第六節:宿命の女
第六節:宿命の女
その日からの一年間の時は、クラリモンドにとってはこの上ない幸福の日々となった。恋をする術を知らなかった女にとって、恋を知る機会を与えられなかった男との出会いはその世界を一変させてしまった。見るもの全てが今までよりもずっと美しくなるような、そんな感覚だった。
あの日、ロミュオーと別れてからの眠りから再び目覚めたクラリモンドは、その足でロミュオーの住む田舎町へと向かった。長らく血を飲んでいなかったため、眠りによってある程度回復したとは言え体は重く頭は霞む。それでも一刻も早くロミュオーに会いたい一心で、クラリモンドは馬に乗って夜の闇を切り裂いた。
彼の住む教会の場所は知っていた。この一年の間、何度か彼の姿を一目見ようとそこを訪れていた。その時は言葉を掛けることはできなかったが、今なら心起きなくこの声を届かせられる。
やがて彼の教会は見えて来た。砂岩の扶壁と柱でできた瓦屋根の小さな教会。その左手には雑草まみれの墓地があり、その中央には忌々しく錆びた鉄の十字架が立っている。
同じくあまり手入れもされていない庭の隅には古びた犬小屋があり、老犬が微かな寝息を立てていた。クラリモンドはそれを起こさないようにそっと教会の扉を開き、中に滑り込む。
彼は寝台で一人横になっていた。もう眠っているのかもしれない。クラリモンドが静かにそのカーテンを開き、ロミュオーの傍に立った。
侵入者に気付いたらしいロミュオーが肩肘を立て、クラリモンドを見上げる。すぐに彼もやって来たのが誰なのか分かったようだった。クラリモンドはロミュオーのベッドの上に腰を下ろし、彼に顔を近付けた。
「クラリモンド……」
そう名前を呼ばれただけで、堪らなく心が高揚する。クラリモンドは頷き、語り掛ける。
「随分長いことお待たせしてしまったわね、お懐かしいロミュオー様」
クラリモンドはロミュオーの頬に触れた。自分はもう失ってしまったその温かな体温が、酷く愛おしい。
「もしかしたら、あなたのことを忘れてしまったとお思いだったかもしれないわね。でもあたしはとても遠い国から来たの。月も太陽もなく、ただ空間と影ばかりに支配された、道も地面も空もない場所なの。それでも、あたしはこうしてここにやって来たのだわ。それというのも、恋は死よりも強いからだわ。恋は死を征服してしまうのよ」
それは死をも克服してしまう程に彼への想いが強いのだという、精一杯の彼女の愛の告白だった。それから、ロミュオーとは一晩中言葉を交わした。それは短い間だったけれど、今までにない喜びが心を満たしてくれた。
「あたし、きっとあなたにお目にかかる前からあなたを愛していましたのよ。あの教会でお見かけした時、あたしすぐにあの方だ、って気が付いたの。だからあたし、今までに持っていた愛、あの時持っていた愛、未来に持つであろう愛、それらの愛を悉く込めた眼差して見上げたの。そんな目で見れば、どんな大僧正であろうとどんな王様であろうと誘惑され、跪くのにあなたは平気な顔をしていたわね。あなたはあたしよりも神様を選んでしまったわね。あたし、神様が恨めしいわ。あなたは昔から神を愛していたし、今だってあたしよりも神を愛しているんだもの」
クラリモンドは少し恨みがましくそう言った。男の気を良くするための言葉は口から幾らでも出て来る。それは高級娼婦として生きて来た故の技能であったが、今回ばかりはその言葉の中に本当の気持ちが混ざっていた。神が憎い。自分から彼を奪おうとする唯一神が。
「あたしくらい不幸な、不幸な女はいないわ。一度あなたの接吻で蘇らせてもらいながら、あなたのお心をあたし一人のものにできないのですもの。死んだクラリモンドは、あなた故に墓場の門を破り、あなたを幸せにしてあげたいばかりに取り戻したこの命を、あなたに捧げようと思ってきたのですのに」
