でもなく、恋人の前ではその弱さも彼の中に現れる。ルスヴンは月を映す水面を眺めながら、沈んだ声で言う。
「私は明日、この島を立ちます」
「ええ、存じております」
マーガレットもまた、静かな声で答えた。波の音が二人の間に反響する。
「でもあなたは強い。きっとまた無事に帰って来て下さると信じておりますわ」
「私もそう信じております。貴女のために私は何としてでもこの島に戻ると誓いましょう。だからその暁には、貴女と正式な夫婦となりましょう。あなたもそう誓って頂けますか?」
「はい、もちろんです」
そのルスヴンの言葉に、マーガレットはとても嬉しそうに頷いた。ルスヴンは安堵して、そして彼女の肩を抱いた。
何としてでも次の戦からは生きて戻らねばならない。この人としての幸福を手放さないために。
だがそんな彼の想いは、同じウルヴァ島の兵士によって引き裂かれることとなる。
フランドルにおける戦い、その戦火の中でもルスヴンは功績を上げていた。飛び交う弾丸を掻い潜り、その愛用の短剣で敵兵の首を、心臓を貫く。時には銃をその手に持ち、引き金を弾く。
これまでに何百人も殺して来た。誰かの血を流すことしか知らなかった。だが今のルスヴンには彼の帰りを待っているマーガレットがいる。ただ人の命を奪い続けたこの人生に、ようやく春がやって来る。
この戦場を生き残り、そして島へ帰ることだけを考え、ルスヴンは短剣を振った。後ろには多くの兵士を従え、そして隣には戦友のオスカー・モントカームが付いていた。彼は何度も共に戦場を駆け抜けた仲間だった。背中を安心して任せられる親友だった。
それ故にその夕暮れ時、オスカーに呼び出され、彼を待っていたルスヴンは自分の背から胸を貫く鋭い痛みの正体が最初は分からなかった。
左胸に穴が開き、そこから血が迸る。ルスヴンはそれを見て、そして背後を振り返った。
最初は知らぬ間に敵に背後を取られたのだと思った。もし本当にそうだったのなら、どんなに良かったのだろう。だがルスヴンの瞳が捉えたのは、自分に銃口を向けた戦友の姿だった。
「オスカー……なぜ……?」
辛うじてそれだけ口にして、ルスヴンは倒れた。戦場となったフランドルの、冷たく乾いた砂の感触が頬を伝わる。
「お前が邪魔だったんだよ、ルスヴン。二人っきりになれる時を待ってたぜ」
オスカーはルスヴンの側にしゃがみ込み、そして倒れた兵士の顔に唾を吐いた。遠のく意識の中で、ルスヴンは戦友だった男の言葉を聞いていた。
「同じ主に仕え、同じように戦果を挙げているにも関わらず、名誉も、マーガレットも、全てお前に奪われた俺の気持ちは分からんだろうな。お前がいたせいで俺は常に二番手だった。だからこうして、いつかお前を殺す機会を伺っていたんだよ」
そんな理由でこの男は自分を裏切ったと言うのか。怒りが体の奥から沸いて来るのが分かった。だがそれとは反比例してルスヴンの体は冷え、動かなくなって行く。
「安心しろ。お前の代わりは俺が完璧に務めてやる。マーガレットにも寂しい思いはさせないさ」
そう言い残し、オスカーはもう動けないルスヴンの体を抱え上げた。抵抗する力も残されておらず、ルスヴンはされるがままとなる。
オスカーはしばらくルスヴンを抱えたまま歩き、そして小さな森の中の大きな石の上にルスヴンの亡骸を置いた。木々の葉の間から木漏れ日のように月光が漏れる、薄暗い場所だった。
オスカーはそれ以上は何もせず、ただ背を向けて去って行った。後にはただ月光に照らされるルスヴンのみが残った。
ルスヴンは人として死んだ。だがそれは彼にとっては新たな誕生の序章に過ぎなかった。死に狭間に彼が思ったのは、まず島で彼の帰りを待っている婚約者のことだった。
マーガレットが待っている。島に帰らねば。誓いを、果たさねば。その一心が彼を死の沼から新たな存在として掬い上げた。
