第五節:死女の恋
クラリモンド――私がどうして彼女のことをそう呼ぶのか。本当は彼女がなんという名前なのか、私はちっとも知らない。しかし私には、彼女のことをクラリモンドと呼ばなければならないような気がしていた。そしてもしいつか彼女に名前を尋ねることがあれば、本当にクラリモンドという名前を持っていることに賭けたい。
ハンス・ハインツ・エーヴェルス『蜘蛛』より
第五節:死女の恋
クラリモンドの運命を大きく変えたその日、彼女はイタリアの水の都における暮らしを謳歌していた。その頃は丁度フランスで魔物狩りが盛んになり、毎夜のように付け狙われる煩わしさからパリを離れていたのだ。ヴェネツィアはパリとは全く違う趣を持った町ではあったが、大きな運河が縦横に流れるその景色は中々に面白く、美麗なものを好む彼女の趣向をそれなりに満足させていた。
復活祭の週、そんな町にて叙聖式が行われるという話を耳に挟んだ彼女は、教会に向かっていた。初めは神を盲信し、彼の為に己の全てを捧げんとしている世間知らずの若い僧侶を見物してやろうというぐらいの、軽い気持ちだった。
吸血鬼の身でありながら真昼間に教会に出入りするのに抵抗がない訳ではなかった。だが、パリで野蛮なものたちに狙われ続けていたお陰で自分の正体を隠す方法は良く知っていた。
魔力を抑え、牙を見せず、ただの女と同じように陽の下を歩く。それだけで大抵の人間は彼女が吸血鬼であるとは見抜けない。教会の人間であろうともそれは同じだ。聖職者が皆魔物との戦い長けている訳ではない。だから正体をひけらかさなければそう簡単に正体が見破られることはない。
しかしそれは危険な賭けでもあった。吸血鬼退治や魔物退治の訓練を受けている人間や、同じ魔物が相手ならばすぐに正体がばれてしまう可能性もある。しかも陽の光の下では幾ら始祖の吸血鬼であろうともそれらを相手取って戦い、勝つことは難しい。
それでもクラリモンドは恐れを抱いてはいなかった。別に戦うことだけが相手に勝つ方法ではない。吸血鬼と化したことで手に入れた彼女の魅了の魔眼は、魔力に抵抗の薄い相手であれば男だろうが女だろうが、人であろうが魔物であろうが意のままに虜とすることができる。力の強い相手であっても操ることはできずとも、戦意を喪失させることぐらいは容易い。
それが彼女の吸血鬼としての生き方だった。自分以外に存在するものの基準は自分に害となるか、得となるかのどちらかで判断する。人も魔物もいつかは裏切る可能性を持っている。だから誰かの為に生きることは無駄なのだと信じて疑わなかった。
そしてその日、教会にて新たに神の祝福を受けようという哀れな人間は、女を知ることもなくただ神に身を捧げ続けて二四にもなった青年だった。それは丁度クラリモンドが命を絶ったのと同じ齢。クラリモンドは教会の側廊の欄干に軽く体を預けながら、身廊を進むその男を眺めていた。
その顔には未だ少年のあどけなさが残り、目にはただ純真が溢れていた。それは物心ついた頃から俗な世間と関わらず、神学校という塀に囲まれた世界の中で過ごして来たということの何よりの証拠だったのであろう。それは今までクラリモンドが出会ってきた人間たちとは、全く正反対の存在でもあった。
女を知らぬ若者、名はロミュオーというらしい。クラリモンドは欄干の向こうで粛々とつまらぬ儀式に参加している彼の姿をぼんやりと見つめていた。あの恐ろしい唯一神に自らの身を捧げる儀式など、ただ見ていたって楽しいものでもない。暇潰しに来たは良いけれど、やはり教会の空気はあまり気分が良くないし、もう帰るべきかもしれない。
そんな風に気まぐれに考えていると、慇懃に首を垂れていたロミュオーが何かに気が付いたように不意に顔を上げた。
彼の目線は真っ直ぐにクラリモンドに注がれていた。その瞳は、彼女に向けられたまま凍ったように動かない。
そんな風に見つめられるのはクラリモンドにとっては日常のこと。自分の美貌に惑わされぬ男はいない。だからロミュオーとの出会いなんて、永遠の命を持つ彼女とっては遠い過去の時間の中に埋没してしまう筈だった。