クラリモンドはロミュオーの胸に頭を押し付ける。彼の心臓が強くその肋骨を叩いているのが聞こえた。そんな音は聞き飽きていると思っていたのに、ただ新鮮な喜びを自分に与えてくれる。
「私は、神と同じぐらいに君を愛している」
ロミュオーはぎこちにない動作でクラリモンドの頭を撫でながらそう優しい声で言ってくれた。それは彼女を天にも昇る気持ちにもさせてくれる。彼以外の言葉であれば、神よりも自分を優先しなかったことに憤りさえ感じていたろうに。
「本当? 本当ですの? 神様と同じ程に?」
クラリモンドは確かめるように問い、ロミュオーの首に優しく腕を回した。
「それならあたしと一緒について来て下さるわね? 黒染の法衣なんて脱ぎ捨てて下さるわね? あなたは法王でさえなれなかったこのクラリモンドの晴れの恋人になるのだわ。そしてあたしはあなたの運命の、宿命の女となるのだわ。得意に思って良いことよ? 幸福な楽しい生活を、黄金色の美しい生涯を、二人で送りましょうね」
クラリモンドは自分の心情の変化に驚きながらも、しかし本当の幸せと言うものはこういうものであったのかという思いに満たされていた。今までどんなに金銭を享受しても、物を買っても、美味なものを舌に乗せても感じられなかった優しい気持ちが胸に溢れる。それにロミュオーも応えてくれる。
他者の為に生きること、尽すこと。それは下らなくて意味のないことだと思っていた。それに意味を見出せるなんて、思ってもみなかった。
それからの一年間は、死女が生きた時間の中で最も光り輝いたものとなった。しかしそれは同時に、彼女を奈落の底に突き落とすための布石ともなったことに、クラリモンドが気づく筈もなかった。
それからロミュオーとは毎晩のように会い、共に時を過ごした。彼と会うのは専ら夜だった。本当は一日中一緒にいたかったが、吸血鬼としての体がそれを許してはくれなかった。
血を飲まずに長期間過ごして来た彼女の体は確実に弱っていた。万全の状態であれば陽光の下など気にせずとも出て行けるのに、今は昼間の間は眠りにつかなければ夜動けないほどに力は衰えていた。
こんな問題は適当にその辺の人間を捕まえて、血を飲めば解決する。そんなことは分かっていた。だが、一度ロミュオーと出会ってしまってからは、愛してしまってからは、彼以外の人間はどんなものであろうと触れたいとさえも思わなかった。その血を体内に取り込むなど以ての外だった。
しかし、ロミュオーに血を飲ませて欲しいとは頼めなかった。彼は自分が吸血鬼であることを知らない。もしそれを知られれば、聖職者である彼に見捨てられてしまうかもしれない。そう思うと何も行動には移せなかった。
それでもその弱みを見せぬよう、夜は精一杯にロミュオーを愛した。今まで培ってきた己が全てを使って彼を愉しませた。彼が自分の元からいなくなってしまうのが怖かったから。彼が自分を裏切るのが恐ろしかったから。
ロミュオーもそれに精一杯に応えてくれた。昼間は僧侶として教会で働き、そして夜はクラリモンドの元にやって来ては同じ時間を過ごしてくれた。
本当に神と同じだけ自分を愛してくれている。いや、もしかしたらそれ以上に。それが嬉しくて、愛しくて、クラリモンドは彼の為に尽した。その日々は彼女に心の安らぎを与えてくれたが、同時にその生活は体を蝕んで行った。始祖の吸血鬼である体は血の摂取をせずとも彼女を生き永らえさせたが、それでも限界はある。
