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月影の下に魔は出ずる  作者: 朝里 樹
第三章 死女の恋
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第四節:死と乙女

Gib deine Hand,du schon und zart Gebild,

さあ手を出しなさい、美しく繊細な創造物よ

Bin Freund und komme nicht zu strafen.

私はあなたの友であり、あなたを罰することはない。

Sei guten Muts! Ich bin nicht wild,

心を鎮めなさい、私は野蛮なものではないのだから

Sollst sanft in meinen Armen schlafen.

そして、私の腕の中で穏やかに眠りなさい。


マティアス・クラウディウス『死と乙女』より


第四節 死と乙女


 クラリモンドは引き出しの中に手を伸ばし、その華奢な指には収まり切らない大きな拳銃を握り締めた。クラリモンドはその鉄の塊を、もう片方の手で愛おしそうに撫でる。

 フリントロック式と呼ばれる形式のその銃は、クラリモンドの白い手にずしりと重く伸し掛かる。握り続けていれば手が痺れてしまいそうだが、今はその重さがとても頼もしかった。

 この拳銃もまた、あるパトロンにねだって買い入れて貰ったものだ。あの男はクラリモンドが欲しいと言えばただ金を出して、それで何をするのかとさえも聞いては来なかった。観賞用に買ったのだ、ぐらいにしか思われていないのだろう。実際に高価で珍しいものはこの宮殿に溢れていたし。

 だが変に疑われるよりもこちらの方が都合は良い。

 クラリモンドはそっとその銃口に唇を触れた。そこから伝わる冷たい鉄の味が今は心地良い。

 この筒に火薬と弾丸を込め引き金に指を掛ければ、剣よりもずっと小さなこの武器は即座に人の命を殺める道具となる。意志を持たぬ唯の物、だからこそこ、銃は人間と違って裏切らない。

 銃を扱ったこと自体は何度かあった。狩りに行きたいと願えば彼女の望むまま連れて行ってくれる男を見つけるのは容易かったから、銃の使い方も知っていた。狩猟で使う銃はもっと大きかったが、この大きさでも人を殺すのには十分過ぎる威力を持っている。だからこそ信頼できる。

 クラリモンドは銃身を握ったままベッドに戻り、腰かけた。柔らかな綿の感触に体が沈む。首を上に曲げると白く清らかな天蓋がそのみどり色の瞳に映った。

 クラリモンドは思う。自分が歳を取り、この顔が、体がしわがれ、今の姿を失ってしまえば、自分を崇め褒め称え、近付いて来た男たちも必ず自分を裏切る。母を捨て、その惨めな最期を看取ることさえなかったあの男たちのように。そして富がなくなれば、自分に仕えている女たちも離れて行く。その果てに自分は何もかも失ってしまう。

 人に見下されるのは嫌だ。母のようにただ醜さだけを残し、抱えて死んで行くのは許せない。

 クラリモンドは鏡に映る己が姿を見た。流れる黄金のせせらぎのように胸まで伸びた巻き髪に、艶のある潤いに満ちた深い緑の瞳。染み一つない肌に、筋の通った小さな鼻と赤な唇。

 この美貌はクラリモンドの誇りだった。他の誰も持つことが許されない自分だけのもの。これだけは絶対に失ってはならないと決めていた。

 その為ならば、どんなことだって受け入れられる。

 クラリモンドは銃口に弾丸を詰めた。そして指で摘まむようにして撃鉄を少し起こし、火皿に用意していた火薬を入れて火蓋を閉じる。

 自分は今日、二十に加えて四つ目の歳を取った。これからはもうこの体は老いて行く一方だ。ならばこの日を持って、この体が刻む時を止めよう。

 クラリモンドは胸に手を当てる。この姿を、体を永遠に留める。そのために必要なのは、死だ。

 死は人のときを止める。ならば醜悪な姿を晒した後にではなく、今この時に死なねばならない。母のように永遠に醜い姿で土の中に埋まらぬために。死神の甘美な腕の中で眠らなければならない。

 クラリモンドは親指で拳銃の撃鉄を限界まで起こした。そしてそれを逆手に持ち直し、自分の左胸に当てる。

 この距離ならば弾丸が外れることはない。この銃は、自分の望む通りに胸を貫き命を絶ってくれるだろう。

 この顔は何にも代えることができない誇り。傷付けたくない。だから、胸に赤い花を抱いて眠ろう。綺麗な綺麗な真紅の花を。

「願わくば、魔の物に」

 クラリモンドに迷いはなかった。この世には、人として死した後に魔物となるものもいるという。そのものたちは、永遠によわいを重ねることなく生き続ける。それは人としての生にしがみ付き続けるよりも幸せなこと。

