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月影の下に魔は出ずる  作者: 朝里 樹
第三章 死女の恋
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第三節:クラリモンド

 Araignée du matin, chagrin, araignée du soir, espoir.

 朝の蜘蛛くもは悲しみ、夜の蜘蛛くもは希望。


 フランスの諺より


第三節 クラリモンド


「あたしに恋をしたことがあるかとお聞きになるの?」

 クラリモンドは片眉を吊り上げ、挑発するような調子でドリアンに言った。

「貴方と一緒にしないで下さる? あたしは一度だけ、本当の恋をしたことがありますわ。愛したとのたまい婚姻まで契った女を自害に追い込んだ誰かにはそんなことは分からないかもしれないけれど」

「それは過ぎた話さ。あの頃の僕は若かった。あのロミュオー司祭が君を滅ぼしたことを後悔しているように、僕も彼女の死を後悔している」

「どうだか。口では何とでも言えますわ。それと、貴方とロミュオーを同列に語るのはやめて下さる?」

 クラリモンドはそう言うと、不老不死の青年に背を向けた。もうこれ以上この男に時間を取られるのは我慢ならない。どうせ何度撃とうが死なないし黙らないのだから、無視するしかない。

「君は本当に猫のような女性だな。気まぐれで、それがまた君の魅力となっているのだから狡い」

「残念だけど、あたしは蜘蛛よ」

 クラリモンドはさして興味もないといった調子でそう告げた。そのままドリアンを振り返ることもなく月影の下を歩き始める。もうあの男も問答に満足したのだろう。追って来る気配もなかった。

 今宵の夜には雲が薄く掛かっている。月の光はその白い薄布を通し、優しい闇の光となってクラリモンドの肌を晒す。

 月の光が体の内側で魔力になって行くのが分かる。だがそれは吸血行為の際に訪れる力と悦楽とが溢れ出すような感覚には及ぶべくもない。

 いや、ただ血を吸うだけではそこまでの感覚は味わえない。クラリモンドは自らの指でその赤く色を塗った唇に触れた。あれは、自分が愛するもの、自分を愛してくれるものとの間のみに生まれるものだった。

「そう、あれは不思議で恐ろしい恋だったわ。遠い過去のことなのに、今でもあの記憶はあたしの思い出の灰を掻き回す」

 ああ、あの忌々しいドリアンのせいで思い出してしまう。クラリモンドは月夜を見上げた。

 あの、人を愛することも人に愛されることも無意味だと思っていた吸血鬼に、初めて恋という想いを与えてくれたあの過去を。




 人間クラリモンド・コンティニの出生は、とても恵まれていると言えるものではなかった。パリの片隅で彼女が生まれたとき既に父の姿はなく、母アンナは私娼として体を売り、日々の食いぶちを稼いでいた。母は容姿だけは美しかったが、生活はだらしなく、客だろうと恋人だろうと、娘がいる家に良く連れ込んでは聞きたくもない不愉快な声を聞かせた。

 貧しい訳ではなかった。母はとても美しい人だったから、男たちは彼女を抱くためにそれなりの金銭ははたいていたようだった。しかし母の体を求めてやって来る男たちと、たった数十フランのはした金銭で自らを売る母。その姿少女クラリモンドの目にこの上なく汚らしいものに映り、まだ十に満たない頃からクラリモンドは男という存在を嫌悪し、女という存在を軽蔑するようになった。

 そしてアンナの姿は、クラリモンドにとって絶対に自分がなってはならないものとなった。

 それでも、母のことが嫌いであった訳ではない。夜、男を呼び寄せている時以外のアンナはクラリモンドに優しかった。決してクラリモンドを叱り付けることはなく、肉体的な暴力を加えられたこともない。食事はきちんと作ってくれたし、客が娘に興味を持っても、決してクラリモンドを差し出すということもしなかった。それに母もまた、彼女には自分のような生活をして欲しくないと彼女に教養を持たせるため、本を買い与え、教師を雇った。

 だからクラリモンドは教養だけは身に付けていった。パリの掃き溜めのような場所での生活から抜け出すため、そして母と同じ道を歩まぬため、クラリモンドもまた必死にそれを学んだ。

