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月影の下に魔は出ずる  作者: 朝里 樹
第三章 死女の恋
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第七節:夢の終わり


第七節:夢の終わり


 クラリモンドがロミュオーとともに時を過ごすようになってから、一年が経とうとしていた。その間、毎晩のようにロミュオーはクラリモンドの髪を撫で、その碧色の瞳を見つめてくれた。

 それは夢のような日々だった。昔の自分であれば探そうとも思わなかったであろう、ただ柔らかな幸せに包まれた日々。それに浸かっている間は何も怖くなかった。

 だが、夢はいつかは覚めるものだ。覚めない眠りは、死の中にしかありえない。だがクラリモンドはその死からさえも目覚めてしまった。死女として、吸血鬼として。

 だから、夢に終わりが来ることは必然だったのかもしれない。だけれどその終焉はあまりにも突然にやって来た。まるで神の行う理不尽な裁きのように。




 終末を齎したのは、ロミュオーと同じく神に仕える神父であり、そして彼の師でもあったセラピオンという男だった。それまでにも何度かロミュオーから話は聞いていた。とても厳格で、神の意志にそぐわぬ存在を嫌悪し、排除しようとする。自分の神とそれに従うもの以外の命は何とも思わない典型的な狂信者。そして魔物と見れば簡単にその命を奪い去る祓魔師の一人。

 思えば、ロミュオーがわざわざ彼の話をしてくれたのは無意識の警告だったのかもしれない。いや、今となってはそう信じたいだけだ。

 セラピオンと、そしてロミュオーの手によってクラリモンドの命は三度目の死を、そして果てしない苦痛を味わわされたのだから。

 セラピオンは断りもなく吸血鬼の寝床を暴き、そして眠りについたクラリモンドの前に現れた。少量の血をロミュオーから貰っていたとはいえ、その頃のクラリモンドは昼間に動けるような状態ではなかった。侵入者の気配に気づき意識は覚醒しても、体は死体のように動かない。

 無論宮殿は他者の侵入を許さないように使い魔たちを見張りに立たせていた。だがこのセラピオンという男は、それらを皆殺しにしてここまでやって来たのだ。クラリモンドは宮殿内から消えた自身の眷属たちの気配を感じて、それを知った。

「悪魔めが。汚らわしい売女めが。血と黄金を吸う魔物めが!」

 憎悪に塗れた声は眠りの向こう側から聞こえて来た。自分の身に危機が迫っていることには気づいていた。だが、体に力が入らない。

 そして無抵抗の死体のような彼女の体に、あの忌まわしい聖水は振りかけられた。神に祝福されたと言いながら、魔物を命を焼き尽くすような死の水を。

 その悪魔のような所業に彼女の体は侵食され、肉を焦がされ骨を砕かれた。それは肉体に酷い痛みを齎した。だが、彼女の心は、より大きな傷に抉られていた。

 セラピオンの後ろには、あの愛しきロミュオーがいた。彼はただ聖水を振り掛けられ、滅ぼされようとするクラリモンドを見つめていた。セラピオンの暴行を止めようともせずに。 

 裏切られた、薄れ行く意識の中でクラリモンドはその言葉を心の内で繰り返した。あんなに彼女が愛した男は、そして自分を愛してくれていると思った男は、あっさりと死女を裏切り、殺そうとした。その事実が、クラリモンドの心を深く抉り取って行った。

 ロミュオーは裏切った。クラリモンドの心を土足で踏みにじった。許せなかった。だがその復讐をしようにも、彼の元へ向かうための体さえも壊されてしまった。だけれども魂は、壊れてはいなかった。

 その夜、クラリモンドは力を振り絞り、ロミュオーの夢の中に自身の霊力を送った。幻惑の力を使い、最後に彼に自身の幻を見せた。

「不幸な方ね。本当に不幸な方ね! なんてことをしなさったの? どうしてあんな人の言うことをお聞きになったの? あなただって、随分と幸せだったでしょうに」

 光に包まれた夢の世界で、クラリモンドは毅然とそう語った。人のためにも、自分のためにも泣いたことなどなかった。例え夢の中であっても惨めな自分の為になど涙を流したくはなかった。