それなのに、混乱の為にクラリモンドは口元に指を当てる。彼のひたむきで純粋な視線に晒された瞬間、何の脈略もなく彼女の中に今までに感じたことのない不可思議な感情が湧き上がった。
ロミュオーの瞳は、まるで不純なものが淘汰されてしまったような印象を抱かせ、ただ憧れに満ちた眼差しがクラリモンドに向けられていた。
生まれてから今まで、ずっと汚れた世界で好奇の目に晒されて生き続けていた彼女にとって、それは酷く新鮮なものだった。それが彼女の興味を引いたのだろう。クラリモンドは自分の中に生まれた感情を説明しようとそう理屈を捏ね回す。だがどんなに考えても、今胸を支配する感覚がそんな合理的なものではないということも直感的に分かっていた。
声を掛けようかとも思った。とにかく彼の気を引きたかった。物理的な利の為ではなく、ただ心から純粋に。それにただそれを考えるだけで胸が高鳴る。
こんな気持ちは初めてだった。そしてクラリモンドは、その感情を持て余す。どう扱えば良いのか分からない。
だが若い僧侶は無情にもクラリモンドから目を離し、儀式の進行のために祭壇の方へと進んでしまんとしていた。懊悩を断ち切るように強い意志を秘めた顔で。
その瞬間、クラリモンドは今までにない程に、そして自分でも抑え切れない程に神を憎んだ。そしてそのあまりにも強い嫉妬が、どうしてこんなにも心の奥から溢れ出してくるのか、戸惑いさえ生じてしまう。
だけれどその感情は不思議と嫌なものではなかった。黒く濁った感情の中に不意に覗く澄んだ想い。自分の中にそれを感じることがとても心地良かった。
だがその時彼女はその感情の名前を知らなかった。それでも、ロミュオーという男を誰かの手に渡すことはどうしても嫌だという強い意志だけは握り締めていた。
「もしもあたしのものとなるのなら、あたしはあなたを楽園にいる神様よりも幸福にして差し上げますわ」
クラリモンドはそう、声に出すことなく胸の中で言葉を紡ぐ。今まで様々な男たちに向かってやってきたことと同じ、慣れた行為。それなのにこの時だけは、ロミュオーを見つめる自分自身の眼差しが特別なものに思えた。
「そんな経帷子など脱ぎ捨てて、みんな破っておしまいなさい。その聖杯の葡萄酒などみんな零しておしまいなさい。あたしは美で、青春で、生命です。あなたの唯一神が代償に何をくれるというの? あたしはあなたを神の手から奪い取りたい。これまでにいったい何人の人間が神のために涙を流したと思っているの? あたしはあなたに、一筋の涙も流させはしないのに」
眼差しに乗せたその言葉は、きっと彼に届いたことだろう。その確信はあった。それなのに、式は滞りなく進み、終わってしまった。ロミュオーは神の祝福を受け入れ、そしてその手に渡ってしまった。
それを知った直後、クラリモンドの胸は今までにない苦痛に締め付けられた。
ロミュオーが教会の扉を開き、玄関を跨ごうとしている。明るい陽の光の下に彼が去ってしまう。彼が向こう側に行ってしまったら、もう二度と彼に会えなくなってしまう。そんな衝動がクラリモンドの内に沸き上がった。
そして吸血鬼の手は、気付けば神に祝福された直後の僧侶の腕を掴んでいた。焼けるようなロミュオーの体温を感じるとともに、クラリモンドの目は今にも泣いてしまいそうな表情で振り向いた彼の顔を見つめた。
「不幸な方ね……。本当に不幸な方。なんてことをなさったの?」
その言葉は思わずクラリモンドの口をついて出た。彼の顔は、神の下僕となったことを酷く後悔しているようにも、そしてクラリモンドとの間にあるべきだった絆を断ち切ってしまったことに絶望しているようにも見えた。
ロミュオーには自分の心が届いていたのだ。クラリモンドは彼の瞳のそれを確信した。だからこそ彼が不幸に思えてならなかった。自分は、男女に関わらず人を悦ばせるための術は幾らでも知っている。そしてロミュオーの為ならば、どんなことでもできる。自制の効かぬ思いが心の内から溢れ出そうとする。
だがクラリモンドの青白い指が陽の光に触れたとき、彼女は思わずその手を引いていた。そして美貌の吸血鬼は口元をきつく結び、教会の中へと逃げ去った。