 だが、運命はそう簡単には彼女を離そうとはしなかった。母が年を取るとともに客が母の元を訪れる頻度は少なくなり、それに伴って家に入る金も少なくなって行った。

 アンナにうつつを抜かしていた男たちは、母の容姿が衰えただけで母を捨てた。そして母は満足な食べ物と寝床を与えられないことを、毎日のようにクラリモンドに泣いて詫びていた。

 その母の姿が酷く哀れに思うと同時に、クラリモンドは母を捨てた好色な男たちを憎んだ。そして、自分もまたいつか老いるのだという事実に途方もない恐怖を覚えた。

 その頃、クラリモンドの齢はもう十の半ばに達していた。そしてその容姿はアンナ以上に端麗だと評判で、また齢を重ねるごとに本人の意志には関係なく色香を帯びて行った。

 そんな頃の事だ。アンナが病に倒れ、金を稼ぐこともできなくなったのは。クラリモンドのただ一人の普通の娘としての働きだけでは、治療代も薬代も稼げなかった。

 故にクラリモンドは生きるため、そして母の命を助けるため、人にはない己が特徴を利用することになった。人より優れたその美貌を自らが嫌悪した男たちに対する売り物とせざるを得なかった。

 自らが彼女はまず舞台の端役女優となって、そこで当時のパリの富裕層に目を付けられ、大金を得る代わりに彼らの愛人となった。今ならば高級娼婦クルティザーヌと呼ばれていたような存在だ。それは大金を得ることができる最も近い道であったが、同時にクラリモンドの心を蝕む行為ともなった。

 自らの美しさには自信があった。体を売るようなことは、生まれ持ったこの容姿に対する冒涜のようにも思えた。だからせめて私娼や公娼のような落ちぶれた存在にはなりたくなかった。自分の美貌にきちんと価値を認めてくれる人間にのみ、彼女は己の時間を売った。

 幸い、クラリモンドには母が若いころに人を雇って彼女に教え込んだ作法や知識があったから、上流階級の者たちの受けも良かった。何より男たちはクラリモンドの美貌と肉体に溺れ、そして惜しげもなくその金をつぎ込んだ。

 そこに愛など存在はしなかった。相手の男からの一方的な想いはあれど、クラリモンドが彼らに何かを想うことはなかった。彼らは求めれば際限なく金をクラリモンドに費やし、それで没落したものも一人や二人ではなかった。それを見ても、クラリモンドの心は乾いたままで何一つ思うこともなかった。

 一人の男が地に落ちたのなら、また別のパトロンを探せば良い。クラリモンドをものにしようという富裕層の人間たちは幾らでもいた。

 ある物好きな政治家からは大きな宮殿を与えられ、クラリモンドはそこを己と母の姓を取ってコンティニ宮と名付け、母や使用人をそこに住まわせた。高級娼婦としての自分を維持するため、そしてまた新たな客を見出すために社交界にも参加し、そのうちに自分は心で思っていることと関係なく表情を作ることができるのだということを知った。

 次々と男を破滅させて行くクラリモンドを、悪魔だとか吸血鬼などと罵しる者たちもいた。金を使うのはあの男たちの勝手だ。あの男たちが自分にそれだけ払う価値を見出したということ。それで破滅に向かおうと、それはクラリモンドが強制した訳ではない。所詮は金持ちに相手にされない人間たちの妬み嫉みなのだ。そうクラリモンドは思っていた。

 だがそんな生活を続けていたある時、母が死んだ。病の果てに衰弱し、目を閉じた。そこにかつての美しかったアンナの姿はなく、痩せ衰えて、とても心許なかった。

「私の財産といって良かったのは、人が羨んだ見た目と、娘であるあなただけだった。でも、その半分は失ってしまったわ。だから、私に残されたのはあなただけだった。こんな母を捨てないでくれて、最後までともにいてくれて、ありがとう」

 それが母が死の間際に残した言葉だった。母の死に悲しむことはなかったが、クラリモンドはただ虚無感に襲われた。

 クラリモンドに残されたのは、その若さだけだった。家族がいればまだ違ったのだろうが、誰かと一緒になろうという気持ちはどうしても沸いては来なかった。クラリモンドにとっての他人とは、自分に利益を与えるかどうかの存在でしかない。どんな言葉を投げ掛けられ、夜を共にしたとしても、愛情や恋慕といった感情が生じることはなかった。