「あたしがあなたにどんな悪いことをして? あたしのお墓を暴いて、あたしの死んだ惨めな姿を見たいと思う程にあなたはあたしが御嫌いだったの?」

 ロミュオーはただ黙って吸血鬼の声を聞いている。その眼は縋るようにクラリモンドを見つめ、だがその口が開くことはない。それが、悔しかった。

「これで、あなたとあたしとの間にあった道は永久に断たれてしまったわ。さようなら。あなたはきっとあたしを懐かしくお思いになるわ」

 クラリモンドはそう言って、彼の夢の世界を去った。もう力も限界だった。そして、クラリモンドは再び長い長い眠りについた。だがそれによって死ぬつもりはなかった。クラリモンドは何度でも蘇る。不死身の吸血鬼として。




 それが、クラリモンドとロミュオーの出会いであり、そして別れだった。あまりにも一方的で、そして屈辱的な裏切りだった。

 何度も復讐を考えた。その血を吸い尽くし、命を根こそぎ奪ってやろうとも思った。ロミュオーを愛していたからこそその憎しみは強かった。それなのに、結局クラリモンドは彼を傷付けることができなかった。恋をしたという自分の感情を壊し、否定してしまうのが怖かったのかもしれない。だが、それ以上に自分はまだロミュオーを愛していたかったのだ。

 彼と共に時を過ごしたヴェネツィアの月影をクラリモンドは眺めている。あの頃よりも幾分も月の光は霞んで見える。この碧色の瞳はが変わらずに透き通っているのに。

 あれから数十年が経った。だが初めて心を抉ったあの傷は、未だ癒えているとは言えない。それなのに、自分はこの銃を使って彼を守ろうとしている。自分でも、何と愚かなことをしているのだろうと思う。だが彼を守っているという事実は、それなりの幸福を彼女に与えてくれる。それに、魔物が彼を狙う理由もあるのだ。

 ロミュオーの師であり、そして彼とクラリモンドの別離の切っ掛けとなった神父セラピオン。彼は表向きは教会の司祭として勤めながら、日夜魔物を襲う狩人としても働いていた。

 多くの魔物があの男の手によって殺された。その中には、恐らく今このヴェネツィアで暴れている人造の魔物たちの同族もいたのだろう。あの醜い魔物たちの手に落ちた宗教者の多くはセラピオンの弟子だった。出来損ないの魔物たちの創造主は、セラピオンに恨みを抱いているらしい。かつて彼との間に確執でもできたのだろう。

 当のセラピオン本人はとっくに死んでいるというのに。いや、だからこそ復讐の意志は行き場を失くし、せめてもの慰めのために彼の弟子たちを狙うのだ。

 クラリモンドは溜息の橋の屋根の上から街中を伸びる水路を眺めた。この橋は元々、ドゥカーレ宮殿の尋問室と牢獄とを結ぶ橋だったという。囚人が投獄される前に最後に見る景色は、この橋の壁に開けられた小さな窓から見える町の景色だったらしい。もう二度と足を踏み出すことができなうかもしれぬ外の景色を、囚人たちは様々な想いで見つめていたのだろう。

 その橋の上で、吸血鬼は背後に迫る気配に振り返った。姿を隠そうという気さえなく、二メートルを超す大男が堂々と橋の屋根の真ん中に仁王立ちしている。だがこの気配は確実に人間ではない。

 この男もまた、恐らく人造の魔物。だが今までに出会ったそれらとはどこか違っていた。まず魔力の気配を感じない。それどころか、血の匂いも。見た目は彫刻のような端正な顔をした男だが、その中身もまた彫刻と同じように無機物が詰め込まれているようだ。何もかもが人為的に造られた物体で構成された魔物。この怪物を表現する言葉となれば、人造人間が相応しい。