死により一度は止まった心臓の鼓動が、今までにない程に早鐘を打っていた。人であった頃、そして吸血鬼となった後にも知り得なかった感情、それが紛れもなく恋情であるということを、その時クラリモンドはやっと受け入れた。そのような感情とは無縁に生きて来た一人の女は、死んで初めて恋をしたのだ。
その日から始まった一年は、まるで暗い海の底に縛られ続けるような心持ちで過ごすこととなった。今まで以上に何をしても楽しみを感じられず、ただ愛しい男のことだけが心を支配する。気持ちの逃げ場を求めれば求める程に結局は道は狭くなり、また自分を追い詰めてしまう。
ロミュオーはもう神の手に渡ってしまった。それが彼の望む道だったのだと納得しようとしても、それはクラリモンドの心に神への憎悪をより深く刻み付けることにしかならない。
神はどうして自分から全てを奪って行くのだろう。自身を信じるもののみを救い、他のものたちに破滅を与える存在を、何故人も魔物も信じられるのだろう。
その心の焦燥はやがて体にも現れ始めた。唯一の食糧である血液さえもが喉を通らなくなり、かつては力の源であった月の光もただその心を干乾びさせる灼熱の炎のように思えるほど、クラリモンドは衰弱して行った。やがて寝台の上から動けない程までに弱った吸血鬼は、眷属である一匹の蜘蛛に最後の魔力を与え、伝えた。
「ロミュオーをここへ呼んでちょうだい。ある貴婦人が死にかけていると、そう伝えて?」
蜘蛛は彼女の前で長身の男の姿に変化し、頷いた。その銅色の顔には主を心配するような顔が浮かんでいたが、クラリモンドは首を横に振り、そして掌を小さく振って彼に早くロミュオーの元に向かうよう促した。
あの子ならば、ロミュオーを連れて来てくれる。クラリモンドの大切な大切な蜘蛛だから。
近くのテーブルに飾った白薔薇の花が、枯れて花びらを散らしている。琥珀織の帳の向こうにそれが微かに見えた。
自分はこのまま死ぬのだろうか。そう思い、クラリモンドは微笑んだ。それも良いかもしれない。もうかつて欲しかった老いることのない体は手に入った。だけれど今はロミュオーが自分の元にいないのならば、生きている意味もないと思い始めていた。こんな気持ちになったのは、初めてだった。
二度目の死。それは、どんなに安らかなものとなるだろう。もうこんな胸を焦がす思いに悩むこともなくなるのだから。
クラリモンドは目を閉じる。やがてその意識は遠のいて行く。
その彼女の目を再び覚まさせたのは、唇に触れた柔らかな感触だった。生きている人間の、暖かな、そして優しさを感じさせる接吻。それは今までに受けたどんな男や女からの愛情表現よりもクラリモンドの心に染み渡り、クラリモンドは目を開けずともそこにいるのが誰なのかが分かった。
「あら、ロミュオー、あなたでしたの?」
吸血鬼は彼の思ったよりも太い首に両手を巻き付け、まるで道端て出会った友人に声を掛けるようにわざとらしくそう言った。目を開けば、顔を酷く赤くしてどぎまぎとした彼のまだ幼さの残る顔が視界に映る。今はその全てが狂おしく愛おしい。
顔に何か暖かな液体が触れた。それはクラリモンドの頬を伝い、流れて行く。やがてそれがロミュオーの瞳から零れる涙なのだとクラリモンドは気が付いた。
「どうなさったの? 何が悲しいの? あたし、随分と長い間あなたのことをお待ちしていたのよ。でも待ちきれなくて、死んでしまったのだわ」
クラリモンドはその指で優しくロミュオーの涙を拭った。彼は自分を愛している。ロミュオーの流した悲しみの涙が、クラリモンドにそれを囁いてくれた。
「あたし、あなたを愛していてよ。あたしが言いたいことはこれだけよ。だから、あなたがキスで返してくれたこの命、お返ししますわ」
クラリモンドは深い眠りに落ちるのに抗うように、やっとのことでその言葉を伝えた。愛しているという言葉は今までに何千何百と囁いて来た。だが、本心でこれを言ったのは、この日が初めてだった。
そしてクラリモンドは眠りに落ちた。だがこの眠りには覚醒の確信があった。死女は、また恋をするために蘇る。愛しいロミュオーのために。だから彼女を空間と影ばかりが支配する死の闇へと引きずり込もうとする眠りに、恐怖など微塵も感じなかった。