 そんな幸福を享受できるかは分からないけれど、どちらにせよもう人として生きる道はクラリモンドにはない。

 クラリモンドの細い親指が引き金を引いた。閃光とともに轟音が耳に響いたのも、火薬の匂いが鼻を突いたのも、そして胸の内に痛みが走ったのも一瞬だった。そして安らかな時間は訪れる。

 クラリモンドは己の世界が影と空間のみに支配された闇に包まれるのを感じ、そして瞼を閉じた。


 暗黒の時を隔てて再びその緑色の瞳が見透かしたのは、冷たい闇の中だった。だがそれは死の闇とは違う。体の感覚は鋭敏すぎる程で、この空間が閉ざされたものであることを瞬時に把握し、そしてその向こうの音や匂いまで感じ取った。

「あたしは……」

 声が出たことに驚き、クラリモンドはそっと口元に手を当てた。そこに自分の唇の感覚と、それに触れる指の感覚がある。

 クラリモンドは前に向かって腕を伸ばした。すぐに掌は何か固く平らな物体に当たり、それは力を入れずとも難なく持ち上がった。

 がたりと大きな音がして、クラリモンドの目の前を覆っていた蓋がなくなった。途端に薄明るいい光が目の前に広がる。クラリモンドは目を瞬きながら体を起こした。

 どうやらクラリモンドは棺桶の内に寝かされていたようだった。彼女はその死の匣を出て、冷たい石の床の上に裸足のまま足を乗せた。

 棺桶は石の寝台の上に乗せられていた。寝台の脇には祈祷机があり、青銅のしゃくから青白い煙が漂っている。部屋の光源は蝋燭に灯る炎のみで、クラリモンドの影が壁に揺れている以外に動くものはない。

 その小さな光源だけでもクラリモンドの目ははっきりと部屋の全体を見渡すことができた。ここはコンティニ宮の地下室だ。ならば、自分は死に損なったのだろうか。

 クラリモンドは首を横に振る。いや、違う。自分は確かに死んでいた。

 自分は今までとても遠いところにいた。月も太陽もないただ空間と影ばかりある遠い国に。道も地面も空気も、そして時の流れもないところから自分は帰って来た。死んでいた筈なのに覚えている。しかしその記憶が彼女が死したことを証明している。不思議な感覚だった。だが妄想でも夢でもない。

 クラリモンドは己の胸に手を当てた。絹のドレスを纏ったその箇所に、傷痕はない。それは彼女が人ならざるものとして生へと帰還したことを示していた。

「あたしは一度死んだ女として、生きるのね」

 クラリモンドはその矛盾した言葉に思わず微笑み、そして自分が死女となった事実を何の抵抗もなく受け入れる。それが、吸血鬼クラリモンドの誕生の瞬間だった。




 それからの彼女は、鬱憤を晴らすように己が思うままに生きた。彼女の肉体は衰えるどころか、銀や聖水など特殊な素材でできたものでなければ傷付けられてもすぐにその皮膚も骨も治癒してしまう。その血の渇きから自身が吸血鬼となったことを知ったときも、クラリモンドは露ほども絶望することはなかったし、むしろその身に起きた変化を喜んだ。

 死の瞬間から永遠の命を得たことは、すなわち永久の若さを手に入れたことを意味していた。それにクラリモンドの美貌は更に吸血鬼の魅了の力を増幅させた。

 吸血鬼となって唯一面白味に欠けたと思ったのは、食物を口にできなくなったことぐらいだ。液体であれば喉を通すこともできたが、固形物はどうしても飲み込めなかったし、そもそも舌の上に乗せても以前のような鮮明な味を感じることはできなかった。一度死した体の糧となるのは、もっぱら血液だった。

 だが食物が食べられなくなったからと言って、摂取する血液に困っていた訳ではない。放っておいてもクラリモンドの元には人間がやって来た。

 もう既にただの高級娼婦クルティザンヌとして生きるつもりはクラリモンドには毛頭なかったが、勝手に近寄って来る富や食を拒む理由もなかった。男たちは、時には女でさえもクラリモンドの愛を得ようと近付いて来た。クラリモンドはそんな彼らが与えるがままに金銭を享受し、時にはその血を啜って糧とした。

 彼女はまるで巣の中心に佇む雌蜘蛛だった。獲物は、待っていれば勝手に近付き巣に掛かる。ただ普通の蜘蛛と違うのは、罠にかかった獲物が逃げようともがくのではなく、麻薬に溺れるように自ら蜘蛛の元へと這って来ることだった。

