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月影の下に魔は出ずる  作者: 朝里 樹
第一章 吸血鬼の物語
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第一節:老水夫の歌

 女の唇は赤く、目つきは不敵で

 髪は金色に輝いていた

 肌は癩病らいびょうやみのように白く

 まさに悪夢に出てくる「死中の生」、

 生者の血をも凍らせる魔物であった。

 

 サミュエル・テイラー・コールリッジ『古老の舟乗り』より


第一節:老水夫の歌


「船があってな」

 そう古老は言った。襤褸布ぼろぬのを体に纏って、その体は皮と骨。枯れ枝のような腕が一人の若い男を呼び止める。

 端正な青白い顔に灰色の瞳を持ったその青年は、古老の命じるままにその向かい側に座った。その色素の薄い目に、好奇の光が灯っている。

「歓呼に送られ舟は出た。港を後に楽しさいっぱい。教会見送り、丘を過ぎ、灯台仰ぎ見進んで行った」

 古老は歌うように話し始めた。舟は赤道へと進み、そして暴風に追い立てられて南極へと向かう。その霧と雪の世界の中で、次第に追い詰められた古老は船員に懐いていた一羽のアホウドリを殺したのだと語った。

 青年はただ古老の歌を聞いている。古老はそのしわがれた声をその喉からひたすらに絞り続ける。

「夜には鬼火が跳ね踊る。魔女の油か海のは、青、白、緑、燃え上がる。夢に見たという者がおった。わしらに取り憑いた悪霊が、九尋の底を追って来たのだと。あの霧と雪の国から」

 やがて老水夫の歌は、古老が出会ったと言う魔物の話へ進んで行った。南極を脱した舟は、今度は太陽の光に晒されたようだった。やがて水は干からび、人は焦げ付き、その絶望の中で、船乗りたちは自分たちに近付くもう一つの舟を見つけ、喜んだ。

 だがその夕陽に照らされた舟に乗るのは、人ではなかった。老水夫は目を瞑り、震える唇で語る。

「まさに悪夢に出て来る死中の生、生者の血をも凍らせる魔物であった」

「私はその魔物を知っているぞ」

 黙ったまま古老の歌に耳を傾けていたその若く高貴な男が、初めて口を開いた。口元に残忍そうな笑みを浮かべて、老水夫に顔を近付ける。

「今宵この町にその魔物がやって来る。お前の血を求めて現れる」

 男の言葉に古老の顔が恐怖に染まる。そしてそれは次第に絶望の色に変わり行く。それを見て満足げに頷くと、その男、ルスヴンは立ち上がり、そして何枚かの硬貨を彼の頭上に投げ落とした。軽い音を立てて硬貨が地面に落ちる。

「お前は救われたと思っているのだろう? だがお前に取り憑いた悪霊は、未だお前から離れてはいないのだ。お前の呪いは続いている」

 古老が顔を両手で塞ぎ、震え始めた。だがルスヴンはもう、小刻みに震え続ける老水夫を振り返ることもなかった。ただ満たされた笑みを顔に張り付けて、ロンドンの町を闊歩する。

 ルスヴンは懐に隠していた銀のナイフを取り出し、弄びながら考える。久々のロンドンだというのに、今宵の夜会は酷く退屈だった。ルスヴンは灰色の目を細めて考える。

 彼を見て媚び諂って近付こうとする女は大勢いる。だがそんな女にルスヴンは興味がなかった。余程の空腹でなければ、その血を飲もうとも思わないだろう。そもそも吸血鬼の魅了の力を使えば、獲物を意のままにすることは容易なのだ。だがそれでは面白くない。

 彼が好むのは、貞淑そうな人妻や今まで男と言葉を交わした経験さえ覚束ない箱入り娘だった。この世の邪悪な部分を知らぬような、そんな無垢な女だった。

 そんな女たちを言葉巧みに誘い出し、そして自分を信用仕切った相手の首筋に牙を突き立てる。自分は騙されたのだと知った女の表情が、存分に血の味を引き立てる。

 しかし今宵は彼の興味を引く人間はいなかった。無駄骨だ。だがそこまで気分は悪くない。何故なら今宵は彼を尋ねて来る客がある。懐かしい客人には、心からの持て成ししなければ。