 その感情の欠落を埋めるため、クラリモンドはひたすらに有り余る金銭を浪費した。宝石や衣服で己を着飾り、少しでも欲しいと思った物には惜しげもなく金を出した。頻繁に晩餐会を開き、そこで様々な酒や食物を振る舞った。

 それでも、彼女は満たされることはなかった。むしろその行為は自分の存在をますます意味のないものにして行くように思えた。何も楽しくないのに笑みを浮かべ続けなければならず、まるで心を動かされもしないのに愛していると言葉を発せねばならない。そんな毎日が彼女の全てだった。




「ねえ、あたしのことを嫌いにならないで?」

 クラリモンドはそう媚びを売るように呟いた。高級娼婦としての自らを売る道を選んだ以上、人に嫌われることはすなわち落ちぶれることを意味する。しかしその人を喜ばせるためだけの言葉を口に出すと、酷く惨めな気持ちになる。 目の前の肥えた男は自惚れに塗れた不快な笑みをこちらに向けている。それが唾を吐き掛けたくなる程に不快だった。

「嫌いになどなるものか。さあ、おいで」

 男はそうクラリモンドを手招きする。クラリモンドは手慣れた所作で男に近付きながら、思う。

 貴様に私の心の欠片たりとも与えてやるものか。これはお前を喜ばせるための言葉ではない。自分のための、自分を守るための言葉だ。そう彼女は心の中で言い訳をした。顔には、ただ仮面のように妖艶な笑みを張り付けたままに。

 偽りの言葉を吐くのにも、心と裏腹の態度を取るのにももう慣れた。だけれど、心はどんな人間にも許さない。人を愛すること、人に恋心を抱くこと、それは彼女のプライドが許さなかった。他人に価値を見出したくなかった。常に人を惑わし、操る立場にいるという実感がなければ壊れてしまいそうだった。だからクラリモンドは思う。

 外見に、言動に惑わされることなく自分というものを本当に好きになれるのは、自分だけだ。




 朝が来ると、既に隣で寝ていたはず男の姿はなかった。一応権力者だから、仕事もあるのだろう。それに微塵も興味はなかったが、部屋の中に一人でいるという現実に幾らか安堵し、クラリモンドはベッドの端に座った。

 ふと見れば、綺麗に磨かれた部屋の床を大きな蜘蛛が這っていた。使用人に見つかれば外に捨てられるか、もしかしたら潰されて殺されてしまうかもしれない。クラリモンドは手を伸ばしてその八本の足を自らの手の甲に乗せた。

 蜘蛛は好きだった。その完成された体の形状や、巣を張りひたすらに獲物を待ち続ける静寂とした生き方、そして誰の力にも頼らず、一人で生きて行く野生の力や強さ。

 他者から与えられる金がなければ生きられぬクラリモンドにとって、それは憧れる生き様だった。

「あたしも、貴女のようになりたい」

 クラリモンドはぽそりと呟いた。蜘蛛は答えることはしないが、彼女の手の上でじっとしていた。

 いつかクラリモンドのことを毒蜘蛛タランテラに例えた人間がいたことを思い出す。この毒蜘蛛に噛まれた人間は、その毒を抜くために踊り続けなければならないとされる伝説の怪物、それがタランテラ。イタリアのナポリに伝わる伝説のようだが、クラリモンドに目を付けられた人間は彼女に踊らされ続けるのだと、そういう意味であるらしい。

 品のない例え話は嫌いだが、この比喩は気に入っていた。蜘蛛は美しい生き物だから、蜘蛛になれるのならばそれも良いと思う。でも現実はそうはいかない。

 彼女の齢はもう二十を超えていた。これからは、体は老いて行くだけなのだと思う。しかし醜い姿の人間となって死んで行くのは、母のように死んで行くのは、クラリモンドには耐えられなかった。だから彼女はある決意をしていた。

 クラリモンドは立ち上がり、蜘蛛を窓からそっと外に逃がした後、ベッドから少し離れた場所にある机の引き出しを開けた。そこには銀色に鈍く光る一丁の拳銃が収まっていた。



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