 まるで夢を終わらせる使者の如く、奇怪の化け物は無数の星を背に無表情でクラリモンドを見つめている。

「思い出に浸ることも許してはくれないのね、あなた。女心を分かっていませんわ」

 クラリモンドはその大男の方に体を向けた。そしてドレスの裾を捲りあげ、右の掌に銀の拳銃を納める。レ・マット・リボルバー。フランス人のジャン・アレクサンドル・ル・マットという医師が開発した回転式拳銃で、九発の弾丸を回転弾倉に、そして一発の散弾をシリンダー軸の砲身に装弾することができる最新式のコンビネーションガン。

 クラリモンドは親指で撃鉄を起こし、その銃口を男の額に向けた。最初から自分を狙ってきたことを考えると、どうやら創造主はついに自分の造り上げた魔物を殺し続ける吸血鬼に狙いを定めた、ということか。

 つまり、この魔物は対クラリモンド用に創造主が選んだ怪物。恐らく今までの魔物たちよりも強い。クラリモンドは風に揺れる自身の髪を左手で撫でつけると同時に、男の額に向かって躊躇なく引金を引いた。

 弾丸は一瞬で男の眉と眉の間にぶつかり、男の首を仰け反らせた。だが反応はそれだけだった。男は倒れることもなくゆっくりとした動作で首を戻すと、再びクラリモンドを睨みつけた。

「頭も鉄なのかしら。全く嫌になりますわ」

 クラリモンドは悪態を吐きながら連続で引金に力を籠める。だが残り八発の銃弾は男の体のどこの部分に当たってもただ火花を上げて弾かれるのみ。男の体に傷を与えることもできずにいた。

「本当に腹立たしいこと」

 男が体を曲げ、屋根を蹴って突進して来る。橋が崩れてしまうのではないかという地響きがこだまする中、クラリモンドは前方に向かって跳躍し、男の上を通過して体当たりを避けた。

 ただの魔物が相手ならば、銀の弾丸や聖水を込めた弾丸を使えば決定打を与えることは容易だった。だがこの科学によって生まれたのであろう怪物は違う。魔力が体に通っていないのだから、恐らく普通の魔物相手の攻略法は通じない。クラリモンドは素早く銃に弾丸を詰め直し、そして左足のホルスターからもう一丁のレ・マット・リボルバーを引き抜いた。

 二つの銃口から放たれた弾丸が、嵐のように男を襲う。だが男は少し体を仰け反らせるだけで大したダメージを受けているようにも見えない。それどころか、銃弾に体を晒されながら一歩ずつクラリモンドに接近している。

 クラリモンドは銃撃音の狭間に小さく舌を鳴らすと、撃針を下に選択し、弾丸の種類を散弾に切り替えた。そして二つの拳銃の引金を同時に弾く。

 轟音と閃光が飛び散り、宙にばら撒かれた散弾が男を全身を打った。衝撃で男の体の表面が一部剥がれる。流石の人造人間もそれには怯んだのか、一瞬その動きが止まる。クラリモンドはその隙を突き、橋の上から飛び降りた。

 今の装備ではあの男には勝てない。そう判断した上での逃走だった。勝てる見込みの薄い戦いを続ける程愚かではない。

「……最低ですわ」

 地面に降り立ち、ドレスを払いながらクラリモンドは呟いた。あの人造人間は想像以上に頑丈らしい。魔物や生物を殺す時の常識は通じない。だがそれでも弱点はある筈だ。

 しばらく待っても、男がクラリモンドを追って来る様子はなさそうだった。とにかく対策を立てなければならない。あの男がロミュオーを襲う前に、あれを殺し切る方法を。

 クラリモンドは二丁の拳銃を胸に抱き、そしてホルスターに収めた。



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