「生者の血をも凍らせる魔物か」

 ルスヴンは背後に現れた気配にそう囁きかける。宙に放られたナイフの柄を、その青白い手が掴み取る。

「しかし生憎私は死者だ。死者の血は既に凍り付いている。違うかね美しき同胞よ」

 ルスヴンが振り返り様にナイフを投げる。それは真っ直ぐに飛び、しかし敵の眼前へ突き刺さることなく叩き落とされた。

 ナイフを弾いた蒼い柄の槍、そしてそれを握る白い肌の女が幻のように月夜に照らし出されている。

 吸血鬼ジェラルダイン。宿敵との再会を噛み締めるように、ルスヴンは浅く息を吐く。

「それがあなたが人を破滅させ続ける理由とでも? 人間嫌いのルスヴン卿」

 蒼い目の吸血鬼がルスヴンをそう睨み付ける。ロンドンに帰った時点で、ルスヴンもまた彼女との遭遇は予期していた。

「貴女が人間贔屓過ぎるのだよ、ジェラルダイン嬢。同じ始祖の吸血鬼ならば、不死者となった自らの境遇をもっと楽しむべきかと私は思うがね」

 ルスヴンは綺麗に髭を剃られた己の顎を撫で、品定めするように目の前の女吸血鬼を眺める。豊かな金の髪に整った顔形。それに強い意志を宿した瞳は、人間であったならばルスヴンの獲物としては相応しい女であったろう。だが目の前に立っているのは吸血鬼だ。残念ながら同族の血を啜る趣味は彼にはなかった。

 しかし殺し合いならば存分に楽しめる。彼女と初めて会ったのは百年以上も前だが、それ以来幾度も刃を交えている。相手は同じ始祖の吸血鬼。人間やただの魔物相手では得られぬ高揚感を、このジェラルダインならば得ることができる。

 ルスヴンは口角を小さく釣り上げ、腰から短剣を引き抜いた。




 ルスヴンが音もなく地面を蹴った。右手に握られたその短剣がジェラルダインの首筋に迫る。ジェラルダインは槍を立てて柄にその刃を当て、短剣の軌道を逸らした。

 銀が塗装された剣の刃が頬を掠め、直後ルスヴンが左手に握ったナイフを前に突き出して来る。ジェラルダインは槍から右手を放してその左手を掴んだ。その体を引き寄せ、ルスヴンの腹部に右足で蹴りを入れて弾き飛ばす。

 体勢を崩しながらもルスヴンの左手からナイフが投擲される。ジェラルダインは横に跳んでそれを避けた。ナイフは彼女の背後の壁に深く突き刺さり、同時にルスヴンが新たなナイフを取り出す。

「私の魔力を吸ったな」

「相変らず美味とは言えない味ね」

 ルスヴンが忌々しげにジェラルダインを睨む。灰色の目が動向を伺うように注意深くジェラルダインを見つめている。

 ジェラルダインは肌に触れたものの魔力や生命力を吸収する力を持っている。だがあの一瞬の接触だけでは全ての魔力を吸収することは不可能だ。相手は自分と同じ始祖の吸血鬼。魔力は膨大だ。簡単には吸い尽せない。

 ジェラルダインは槍を構え直す。青い柄を持ったこの槍の穂は、ルスヴンの短剣と同じく銀でコーティングされている。魔物同士、特にこのような不死身と言って良い程の治癒能力を持つもの同士の戦いの場合、銀は相手に致命的なダメージを与えるために有用な武器となる。銀によって付けられた傷は、他の武器と違って治癒が酷く難しいためだ。

「しかし貴女も律儀だ。貴女に私を殺せと依頼した人間は、遥か昔に死んでいるのに、まだ私を狙い続けるか。いかにも過去に囚われ続ける貴女らしい。それともただ私との遭逢を望んでいるのかね」