その死から幾日も過ぎたある夜、月の光を浴びながらルスヴンは起き上がった。
最初は深い眠りから目覚めたような心持だった。頭が重く、瞼に力が入らない。だが次第に頭が覚醒してくるにつれて彼は最後の夜のことを思い出した。そして自分の左胸に手を当てる。
衣服はあの日彼に撃たれた時のままで銃創ができていたが、胸の傷はすっかり消えていた。そして同時に、本能的に自分が人ならざるものとして甦ったことを理解した。あの傷が自然に治ることはない。それに人が人のままに死から甦ることも。
「マーガレット……」
それでも愛した女の記憶は消えていなかった。ルスヴンはすぐ近くに落ちていた自らの短剣を拾い上げ、懐に仕舞った。そして、故郷の島へと帰る方法を探し始めた。
ルスヴンがウルヴァ島の大地に再び足を乗せた朝、彼は酷い胸騒ぎを覚えた。マーガレットに寂しい思いはさせないなどと言う、オスカーの戯言を思い出したのだ。
自分が死んだ夜から、一体幾日経ったのだろうか。他の兵士は皆、もう島に帰って来ているのだろうか。そうであればオスカーも島にいる可能性が高い。
マーガレットが自分を裏切るとは思い難いが、自分が死んだということが島に伝わっていれば、新たな花婿がロナルドによって選ばれている可能性もあった。それがもしオスカーだったら。ルスヴンは怒りに拳を震わせる。
いや、それでもマーガレットは私の帰還を待っていてくれている筈だ。ルスヴンは頭を横に振り、そう考え直す。彼女は誠実な人だ。きっとあの誓いを守ってくれる。
太陽が煌々と島の景色を照らしている。この太陽の下では体が思うように動かない。ただそこに立っているだけで体力を奪われる。オスカーに殺され、生き返ったあの日からずっとそうだ。
それでもマーガレットとの誓いを果たすため、ルスヴンは一歩ずつ島を進んで行った。
「あなたを愛しています、オスカー」
だがルスヴンが城に辿り着いて聞いたのは、かつての婚約者のその絶望的な言葉だった。魔物としての聴覚が、探していた彼女の声をルスヴンの耳に届けていたのだ。
声は城のすぐ側の海岸から聞こえて来るようだった。それはルスヴンが戦からの帰還を誓った、あの海辺だった。
ルスヴンはふらつく足取りでその海辺へ向かった。白い陽光が彼の体を蝕む。だが足を止めることはできなかった。
そして吸血鬼の灰色の瞳は、オスカーの隣に立つマーガレットの姿を映した。
ルスヴンは絶望的な思いでそれを見た。彼女の隣にはこの私が立つはずなのに、なぜあの男が立っている。私を殺したあの男が。
ルスヴンは懐に短剣を忍ばせてあることを確認し、そして足音もなく二人に近付いて行った。
「父もやっとあなたっとの婚姻を認めてくれました。あなたがルスヴンを亡きものにしたくれたお陰です」
「ええ、あいつがいなくなったお陰でロナルド様も我らの結婚を認めてくれた」
ルスヴンの魔としての聴覚は、その微かな声でさえ聞きとってしまう。
「父は私の自由を認めてくれなかった。ルスヴンとの婚姻も、父によって強制されたようなものです。島の主として相応しい相手と結婚しなければならないと、そう常に言いきかされて来ました。だからルスヴンには申し訳なかったけれど、私が本当に愛するあなたと結ばれるためにはこうするしかなかった」
そうマーガレットはオスカーの肩に自らの顔を預けた。そしてルスヴンは悟った。
マーガレットが彼に見せた表情は、聞かせた言葉は、あの夜に契った誓いは、全ては嘘だったのだ。オスカーとともに、ルスヴンを殺そうと目論んでいた。
ルスヴンは懐から短剣を取り出した。彼らのしたことが許されるものか。彼らは私の命を、誇りを踏みにじった。ルスヴンは鬼のような憎悪に身を駆られ、二人の前に飛び出した。