 .寄って来る人間の中には、自らの血を啜ってもらうことを望むものたちもいた。どうも吸血行為は相手に対して大きな快楽を齎すらしい。しかしそれがどんなものなのかは興味はなかったから、クラリモンドにとってはただ人から与えられるものの中に血液という項目が増えた、というだけの感想だった。

 老いや病、そして怪我によって自身の美貌が失われないという事実は彼女の心に今までにない安寧を齎してくれ、そして吸血鬼はその第二の生を謳歌した。

 そんな思うままの生活の中でひとつだけ決めていたのは、自分の吸血行為によって相手を吸血鬼にしないということだった。己が眷属は、吸血鬼に変じるとともに意志の疎通が可能となった蜘蛛たちだけで良かった。

 自分を求めてやって来た人間が自分の血で自分に近しい存在になる。それを想像すると虫唾が走った。それは自分の価値を汚してしまうことに他ならなかったし、そもそも蜘蛛たち以外に配下となる魔物が必要になる場面もない。

 食事はあちらの方からのこのことやって来てくれるため、吸血鬼の体があるからといって他の吸血鬼のように人を襲わなければならない必要性は皆無だったし、わざわざ人間や他の魔物に自分から喧嘩を売ることもしなかった。

 ただしあちら側から突っかかって来る場合は別だ。時にはその命を絶とうと、時にはクラリモンドを力尽くで己がものとしようと、野蛮なものたちは襲って来た。

 幸いにも始祖の吸血鬼である彼女の力はそこらの魔物や吸血鬼狩りの人間たちを寄せ付けることもなかったが、身を隠そうともせず人の世界の中心に居座り続ける彼女を狙うものは後を絶たなかった。

 それに応じるべくクラリモンドが選んだ武器は、自らの命を絶つために使った銃だった。彼女は自分を吸血鬼として生まれ変わらせてくれたこの凶器を何よりも信じていた。

 銃は決して裏切ることをしない。意志のある人間や魔物とは違う。冷たく、意志もなくただ自分のために働いてくれる。ただ狙いを付け、指を動かせば相手を自分の力となってくれる。

 故にクラリモンドは銃火器を信頼し、そして好んだ。人間の女の体と違い、彼女の吸血鬼としての腕力や脚力は引金を引いた反応など無きに等しくしてくれたし、何よりその闇夜を見透かす目や、土の上に落ちた葡萄一粒でさえ聞き逃さない耳、それに厚い石の壁の向こうの酒の種類を判別できるような鼻といった感覚能力が、銃弾を放つ上で何物にも代えられぬ武器となった。

 



「本当に、暇な方々ですこと」

 クラリモンドは右手のリボルバー式拳銃に弾を詰め直しながら呟いた。彼女の周りには、十字架を握った祓魔師エクソシストの亡骸が転がっている。

 クラリモンドは汚らわしい虫を見るような目でその男の姿を見た。もうこの男から生の気配はない。クラリモンドは流れ続ける血を避けるようにして後ろに下がり、そして銃を太腿のホルスターに収めた。

 教会の配下の者たちは胡散臭い神とかいう奴の名を盾にして、ただ吸血鬼であるというだけで命を奪い去りに来る。彼らに迷惑は掛けられど掛けた覚えはないにも関わらずだ。

 クラリモンドは教会が崇める唯一神も、それに仕える者も昔から大嫌いだった。ただ自分を信じ、崇め、そしてその為に働く者たちだけに優しい顔を向け、自分を信じない者たちを容赦な残酷に殺戮する。それでいて自分たちが正しいのだという顔を臆面もなくできるのだから、神は魔物などより余程に恐ろしい。

 それに、神を信じていれば母は救われたとは思えないし、自分があんな生き方をしなければならなくて済んだとも思わない。己が信じられるのは、仕えることができるのは、己だけなのだ。

「あたしは悪魔に忠誠を誓った覚えはなくてよ」

 クラリモンドは答えぬ死体に向かって言った。この祓魔師がまだ息をしていた時、彼女に言ったのだ。悪魔に魂を売った女だと。それに対する答えは、彼の頭を吹き飛ばした鉛玉だった。

 そう、クラリモンドを支配するのは神でも悪魔でもない。自分は、誰のためでもなく己が為だけに生きて行く。それがクラリモンドの信念。

 そう決めていた。その筈なのに、吸血鬼が生まれ、そして死んでから初めて心を奪われたのは、彼女が嫌う神に仕える一人の青年だった。



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