 ルスヴンは油断なく短剣を構えながら嘲るような笑みを浮かべ、そう言った。ジェラルダインはその吸血鬼の顔に冷たい視線を向け、答える。

「その依頼人を皆殺しにしたのは貴方じゃないの、ルスヴン。私は一度受けた依頼はやり遂げることにしているの。それに過去に囚われているのは貴方でしょうに。いつまで人であった頃に拘り続けるのかな?」

 ルスヴンの顔色は青白いまま、その表情が怒りに染まるのが分かった。ジェラルダインは槍を横に構え、ルスヴンに向かって突進する。

 横に振った槍は上体を後ろに反らしたルスヴンによって避けられた。直後ルスヴンがばねのように起き上がり、銀の短剣を前に突き出す。

 ジェラルダインは槍を半回転させてそれを弾き、逆にルスヴンの心臓を狙って槍を伸ばす。だがそれは左手のナイフを捨てたルスヴンによって柄を掴まれ、止められる。

「直接触れなければ魔力は吸えまい」

 ルスヴンは口の片端を釣り上げ、そして片手で槍ごとジェラルダインを持ち上げて投げ飛ばした。壁に叩きつけられ、鈍い痛みを感じながらジェラルダインは地面に降り、迫るルスヴンの短剣を槍で弾いた。そのまま槍の石突きでルスヴンを殴り、後退させる。

「さてどうする? 月が隠れて来たみたいだけど?」

 ジェラルダインはその首筋に槍の刃を突き付け、ルスヴンに問い掛ける。吸血鬼は月の光をその魔力の糧とすることができるため、空を見ずとも月の様子は分かる。

「確かに、この空の下で貴女を相手にするのは少々辛い」

 ルスヴンが短剣の刃を槍の穂に当て、そして右手で指を鳴らした。あと一歩で首を刎ねられるような状態でもこの男は余裕を崩さない。

「今宵は潮時かな」

 ジェラルダインはその言葉を無視し、ルスヴンに向かって槍を振り下ろす。月の光がない今が彼を仕留めるチャンスだ。だがルスヴンの頭部に向かって振るわれたその槍は、それは突然彼の前に現れた女吸血鬼の頭を砕く結果となった。

「あとは彼女たちに相手をしてもらおう」

 ルスヴンの抑揚のない声が闇に響く。そして更に現れた三人の吸血鬼たちが感情のない目をジェラルダインに向ける。

 ジェラルダインは一歩下がり、槍を構え直した。吸血鬼に血を吸われ吸血鬼となった感染種と呼ばれる吸血鬼たちだ。恐らくルスヴンの犠牲者たちだろう。どれもまだ若い娘の姿をしていた。

 だがもう彼女たちの魂はルスヴンに奪われ、彼の命じるままに動く生ける屍と化している。彼女たちは陽の下を歩くどころか、もう二度と自分の意志で歩くこともできない。そんな哀れな女たちが、ジェラルダインの行く手を阻むように彼女の前に立ち塞がる。

 ジェラルダインは無言のまま彼女に向かって来た一人の吸血鬼の胸をその槍で突き刺した。途端にその動きが止まり、肉体が塵となって崩れ落ちる。

 彼女たちはもう死んでいる。故に殺すことはできない。できるのは望まぬままに魔物となったその肉体を、土に還すことだけだ。

 ジェラルダインは残る二体の首をその槍の刃で刎ね飛ばし、とどめを刺した。その死体が崩れて行くのを確認し、そして辺りを見渡すが、もうルスヴンの姿はそこにはない。

 今宵もまた仕留め損ねた。ジェラルダインは唇を噛む。だが深追いはあまり意味がない。朝日が昇る前にルスヴンは己の隠れ家へと帰るだろうし、陽の光の下ではジェラルダインも満足には戦えない。

 ジェラルダインは沈みかける月を憎々しげに見つめ、そして槍をその背に仕舞った。



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