日増しに彼女の衰弱は激しくなっていた。顔色はより青ざめ、体は満足に動かなくなり、元々低い体温は更に温もりを失って行く。ロミュオーはそんなクラリモンドを心配し、様々な医者に見せた。だが人の医師に吸血鬼の症状など分かる筈もなく、彼らは何の役にも立たない処方箋を置いて去って行くだけの存在となった。
それでも良いと思っていた。彼を傷付けるぐらいなら、自分が命を絶つことも厭わない。もう一度は死んだ身なのだ。
そう自分を納得させようとしたが、心の底ではロミュオーともっと共に過ごしたくてならなかった。そしてその命を長らえさせるための機会は、唐突にやって来た。
ロミュオーと再会し、数か月も過ぎた頃。共に一夜を過ごした翌朝にもう簡単には寝台から起き上がれぬ程にクラリモンドは弱り切っていた。ロミュオーはそんな彼女を心配し、その寝台の側に座ったまま朝食を取っていた。
クラリモンドは固形物を食べることができないから、いつも朝食を口にすることはなかった。それでも彼が側にいるというだけで気持ちが救われたから、朝餉を食すロミュオーを隣で見つめているのが日課だった。
そしていつもと同じように彼女が薄目を空けて見ていると、ロミュオーはナイフを取り出して果物を剥こうとしているところだった。
その時だ。ロミュオーはナイフの扱いを誤り、指を深く切ってしまった。鮮血が数滴飛び散り、その内の二、三滴がクラリモンドの顔に掛かった。途端、彼女の嗅覚は新鮮な血の匂いを脳に響かせ、一瞬理性を飛ばしてしまった。
気がつけば、クラリモンドは彼の指に吸い付いていた。傷口から流れる血が舌を染め、喉を潤す。その血は今までに飲んだどんなものよりも美味であったと同時に、癒された体が彼女に生気を吹き返させ、それが冷静さを取り戻させる。
クラリモンドは彼の指に自身の牙が穴を空けなかったことに安堵しながら、そっとその唇を指から離した。
「あたし、もう死なないわ……」
クラリモンドはロミュオーの首に手を回し、彼の体を抱きしめながら囁いた。ロミュオーの血で体が満たされる感覚。それは殊更に大きな感慨を吸血鬼に齎した。
「あたし、まだまだこの先あなたを愛することができるのだわ。あたしの生命はあなたの生命の中にあるのだもの。あなたの豊かな尊い血の滴りは、世界中のどんな不死の霊薬よりも貴重で効能があるの。だってそのお陰であたしは生命を取り戻したのだもの」
そう言葉を発しながらも、クラリモンドはロミュオーが自分の正体に気が付いてしまったのではないかという恐れが湧き上がって来るのを感じていた。
それからは無論、クラリモンドが表立って彼の血を吸うことはなくなった。だが彼の血の誘惑には抗い難く、彼女は密かに彼の血を吸い続けていた。
夜、ロミュオーの飲む酒に薬を混ぜ、深い眠りに陥らせる。そして彼の白い腕に留め針を刺し、ほんの一粒浮き出た丸い赤い血を舐める。それが毎晩の儀式となった。
一滴、留め針の先がほんの少し染まるだけの赤い小さな一滴、それだけの血があれば命を繋げる。ロミュオーをまだ愛し続けることができる。その一心で彼女はその僅かな血を啜った。彼に気付かれることのないよう、慎重に。それでも彼の体を傷付けねばならないと思うと、自分の弱さに腹が立った。
彼と出会うまでであれば、たくさんの人間たちを周りに侍らせて思う存分血を啜ることができただろう。でも今はもうロミュオー以外のどんな男も酷く汚らわしいものに見えてならなかった。そんなものに牙を突き立てることなど御免だ。だから。
数滴の血を名残惜しそうに飲み込んで、クラリモンドはロミュオーの静脈から口を離す。そしてあらかじめ用意してあった軟膏を傷口に塗り、丁寧に小さな布で彼の傷口を覆う。これで傷はすぐに治る。それでも心を苛む罪悪感は晴れることがない。
そんな日々がまた一月ほどの間続いた。だけれど幸福の終わりは、唐突にやって来た。




