序章:死女の目覚め
誰も訪はざる山中の
魔の小沼より零り降る
霧が麓を覆ふ黄昏
目覚めて墓を出づる者あり
水銀色の霧霽れて
利鎌のごとき月輝れば
蕁麻の野を往きかよふ
狼どもも形を潜めん
生ける徴や真紅の
血こそ命の泉なれ
糧を求めて月の夜に
神に背きし死者は訪ふ
翩翻として屍の衣
さまよひ歌ふ夜の唄
甘美なれども死の韻律
耳を塞ぎて聞く事なかれ
扉を閉せ窓を鎖せ
山査子の木を尖らせよ
死の花嫁にされぬやう
死の花婿とならぬためにも
スロヴァキア古謡『死者の訪ひ』より
「月影の下に魔は出ずる」
序章:死女の目覚め
満月のロンドンに、死女が舞い降りる。
吸血鬼は石畳の上に音もなく降り立つと、握っていた槍を背に仕舞った。それはすぐに闇に溶けるようにして人の目には見えなくなる。
その目は蒼く、唇は赤く、肌は一切の温もりを失ったように白い。
濃い藍色に染められた長いローブを身に纏ったその吸血鬼、ジェラルダインは夜霧にひとつ溜息を吐いた。二十世紀の初め、霧に覆われた真夜中のロンドン。湿った空気の中で、血生臭い匂いが微かに漂っている。
金の髪を夜風が揺らす。ジェラルダインは顔に掛かったそれを払うことなく、闇に意識を集中する。
この月影の下には数多の魔物や、悪魔に心を売った人間たちが現れる。血を肉を魂を食らおうと、人々の知らぬ間に夜の世界を跋扈している。
魔の物には魔の物を。人々から依頼を受け、そんな怪物たちと戦う、それがジェラルダインの生業だった。また同時にそれは血を啜る手段であり、またかつて人であった頃、何もできぬまま魔物によって家族と故郷を奪われた彼女にとっての贖罪でもあった。
四百年以上も昔のこと、ジェラルダインはある魔物によって家族を皆殺しにされ、自身もまた命を奪われた。そして彼女は唯一人吸血鬼として甦った。
その後ジェラルダインはクリスタベルと言う名の人間と出会った。彼女は吸血鬼である自分を受け入れてくれた友であったとともに、同じように家族と故郷を魔物に奪われた仲間ともなった。
そしてジェラルダインとクリスタベルは自分たちと同じような人々のため、そしてこの吸血鬼としての力を活かすべく、二人でこの仕事を始めた。もう何百年も昔の、夢のような記憶だ。
ジェラルダインはその古の記憶から意識を現実に戻す。その蒼い双眼が闇を見透かす。
夢から目覚めた死女は、血の匂いを辿る。今宵の獲物は彼女と同族。ジェラルダインと同じく始祖と呼ばれる吸血鬼の一人、ルスヴン卿。百年以上前から敵対し続ける彼女の宿敵でもある。
ジェラルダインはローブを翻し、ロンドンの町を歩き始める。